瀬崎祐の本棚

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詩集「流転」 神原芳之 (2021/11) 七月堂

2022-01-29 21:38:33 | 詩集
91頁に28編を収める。

「どうだんつつじ」。話者は「人とのことにほとほと疲れて」いるのだ。見覚えのある顔の人々は「みんな見知らぬふり」をするのだ。すると、作品世界にはなんの前触れもなく「どうだんつつじの鈴が鳴る」のだ、「りんりんりん りんりん」と。あの丸い花からの澄んだ音が響き、実に効果的である。その音は小さな人間社会など歯牙にもかけずに鳴り響いている。

   人類の歴史が終わると 世界遺産も廃墟となり
   どの大陸も草木に厚くおおい尽くされる
   それから何万年経つだろう 新しい生物が
   次の文明の紀元前を築き始めるまでには

   りんりんりん りんりん
   りんりんりん

「孤独」。話者は花壇を作り、プリムラやコスモスを咲かせてきた。やってきた人に花を摘んでいいよと勧めるのだが誰も摘んでいかない。なぜなら、

   花壇のまわりに
   ガラスのような透明な板が
   張り巡らされているのだ
   その囲いに気がついた人は
   もう花を見にこなくなる

そこで話者は時間をかけて囲いを取り壊すのだが、最終部分、「やっと取り壊しが完了したら/花壇は枯れていた」。なんとも皮肉な結末だが、当人にとっては深い嘆き以外の何ものでもないだろう。他者と繋がりたいと思いながらも自らが囲いを作っていたことに今さらながらに気づくのだ。そんな孤独という形にはならない感覚を、誰にも触れてもらえない花の存在に託して、巧みに可視化していた。

このように淡々とした詩いぶりの作品が並んでいる。詩集タイトルの「流転」は、作者が自身のこれまでを振り返った時の言葉なのだろう。その長い流転の日々からの言葉がここにある。90歳を超える作者の感性の瑞々しさに感嘆してしまう。

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詩集「息の重さあるいはコトバ五態」 服部誕 (2021/08) 書肆山田

2022-01-25 18:28:55 | 詩集
第7詩集。101頁に24編を収める。

カバーには、強い目線の女性が印象的な石阪春生の素描が使われている。作品「女たちのいる風景」は、「横をむく女よ おまえは何を見ているのか」とこの素描についての行ではじまっている。そしてモナ・リザ、ルオーの女曲芸師、デルヴォーの赤い服の少女が描かれた世界からこちらを見つめている。

   再び横をむく女よ 男にはおまえの見ているものがどうしても見えないのだ
   こちら側でもあちら側でもないもの 透明でどこまでも無限につづくもの
   一度見るとけっして目をそらすことのできないもの
   おまえはそれを見たために絵のなかの女になってしまったのか

私たちがその魅力に惹かれて見ることによって、絵のなかの女たちはそれぞれの視線を保ちつづける。そして、描かれることによって永遠のものとなった女たちは、「まだだれも知らない永遠というものを」見つづけているのだ。

今回の詩集作品にはかなり理知的なものが多い。たとえば地球儀や地図から拡がる世界観が差し出され、素粒子からなる物質のあり方があなたの町歩きと重なる。
「迷路をめぐる簡明なメモ」では迷路であることの要諦が示されるのだが、その記述は数学的な理系の論理に基づいている。しかし不思議なことに、その科学的な態度は哲学的でもある。やがて迷路は、己が歩む人生の道筋に重なってくるのだが、最終連は、

   あなたが現に歩いている迷路の外形が 方形であるか円であるか
   壁の材質が何であるかなどの意匠上の事柄は
   すでにそれらに関するさまざまな言説が流布しているとはいうものの
   たとえばどんな色の壁の どんなに狭い迷路であったとしても
   右にあげたふたつの要諦とは異なり
   迷路の本質とはなんら関係がない

この際終連の認識によって理論的な記述が詩となっている。

後半に収められた「街の遷移に関する備忘手控」や「垂心についての哲学的な考察」でも、客観的な記述に専念しているようでありながら、そのすぐ裏には渦巻くような詩心があった。
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詩集「川の名前、その他の詩編2011~021」 中上哲夫 (2021/09) 花梨社

2022-01-21 22:47:17 | 詩集
第12詩集。80頁に22編を収める。

詩集は「川の名前」「川のある世界」などといった川にまつわる作品ではじまる。
「川の名前」は、話者がこれまでの人生で交差したり寄り添ったりしてきた川の思い出の作品である。話者が生まれた産院のほとりの川、通学の時に木の橋で渡った川、そしてアメリカでめぐりあった川。そして今、

   わが身体を絶え間なく流れる川
   深夜
   その音に耳をすます
   未だ流れているかどうかと

川の流れは、話者の身体の中で生命を司っている血の流れと重なってきているのだろう。だから「川のある世界」でも、流れる水は「耳元で水たちが立ち騒ぐので/夜中に何度も目覚める/見回しても/川などどこにもないのに」と詩われるのだ。

直接には川に触れていない作品ででも、その底の部分では作者のゆっくりとした川が流れているようだ。わずかな自分の宝物を遺品として誰に譲るかをユーモア溢れるタッチで書いた「わが財産目録」、兄弟を詩った「わが家系」や「弟の背広」など、飾った部分のない自然にひろがる作品世界がある。

「雨の日は」は断章のように散文体で書かれた作品だが、いくつもの雨の日がどこか郷愁を誘うものとして差し出されている。

   雨の日は、ほの暗く、ひっそりとしている。家人はそっと息を吐き、
   囁くように話し、足音を消して亡霊のように歩くので。

最後に置かれている作品が「河口にて」。「ただ水色の水のひろがりがあるばかり」の河口は、流れてきた水がその旅を終えて海にたどり着く場所である。

   わたしの川は
   谷を流れ
   野を流れ
   町を流れて
   この光る海に流れこむのか
   遠い記憶そのままに

川を眺め、川の流れとともにはじまったこの詩集も、この作品で作者の今の気持ちにたどり着いたのだろう。これから作者がおくるであろう「光る海」での作品に期待したい。
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詩集「半分の顔で」 清野裕子 (2021/12) 版木舎

2022-01-18 22:45:06 | 詩集
第8詩集。90頁に20編を収める。

Ⅰの11編にはコロナ禍にある生活が背後にある。開かれなくなった演奏会、会えなくなった姉妹家族、そしてマスクで半分の顔しか見せない人々など。
「始まりの夜」は、オーケストラの一員としてヴィオラを弾くための練習に参加した夜のことが詩われている。大音量に途惑った話者は「全身で音の海を泳い」でいたのである。そして今、

   世界中のコンサートホールから
   音楽が消えた夜
   ひとりで弾くヴィオラは
   弓の摩擦音が痛い

重ね合わされるはずの他の楽器の音はなく、自分だけのヴィオラからは音になる前の摩擦音が響くのだろう。それを「痛い」と感じることで話者の置かれている世界があらわされている。これにつづく最終連は、「遠くサイレンが行く/その音程に/寄り添ってみる」。なんとも辛くなるような音程なのだが、夜の街を赤い回転灯とともに病を救う人々が確かにいるのだ。

これまでの詩集でもそうであったが、作品には言葉であらわされているものに音楽や絵による味わいが重なっている。柔らかい色彩が感じられるものとなっている。

Ⅱには絵のモデルになった話者や、父母がいる。
「呼ぶ」。冥界との境に行った人が「誰かに呼ばれて/目が覚めたの」と言う。祖母からは「だから/ひとが亡くなりそうな時は/呼ばなくちゃだめ」と聞かされてきた。そして今、母は穏やかな表情で規則正しい寝息を立てている。話者は呼ぶべきかどうか自問する。

   何十年も病に苦しんできた
   やっと手に入れたやさしい夢から
   揺さぶって
   呼び戻して
   いいのだろうか

これまで大丈夫だったからと、話者は「そっと手を離して/席を外」す。しかし、最終連は「それが最後だった/呼ぶ機会は/失ってしまった」。呼んだからといって再び目覚めたかどうかは判らないのだが、話者は自分が呼ばなかったこと自体をいつまでも思いだすのだろう。でも、それはもしかすれば、もういいよという、母君が望んだ静かな見送りであったのではないだろうか。
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詩集「万籟」 網谷厚子 (2021/09) 思潮社

2022-01-15 22:06:34 | 詩集
第11詩集。94頁に20編を収める。

「万籟」。この作品の話者は、自分はひとではなく蛇だという。そこは「人では生き通すことができない場所」で、地に掘った深い穴に潜んでいるのだ。その暗い地の底(おそらくは沖繩だろう)に潜んでいるのは戦いのただ中で死を予感している者の化身なのだ。

   数え切れない生き物たちが 蠢き 命の限り 鳴いてい
   る 様々な樹木の葉が 擦れ合い 時に吠えるように響
   き 風が流れる方向へ うねりながら 空に立ち上り 
   消えていく わたしも 木の葉一枚の命 抱きしめて眠
   る

物音は生きている者の耳に届く。ぎりぎりの生の場に置かれた者の、声になることもない思いが、こうして読む者のところへ届く。

20編すべての散文詩型の作品は連分けがなく、段落もない。すべての言葉はひとつの集合体として提示されている。それらの記述は短い息づかいでの空白を挟み込んでいる。言葉のかたまりが凹凸をもってそこに置かれているのだ。

「花が降る」。暖かな陽の中であなたは微笑み「そうでしたね あんなことも こんなことも ありましたね」という。そして「もう行かなくては」と消えていく。この作品は挽歌なのだろう。具体的なあなたの説明はなく、話者とあなたの関係も語られることはないのだが、あなたを悼む話者の思いはくっきりと記されている。

   桃色 緋色の あなたの身体が 暴風にさらされた葉の
   ように 千切れそうになる 愛し 愛された 人との別
   れ 手のひらの温もり 声はまだ 耳の奥で 響いてい
   るのに 激しい風の一陣が 回りながら 小魚のように
   絡まり合い 上へ 上へ あなたの身体を すくい上げ
   ていく

先に述べた作品の表出の形とも相まって、どの作品にも軽さを振り捨てて響いてくるものがある。それは生きてあることへの問いかけであるようだった。
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