瀬崎祐の本棚

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「水野ひかる詩集」  水野ひかる  (2009/04)  土曜美術社出版販売

2009-07-31 20:56:22 | 詩集
 新・日本現代詩文庫の1冊で、7冊の既刊詩集からの作品が収められている。解説は西岡光秋、森田進。このような選詩集では、作者の中に流れた時間が感じとれることが興味深い。25歳時の第1詩集「鋲」の作品はどれも非常に感覚的であり、思いが追いつく暇もないほどに軽やかである。
 それに比して第7詩集「抱卵期」中の「漏刻」では、じっとりとした思いが座り込んでいる。詩われているのは夕刻の淀んだようなひとときである。午睡から醒めたばかりのようなぼんやりとした意識が、自分を取り囲んでいるものを認識している。
 
   研ぎ澄まされた刃面をすべる指先に 読み違えた
   未来の傷口が痛む 目で追う活字の行間からこぼ
   れる砂粒のように 降り積む懐かしい時を反芻し
   て……誰かがしきりにわたしを呼んでいる

 かっては誰かに語りかけていた言葉はここにはなく、すべてが独白となって自分の内側で反響している。書き続けてきて、ここまで深く自分の中へ穿ってきたのかという捉え方で読んだ。張りつめた言葉と、それによって伝えてくるものが確かにここにはある。
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詩集「フリアの庭で」  植木信子  (2009/07)  土曜美術社出版販売

2009-07-29 21:56:38 | 詩集
 「ひそむ」は、「大切な人が逝った」あとを詩った鎮魂歌。白くぼんやりとしたものがわたしの周りに浮かんでいるので、それを追う。般若心経の一節が仮名表示されて呪文のような効果を出している。

   沢山の個体のひとつの角質が剥がれて硬くなる
   ただそれだけの
   大きな無言の孤独だった

 大事なものを失ってしまった欠落感の大きさに耐えることの辛さが過不足なく伝わってくる。それはあまりにも辛いので、夢に「白くぼんやりとしたもの」があらわれてくることにさえ怒りを感じるほどなのだ。そして最終連、

   あなたは澄んだ湖のほとり たましいだけになり竪琴を弾いていた 弾いていた
   わたしはステンドグラスにひそみ聞いている 聞いている
    (そうしていよう)                 (最終連)

 この、「弾いていた」「聞いている」の繰り返しが、なんとも切ない。この辛さに耐えるためにはそうするしかないのだが、そのことすらも無理矢理自分に言い聞かせなくてはならない。自分で納得するために、思わず繰り返しているのだ。この最終連で気持ちは空に上がっていく。
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coto  18号  (2009/07)  奈良

2009-07-27 09:43:19 | ローマ字で始まる詩誌
 「運河に沿って」今村秀雄。今村の作品はとても暴力的である。それは、他者に対してそうであるばかりか、自分自身に対して一層そうである。
 夕暮れの商店街で「海にまで流されてゆく不吉な塵芥」である私は、幼なじみのサッちゃんと自転車ですれ違う。サっちゃんは小人症だったらしく「子供のように小さな背丈」のままで、酔って歩いていたのだ。何気なしに声をかけると「なんや、小人が酔って悪いのか?」とののしられる。私に、逃げ去るしかなかった私の心の暗部が自覚される。「見てはいけないものとは自分自身のことだ」と、人の心の有り様が悲しくなってくるような作品だ。

   いつか二人で大きくなったらね
   小さな汗の手で握り合って、どんな約束をしたのだろうか
   見ろよ!カーンカーンと火花を散らしながら
   夜の波間を進水していく船         (最終部分)

この部分だけ行わけになっており、思わず心情が漏れて出てしまったような抒情を感じる。今村の作品で抒情?と思ってしまうが、暴力的と言うことは、裏側にそれだけのものを孕んでいるということかもしれない。
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詩集「曳舟」  原田道子  (2009/07)  砂小屋書房

2009-07-24 19:36:18 | 詩集
 103頁に23編を収める。「覚書」に「にほひ」と「におい」についての言及があり、作者の微妙な感性へのこだわりがうかがわれる。
 「子宮(こみや)」、「まみどり」、「イクサ」、「うふじゅふ」、「むおん」、「青人草」など、これまでの原田の作品にしばしば用いられてきた言葉たちがここでも絡み合いながら作品を形成している。しかし、この言葉たちが何を意味しているのかはいくら読み返しても曖昧なままだ。だから、個々の作品が孤立しているのではなく、詩集総体として立ち上がってくるものを感じるべきだろう。それに説明されてしまう言葉なんて、言葉として独立していないではないか。

   ごらん ほんのちょっとのか。ぜ。だ
   こうやってしらないうちに秘やかにいくつもの都市が滅びるのだが

   でもおかえりなさい。そろそろ
   高天原(たかまのはら)のさらなるたかみに 衝きでる 風木(ちぎ)
   国つくりには美しすぎる氷椂(ひぎ)についてもとりかからねば
                       (「おかえり」最終2連)

 言葉は意味を伝えるのではない。意味は読む者の脳細胞で形成される。言葉は各自の脳細胞に何事かを伝える伝達物質なのだ。その伝達物質が伝えた刺激によって各自の脳細胞が意味を形成する。わたしたちは言葉たちの周りを踊っているのだ。
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ガーネット  58号  (2009/07)  兵庫

2009-07-22 16:53:34 | 「か行」で始まる詩誌
 「つづくのがとてもいやになってしまって/ひとりひとり/刺身みたいに切れていたらどうだろう」ではじまる廿楽順治「それから」は、人間関係の煩わしさを忌避して、そんなつながりをすべて断ち切ってしまいたいとの思いである。切れている状態の直喩の「刺身みたいに」がイメージを広げている。このイメージは、最終部分に出てくる自分の身体を切り開くところへの布石ともなっている。人間関係を切ってしまうための決意も必要となるわけだが、

   湖
   に落ちていった友だちはひとり
   なにかを探しにいったわけではないし
   捨てにいったわけでもない
   この空に
   つづいていたくなかっただけ

   それから
   わたしたちは腹部をひらいて鏡をわった
   ひとは煮ても焼いてもくえないのさ    (最終部分)

 ついには「この空」という生命とのつながりも切るために水の中の存在を選ぶ友だちもいたわけだ。決して「それから」ではなく、今も、ひとは危うく存在していることに自虐的に居直っている。
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