若い書き手からベテランまでの27人の作品を載せている。同人誌ではなく、毎号の参加者を募って発行している。このような発表形式の場は貴重であろう。志久浩介の表紙画はいつもインパクトがある。
「夏」坂多瑩子。いつの夏の想い出なのか、「とらっくいっぱいのセミ売りが通りすぎ」たり、こわいようと泣くだれかは「赤い紙をぺたりと貼られ」た夏なのである。なぜか「白い帽子をかぶった大人」がどんどん増えていく夏は、あの繰り返してはならない暑く長すぎた季節を連想させる。最終部分は、
泣きながら汚れた帽子を洗っている子を見たことがある
あたしをあたしがみていた
いつもの作者にある苦いユーモアは封印しているが、抒情的でありながら社会性の広がりも持った作品であった。
「ボロニアピナータ」中村梨々。タイトルはボロニア属の花の名前。おそらくはこの花が飾ってあった病室で闘病していた父を送った作品なのだろう。身体には静かな生命現象が儀式のようにあって、ついには散骨として空に舞いあがる。「空洞から空洞、ほとほと、父親とか娘とかどこかで谷折りされている/折がった湿った紙、内側が外側にひわって、はなびらみたい」なのだ。冷静な観察とそれによるおだやかな描写なのだが、哀しみが内在している。最終部分は、
目をつむってボートに乗る。ふたりで乗ったと思ったのだけれど、私は
ひとりで、ボロニアの花がたくさん咲いている、ところを目指す。
「光る砂」光冨郁埜。手もとにあった光る砂をほしがるみなにわけたらなくなってしまった。するとみなはどこかへいってしまったのだ。そのような人たちなのだが、わたしは今度はあたらしい光る石をさがし、それもなくなれば、光る水や光る空気をさがそうと思うのだ。
そうしてわたしの手のひらから
すべてがうしなわれたとき
みなが光るさまがせかいの光るさまとなり
わたしのうつむきがみなの歓びとなる
なにか宗教的な高みのようなものも感じてしまう作品。私(瀬崎)は目の前の光る砂をほしがることしかできそうにないが・・・。
「夏」坂多瑩子。いつの夏の想い出なのか、「とらっくいっぱいのセミ売りが通りすぎ」たり、こわいようと泣くだれかは「赤い紙をぺたりと貼られ」た夏なのである。なぜか「白い帽子をかぶった大人」がどんどん増えていく夏は、あの繰り返してはならない暑く長すぎた季節を連想させる。最終部分は、
泣きながら汚れた帽子を洗っている子を見たことがある
あたしをあたしがみていた
いつもの作者にある苦いユーモアは封印しているが、抒情的でありながら社会性の広がりも持った作品であった。
「ボロニアピナータ」中村梨々。タイトルはボロニア属の花の名前。おそらくはこの花が飾ってあった病室で闘病していた父を送った作品なのだろう。身体には静かな生命現象が儀式のようにあって、ついには散骨として空に舞いあがる。「空洞から空洞、ほとほと、父親とか娘とかどこかで谷折りされている/折がった湿った紙、内側が外側にひわって、はなびらみたい」なのだ。冷静な観察とそれによるおだやかな描写なのだが、哀しみが内在している。最終部分は、
目をつむってボートに乗る。ふたりで乗ったと思ったのだけれど、私は
ひとりで、ボロニアの花がたくさん咲いている、ところを目指す。
「光る砂」光冨郁埜。手もとにあった光る砂をほしがるみなにわけたらなくなってしまった。するとみなはどこかへいってしまったのだ。そのような人たちなのだが、わたしは今度はあたらしい光る石をさがし、それもなくなれば、光る水や光る空気をさがそうと思うのだ。
そうしてわたしの手のひらから
すべてがうしなわれたとき
みなが光るさまがせかいの光るさまとなり
わたしのうつむきがみなの歓びとなる
なにか宗教的な高みのようなものも感じてしまう作品。私(瀬崎)は目の前の光る砂をほしがることしかできそうにないが・・・。