瀬崎祐の本棚

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詩集「暗夜巡礼」 中尾敏康 (2022/07) 土曜美術社出版販売

2022-07-29 21:23:10 | 詩集
第3詩集。97頁に2編を収める。

「月」は姪の死の報せを受けて書かれた作品。話者は、三歳だった姪と男鹿半島でナマハゲを見たことを思い出している。そして姪はナマハゲの異形に恐れおののいたのだ。

   あのとき私は姪にいっさいの説明をすることはなかった。怖
   ろしさのあまり泣くことさえ忘れて顔面が蒼白になっていた
   姪にいったい何をいえばよかったのだろう。どこにも着地し
   ない得体のしれないかなしみを抱えて空を仰ぐ。

大人が興じるために幼かった姪に無用の恐怖を与えてしまったことを話者は悔やんでいる。姪はそんなことは忘れたまま長じて、自分の子どもに接していたのだろうが、話者の中では三歳の姪はいつまでも「私に扶けを求めていた」のだ。

人生でははっきりと善し悪しのつけられないことをいくつも経験する。それらのことが時に歓びになり、悲しみになり、後悔になる。この詩集の作品はそうした思いをていねいに拾い上げている。母の鏡台の引き出しに封がされたまま入っていた祖母宛の手紙(「手紙」)、いちどだけおさないおまえを敲いてしまった記憶(「れきしのみち」)、左利きだった娘を矯正しなかった理由(「火の発見」)などは、母や我が子のことを描きながらも、そのまま作者のこれまでの生き様を振り返っている作品だった。

「金魚」。少年は祖母の巾着からくすねた金子で金魚を買ったのだ。しかしその金魚はすぐに死んでしまった。泣きじゃくる少年を宥めるように、祖母は金魚を裏庭に埋めてくれたのだ。しかし、あの日少年が泣いたのは金魚の死を悼んだからではなく「祖母が少年に/金魚の代金の出所を訊かなかったからなのだ」。

   ふるさとに眠る金魚は
   とうに土になっているはずだ
   あのとき
   祖母が金魚と一緒に埋めてくれた
   少年の罪も土に還っているだろう

盗みを咎めなかった祖母がいて、その祖母の気持ちに泣いた少年がいる。最終部分は、今でも金魚を見かけると「少年の稚い両の手は/なつかしい痛みに顫えるのです」

このように、人が生きようとする様を、そしてそれは常に寂しいものとともにあることだということを、真正面から捉えている詩集であった。
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詩集「分水」 北島理恵子 (2022/06) 版木舎

2022-07-27 11:30:52 | 詩集
第3詩集。106頁に22編を収める。

冒頭に「etching」という銅版画に材をとった作品が置かれている。銅版につけた傷の部分を腐食させて版を作るのだが、その工程は、作品を作るという行為の時間が閉じ込められていくことのようだった。

「列」。「潮の焼けた匂い」がするところで「とてつもない数の生き物が」列をつくっているのだ。なにかに導かれるような列で、「みな躰から/灰白色の粉を/歩くたび道にこぼしていく」のだ。

   叫びたいのにわたしは声が出ない
   かなしばりにでもあったように口が開かない
   波にさらわれたのか
   それとも隠されてしまったのか
   逆側の皿も
   鉛の分銅も見当たらない

なにか厄災があったのだろうか。わたしは列に並ぶ人を見送ることしかできないでいる。列に並ぶ人にはその定めがあるのだろう。その中に見覚えのある顔の女がいて、「わかっている/と 口が動くのがはっきり見えた」のである。悲劇を見送ることしかできない無力感がわたしを捉えている。

「廊下」。隣の家とわたしたちの家をつなぐ渡り廊下。わたしたちはとなりの家で生まれて、こちらの家で家族が代わる代わる風呂に浸ったのだ。そうやって一日ごとの営みをくりかえして「幾年もかけて/家が家のかたちになった途端/わたしたちは/独り立ちするのだった」。家、血脈、習わし、呪縛。わたしたちが疑いもなく受け入れているそのようなものが、静かにわたしたちを存在させている。その静かさが美しくもあり、怖ろしくもある。最終部分は、

   双子のような家
   ずっとそう思っていたのに

   聞けば
   となりの家も
   そのまたとなりの古家と
   渡り廊下でつながっているのだという

すべてを受け入れていると思っていた世界には、さらに深いところがあったのだ。わたしたちの存在はどこまで行っても逃れられないものに包括されてしまっているかのようだ。

この詩集に収められたどの作品にも、暗い足元を流れるものが在る。その感触は、絡みついて歩みを妨げるようでありながら、どこかに懐かしいものにも感じられる。それは祖父母から父母へ、そしてわたしへと流れているものでもあるのだろう。母を詩った「あかまんま」「きせ」は殊に印象深かった。
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詩集「レジリエンス」 南原充士 (2022/07) 思潮社

2022-07-19 22:15:51 | 詩集
これまでにも言葉遊びの作品を集めた詩集や、時間について論じた作品を集めた詩集を作っている作者の第15詩集。109頁に39編を収める。
物語性の強い作品もあれば、並んだ美術館の絵画作品に想を得たと思われる作品もある。

「復元」は、「ゆれる川面を見ると/体の中の水が揺れる」と、実際の大地にある水と体内の細胞が含んでいる水を重ね合わせて感じ取っている作品。

   空が近づくとひとは遠ざかり
   高地から海は間近に迫る

      すべては止まれ
      散らばるスティル写真

         拾った化石に閉じ込められた水滴
         人類のクロニカルを跳び越える極氷

視点が広く世界を眺めるものとなっており、そこに身体感覚が上手く絡んでいた。

詩集タイトルのレジリエンスという言葉は、復元力、回復力という意から自発的治癒力といった意味合いでも使われるようだ。詩集カバーには柱の上に乗ったバランストイが描かれている。あとがきによれば、「読者が落ち込んだ時に気持ちを明るくしてくれる」詩集を目指していて、「エンターテイメントとして」楽しんで欲しいとのこと。

「ある日」は散文詩。「心の影がすっと外部へ延びて」いったので、話者はそれを引き込もうとするのだが手におえないのだ。すると、かたわらに何者かが立ち止まりこちらを見ているのである。

   時間さえ長物に溶け込むかと感じられるほど長い時間がたったと
   思えた。かたわらの者はあまりにじっと見続けるのでついそちら
   に目をやったとたんにすっとその者(たぶん女のようだったが)
   が駆け寄り長物に身を投げた。次の瞬間その者の姿は消え 続い
   て長物がしゅっとかすかな音とともに引っ込んだ。

さあ、何者かに憑依されたかもしれない「心の影」はこれからどうなるのだろうか? 怪異譚の体裁を取りながら、全体が大きな暗喩になっている作品だった。

さまざまなスタイルの作品が並んでいるのだが、それはとりもなおさず、作者自身をさまざまな角度から検証し直していることでもあるだろう。こんな作品を書いてしまう自分っていったい何者なんだ?と、作者自身が楽しんでいるように思えてくる詩集だった。
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詩集「遠景」 井戸川射子 (2022/06) 思潮社

2022-07-16 21:10:21 | 詩集
第2詩集。93頁に24編を収める。

親しみやすそうな口ぶりなのだが、実は容易には打ち明けてくれない秘密も抱えている、そんな雰囲気が漂う。つい騙されそうになる。そんな言葉感覚に魅せられる。

「水島」は、無人島の海水浴所の光景を描いている。まだ体が「ぐにゃぐにゃ」のあなたを岩場に置いて泳いでいる。

   海はにおいが強く
   どちらかといえば不快だった
   浮いているだけで
   ずっと楽しいというわけにはいかず
   岩で掠った傷から
   出てきた血を温かい海に溶かした

泳いできたわたしたちは赤い肌になり、「あなたもずいぶん/赤くなっていた」のだ。楽しいはずの家族行楽の思い出のひとこまでありながら、なぜか、わたしたちもあなたも顔を失っているような感触がある。

「あなたはまだ若い、知らない」では、砂漠で「たくさんの親子が/地面に潜っている」のだ。退屈した子どもたちが出ようとすると、親は「こんな子で、と言い訳」をしたりする。砂に埋まっている家族は、見えない砂の中で必死に何かを探していたのだろうか。家族であるために必要なものがそこに隠されているのだろうか。のどかなものと切羽詰まったものがせめぎ合っている。

詩集タイトルになっている遠景という作品はないのだが、その言葉はいくつかの作品にあらわれていた。「大きくなれば遠景にも配慮ができる」(「どれも潮のにおいを帯びて」)、「あちらは光る遠景」(「武庫川」)など。遠景は、話者が今のこの場所を確認するために必要な醒めた光景なのかもしれない。

「育ち喜ぶ草」では、わたしはフェンスに巻きつく草をこまめに取り除いている。草に「連なって滝みたい、と褒めると/そうやって何かに喩えるのはやめて/と強い声を出され」たりもするのだ。

   みんなも何かと見比べるために、
   わたしを見つめてはいない?
   と振り返ると草は静まり
   わたしの説明の手は行き場を失い
   そのまま細い草を
   引きちぎる動作をした

どの作品においても言葉の連なる位置をすこし斜めにずらせて、新しい風景が見えることを企んでいるようだ。
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詩集「白と黒」 なんどう照子 (2022/06) 土曜美術社出版販売

2022-07-12 18:51:31 | 詩集
第2詩集。113頁に27編を収める。金時鐘の跋文が付いている。

詩集のはじめの方に、すべてが平仮名表記の「あめ」という作品が置かれている。あめのひには「おかあさんがつぎつぎに/いろとりどりのかさをさしてむかえにくる」のだが、「ろくねんまえの/つめたいさんがつのうみに/きえてしまったおかあさん」もやってくるのだ。

   あめのなかへ
   ごねんにくみのむすこをつれてもかえれず
   くつばこのなかの
   よごれたうわぐつをみていた
   あめをみあげるむすこにきづいても
   こえをかけられずに
   しずかにかえっていった

何の説明も感想も不要としたところにぽつんと、しかししっかりと成立している作品である。おとこのこもあめがふると「しんだおかあさんが/むかえにくるようなきがして」まっているのだ。そんな日のこうていは「しみるようなあめ」のせいでうみのようにみえるのだ。漢字を用いなかったことによって余分な感情の昂ぶりが抑制されており、より強く伝わるものがある。

ある日、突然に哀しいことは起きる。作品「睡蓮」「植物」では、異国の地で娘婿が交通事故で亡くなったことが詩われている。それに続く平仮名表記の作品「KAZOKU」は、そのようにして家族を喪失した話者の呟きである。

   やがてわたしもほんとうのそらになり
   ながれながらうすれてはとおざかるかぞくからさえも
   ときはなたれてしずんでゆくだろう
   このそらのふかいもりのなかへ
   くちはてたいっぽんのえだになって

辛いことを受けとめてそれからの日々を生きていかなければならない。受けとめるために、詩を書く。詩は、これからの日々を生きつづけるために書かれている。

紹介した作品は平仮名表記だったが、他の作品は漢字を使用した表記となっている。
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