瀬崎祐の本棚

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詩集「ふたつの世界」 川中子義勝 (2021/09) 土曜美術社出版販売

2021-10-31 09:30:16 | 詩集
第7詩集、127頁に17編を収める。
そのなかには2章から5章から成る作品もある。作者によれば、それぞれの章は1編として完結しており、それらの章をまとめれば全体で一つの主題が浮かび上がるように意図しているとのこと。また、詩集最後には2段組12頁に及ぶ譚詩が載っている。

「風が翼を 1 晨」。その時刻では「風が翼を持ち上げようとして」おり、「時は未だ充ちていない」のだ。これから世界が見えはじめる一刻があり、その予感に世界も震えているのだろう。そして、

   待ち受けた風が翼を持ち上げる
   舞いあがる鳥はもう空だけを見ている
   飛びたった樹が激しく燃えあがり
   もはや燃えつきぬ焔に変わる

「2 夕」では「夜の尖端」が「墜ちてくる」。このようにこの作品ではふたつの時刻における世界を描いている。光と共に世界は燃えはじめ、新たな一日を経験した世界は暮れようとしながらも「激しく燃えているのに/決して燃え尽きることがない」ものになっているのだ。

作者のどの作品も静かさをたたえている。以前からこの静かさはどこから来るのだろうと思っていたのだが、それは、作中に一人称の言葉があらわれないことからではないだろうか。常に作品にはその記述者がいるのみで、作中の話者はいない。あるいは、話者は記述者と重なり合っている。そのようにしてすべての作品が成り立っている。作品と作者の間に距離がなく、とても密接に繋がっている静かさだったのだ。

「ふたつの世界」。庭の木が剪定され、そこは木のない庭に変わってしまう。鳥ばかりか、風と光も変わってしまった遮るもののない庭にとまどっている。

   降りてくる星辰の囀りが
   夕闇の底ふかくまで透るとき
   昼は猛りたつ風の傷を癒し
   夜は立ちすくむ光の傷を護れ

ふたつの世界とは、相対する二つの時間に起きる出来事でもあるだろうし、作者を含めたあらゆる事物の内と外に拡がる世界でもあるのだろう。作者は、故・清水茂氏の世界観にふれながら「それぞれの立場からふたつの世界を思い描いてくださってかまわない。むしろ可能性が幾層にも開くよう願っている」としている。

 それぞれ4章からなる「啊責-未生の祈り」、「記憶の旅-Requiem」については詩誌発表時に簡単な紹介記事を書いている。

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詩集「梟の歌」 秋山基夫 (2021/08) 七月堂

2021-10-27 21:59:17 | 詩集
109頁に4行詩100編を収める。

見開きの目次頁にびっしりと並んだ100編のタイトルを眺めるだけで眩暈に襲われそうである。
ここにあるのは、すべての制約から解き放たれて自由に言葉を結びつける”現代詩”の中にあって、あえて4行という制約を自らに課して書く意味の模索でもあるのだろう。制約を課すことによってかえって自由なところへ行くことができる可能性もあるのだろう。

冒頭の「友だち」全4行。

   桜の枝にランタンをつるし
   輪になってお酒を飲んで
   この明るさを歓びあおう
   どうせ暗い道を散っていく

簡明な描写がどこか寂寥感をともなった世界を見せている。”友だち”は肉親とは異なって自身の意思によって関係を生じさせる仲である。その友だちとわずかにあたりを照らすランタンの下でお酒を飲む。そしてそのわずかな明るさを歓んでいるのである。それは話者と友だちの周りがどれだけ暗い闇に囲まれているかを暗示している。そんな仲であっても宴の後は暗い別々の道を一人でたどらなければならないのだ。「どうせ」という語にこめられた思い、それが”友だち”との関係なのだ。4行でこれだけの情感をたたえた世界が構築されている。

巻末には「あとがき」として「四行詩についての若干の考察」が載っている。これは四行詩を例に取った定型詩論でもあり、読みでのあるものとなっている。そのなかで作者は「四行詩の言語量はかなり少ないのだ。言語量が少ない表現はその抽象度が高くなるのが必然だ」と述べている。たしかにこの詩集に身辺雑記を詩った作品はまったく収められていない。どの作品でも、読者や作者自身を包含した世界を構築しようとしている。
もう1編、「この世」を紹介しておく。

   向うからやってくる人がいる
   近づきお辞儀をしてすれちがう
   たぶんこれがおこりうるすべてだ
   空に大きなほしがでている

ここでは3行目の「たぶん」に留意する必要があるだろう。この語によって「おこりうるすべてだ」との認識は普遍的なものではなく、あくまでも話者の個人的な認識だといっている。そして次の行で、その話者を包み込む宇宙が存在することを認識しているのだ。このように視点が大きく動くことによって、作品の背後がどこまでも広がっている。

「あとがき」の最後に作者は「自由詩において、一行が終わる瞬間、次の行へ移る瞬間の目もくらむような自由のただなかで心が震えない詩人はいないだろう。しかし定型詩においても、行から行への展開において同じことが起こらないのではないし、さらに言えば、作者と読者とを一つの抽象的な時間幻想の中に導き入れることがあるかもしれない。」と書いている。米寿をすぎての、この密度の高い精力的な創作活動には敬服以外の何ものでもない。
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詩集「52時70分まで待って」 桑田窓 (2021/09) 思潮社

2021-10-24 22:43:01 | 詩集
第3詩集。105頁に35編を収める。

この詩集の根底には、列車、あるいは船に乗って、どこかへ旅立とうとする思いが流れている。その船には「どこにも着けず 沈みます」と表示してあるかもしれないし、「終点まで連れて行ってくれる船なんて/あるはずがない」とも思っているのだが(「一度きりの航海」)、それでも旅立つのだ。

「雨の向こうの時計店」は、いろんな時間を売っている店。客は逆向きに進む時計や時間をいつでも止められる時計を探しに来る。しかし、そんな時計を手に入れることが果たして幸せなことなのか、どうか。すずめは「時計がなくたって/ 急な雨は分かるのに」とつぶやいて空へ飛び立つ。最終連は、

   針の目盛りひとつ
   戻れない空は
   少しだけ秋に向かっていた
   今を生きるすずめと
   同じ早さで
   夕焼け空が流れていた

時間の区切りなど超越したような空の広さと、そこで流れている時を雲の流れに重ねてイメージを巧みに可視化していた。作者には時間の流れも”一度きりの航海”だという意識があるのだろう。

「いつか枯れゆく滝で待つ」。もう一度会いたい人がいるのに、その人に流れる時間と話者に流れる時間は重なりそうにもないのだろう。最終連は、

   後ずさりしそうな背を押すは太陽
   小さな二つの影はきっと重なる
   いつか涸れゆく
   砂時計のような滝の下で

水の流れと時の流れのイメージが重なり、水が落ち続ける滝も留まることなく過ぎていく時間の謂となっている。時が涸れたときまで待てば、めぐり会うことができるのだろうか。

「あとがき」にある台詞「みんなを呼んでくる。すぐに戻るから、ちょっとだけ待っていて」が詩集タイトルに繋がっていた。この詩集はそういうことだったのだとすとんと腑に落ちた。

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詩集「雲また雲」 清岳こう (2021/10) 思潮社

2021-10-19 17:59:51 | 詩集
91頁に48編を収める。作者はかって中国の哈爾濱、桂林の大学で教鞭を執っていたが、その日々からの詩集である。

第Ⅰ章には点景を描いたような比較的短い作品が多いが、それがかえって臨場感をもたらしている。その場、その時の作者がその作品に確かにいる。臨場感というのは、ある状況に遭遇したときに、その意味を考えるのはあとにして、とにかく今はこのことを感じている、そういった様子なのだ。そのときを作者は必死に生きている、そういった様子なのだ。
「木造船が」は8行の作品。古い船が海岸に並んでいる。そこには海へ乗り出した血脈の歴史があるのだ。最終連は、

   今夜あたり
   また 誰かが故郷を捨てるだろう

また「長蛇の列に並び」は9行の作品。汚れきった長距離列車に乗り込み、彼方へ向かう。人々のたくましさに話者も並んでいる。最終連は、

   視界360度
   何もないを見に行く

第Ⅱ章はそうした地に在って生きている人の物語がつむがれている。古代王朝の王妃が使っていたベッドにまつわる逸話(「あかりを消して」)や、夜毎に通ってくる男たちと情交を交わしてたくさんの子供をもうける女たちの村の逸話(「女神たちの村」)など、など。想像を超えたたくましさがあるのだが、それが必要とされる風土であったのだろう。

第Ⅲ章ではそんな地での作者が息づいている。「引っ立てられて」は官憲の捜査を受けた話。日本語の授業からもどると部屋は隅々まで調べられており、

   ついでに
   私の机の中も片付けたのだろう
   旅先で撮った花のフィルムはどこかに消えたまま
   泥棒市場で撮ったフィルムまで持ちだされたまま

作者が彼の地にいるときに何度か私信ももらった。政治情勢は必ずしも安定していたわけではないようだった。邦人にとっては危険な情勢になってきたということで、作者は予定を早めて帰国したとのことだった。

その地を通りすぎる旅人ではなく、その地で暮らした人でなければ書くことのできなかった作品ばかりが収められた詩集だった。
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詩集「ビューグルがなる」 篠崎フクシ (2021/09) 土曜美術社出版販売

2021-10-14 16:02:29 | 詩集
第1詩集。103頁に23編を収める。
「天文百景」は本詩集の冒頭に序詩として収められている。宇宙から「ほしに似たひかり」が話者の手もとに届くのだ。それは「一滴のみずのうちに」あったり、「一滴のなみだの縁に」あったりする。

   うみは透明な、肥沃なるゆうきぶつの杯
   うみは、傷ぐちの皮膚をふくらませ唸り
   経済ごうり主義とお濁のはてには裂する
   すべてはつながるひとつのいのちなのに

 それは遠いところから作者に届けられた言葉のようである。そしてこれがこの詩集の始まりである。

 作品にときおり混じる片仮名表記は、気持ちのざらつきをあらわしているようだ。その様な心情で見つめる光景はときに暗いディストピアのような佇まいとなってくる。「時ノ崩落」は三章からなるが、今在るところに対する不安が作品の根底にある。

   長崎ノ夏ハ過ギユキ
   流星群ハ、アンナニ美シク笑ウノニ
   堅固ナ構築物、〈時〉ノ天井ハ、大地ノ怒リ
   トトモニ崩落スル

 その”今”、そして”この場所”に対抗するものとして、時の流れを俯瞰する感覚、この場所を飲み込んでしまう広範な世界を俯瞰する感覚が作者の中に生まれている。その感覚を拠り所にしてこの世界に対峙しようとしている。時が崩落したあとに何が残るのだろうか。当然のこととしてまずは弔いがあるわけだが、作品は「生を持続させる/時と言葉は薄明に誕まれかわるだろう」と終わっていく。 こうして崩落した時の中から言葉を拾いあつめて新たな時、新たな場所へ歩もうとしている。

 「クラウド紀行」は時空を超えて宇宙にまで次元を広げての旅をする舟の物語。地球から遠く離れた宇宙で生命がゆっくりと営みを続け、進化をしていく。

   やがて、ひび割れから酸素が漏れだすと、魂は植
   物を守るために、骨と肉をのぞむようになった。
   魂たちはたがいを塩基と呼びあうことで、百年後
   の再生を信じることにした。(略) 魂はまぶたを
   閉じ、また開いてみる。瞬きに百年はかかっただ
   ろうか。

最終行は「さあ、もういいよ、かえっておいで。」この呼びかけることばは、どこから聞こえてくるのだろうか。舟は果たしてかえることができるのだろうか。おそらく、一度旅立ってしまった者は同じ場所にかえることはできないだろう。旅をしてしまった以上は同じ者であるはずはないのだから。しかし、こうしてかえることができるかもしれないという場所からのことばは、安らぎでもある。このあと、作者の中でどのような言葉が育まれていくのだろうか。
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