水仁舎の美しい装丁の詩集。B5変型、仮綴じ、三方チリ付き小口折装。43頁に、13編の行分け詩と7編の散文詩を収める。
「野」の第一連は、「あの人が喋ると/ねこじゃらしが揺れる/相槌をうちながら/風の方向を感じていた」。作品の始まりはこうでなくてはいけないと思わされる。なんの戸惑いもなく、すでに始まっている物語に静かに入り込んでいく。それは充分に物語が自分に満ちてから言葉をはじめているからだろう。
食卓に座れば
いつもわたしに向かって
風は流れる
風下に風下に
種は飛ばされて
わたしの後ろに
猫じゃらしの野が広がる
こうしてほとんどの部分を引用してしまったが、それほどに余分なことをつけ加える必要のない作品である。ただ、これだけでいいのである。作品の終わりでは「落とした肩の向こうで何か揺れ」るのである。揺れるものについては語らない。あの人がいて、揺れるものがあることが、これほどに美しく気持ちをざわつかせている。
後半の散文詩は、物語風の情景描写がとても丁寧で、影の多い古い西洋絵画の中に入り込んでいくような気持ちにさせられる。
「林檎煮」では、女たちが集まって林檎の皮をむき、大鍋で煮ている。閉ざされた集団での風習のような行為が、女たちを束縛し、その中で変容していく者がいるのだろう。
林檎を剥く女たちは自分の内側の蛇行した道を下りていく。若い頃
につまづいた場所や枝分かれした道にあらためて気づきながら。下
りていく。林檎の紅い皮の流れは女たちの周りを渦巻く。身動きが
とれなくなる頃に、最後の林檎を剥きおわる。その流れの中に沈ん
でしまって戻れなくなることもある。
林檎の煮える甘い匂いが女たちの身体を絡めとり、妖しくねばつくものが読んでいる者の身動きまで取れなくするようだ。
「野」の第一連は、「あの人が喋ると/ねこじゃらしが揺れる/相槌をうちながら/風の方向を感じていた」。作品の始まりはこうでなくてはいけないと思わされる。なんの戸惑いもなく、すでに始まっている物語に静かに入り込んでいく。それは充分に物語が自分に満ちてから言葉をはじめているからだろう。
食卓に座れば
いつもわたしに向かって
風は流れる
風下に風下に
種は飛ばされて
わたしの後ろに
猫じゃらしの野が広がる
こうしてほとんどの部分を引用してしまったが、それほどに余分なことをつけ加える必要のない作品である。ただ、これだけでいいのである。作品の終わりでは「落とした肩の向こうで何か揺れ」るのである。揺れるものについては語らない。あの人がいて、揺れるものがあることが、これほどに美しく気持ちをざわつかせている。
後半の散文詩は、物語風の情景描写がとても丁寧で、影の多い古い西洋絵画の中に入り込んでいくような気持ちにさせられる。
「林檎煮」では、女たちが集まって林檎の皮をむき、大鍋で煮ている。閉ざされた集団での風習のような行為が、女たちを束縛し、その中で変容していく者がいるのだろう。
林檎を剥く女たちは自分の内側の蛇行した道を下りていく。若い頃
につまづいた場所や枝分かれした道にあらためて気づきながら。下
りていく。林檎の紅い皮の流れは女たちの周りを渦巻く。身動きが
とれなくなる頃に、最後の林檎を剥きおわる。その流れの中に沈ん
でしまって戻れなくなることもある。
林檎の煮える甘い匂いが女たちの身体を絡めとり、妖しくねばつくものが読んでいる者の身動きまで取れなくするようだ。