瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「おやすみの前の、詩編」  手塚敦史  (2014/02)  ふらんす堂

2014-02-28 21:25:02 | 詩集
 171頁の紙面が、ただNo.を与えられた詩編で埋められている。
 「おやすみの前の、詩編」の詩編にうたれたNo.は99からはじまり0に向かっていく。それは目にした事柄の繊細な描写であったり、誰かに語りかけることばであったりする。

   水の風景に鳥をあずかり
   飛翔せる羽の詳細な記述に、全身をあずけている
   永遠に十四歳のまま真摯に迫って身体を貫通すれば背後に完全にみえなくなる筈のもの。
                                          (「49」全)

 集めてきた言葉をさなぎのように自分の周りに貼りつけているようだ。さまざまな言葉で身を覆うことが眠りへいたる儀式なのだろうか。すると、眠りの先へあるのはなになのだろうか。
 「おやすみの先の、詩編」でうたれたNo.は1から始まり、33へ向かっていく。

   夜気に触れ
   定まらぬ視線を投げかけた
   お互いの肉体を力強く擂り潰してゆく青果という美しい響きの果実
   知っていた
   ことばは、しゃっくりみたいな花々
   手のひらを返せば忘却
                              (「28」より)

 一つの作品は長くなり、断片から構造を伴ったものへと変化している。しかし、断片化された詩句もなんらかの構造を有したような詩句も、基本的には同じものをまとっているようだ。精神の一つの究極型である眠りは言葉によってもたらされ、その先に待つのもまた言葉だけなのだろう。こうして作者の精神は、すべて言葉によって隙間なく塗りつぶされていくのだろう。
 最後にNo.を排して記述された「αおじぎ草への接近」が置かれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

hotel 第二章  33号  (2014/01)  千葉

2014-02-25 19:04:00 | ローマ字で始まる詩誌
 「ある窓口」川江一二三。
 「お引っ越し」と題された連作の1編。1行32文字に収められた独白体で13行の作品。視覚的には箱にびっしりと詰められた言葉たちを思わせる。
 「残念ですがどこにも見当たりません確かにお持ちになったのでしょうか」と始まり、遺失物係の担当者が依頼者に答えている内容を会話体で記載しているという体裁。丁寧ではあるがどこか慇懃な口調であるところが、依頼そのものに不信感を抱いている感じを伝えてくる。
 こちらが置き忘れたものの所在を尋ねたはずなのに、遺失物係は逆にそのものについて執拗に尋ね返してくる。本当にそんなものが存在したのかというようだ。その所在を尋ねるのならまずそれが存在したことを証明して見せろというようだ。

   それはどんな匂いを閉じ込めてどんな音が眠り続けていたのでしょうか
   見えませんか感じませんか聞こえませんか香りませんかふるえませんか
   もしかしたらあらかじめ失われていたものとあなたは考えられませんか
   私ども同様に見えないものを大きな存在として探し続けているだけだと

 おそらく遺失物係は自分の内側にいるのだろう。そしてその遺失物係は、私が探さなければならなかった事柄について、強迫観念のように自分の内側から問い直してくるのだろう。それは気のせいでしょう、すべて気のせいでしょう、とでもいうように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「ひとの望み」  近藤起久子  (2014/02)  ジャンクション・ハーベスト

2014-02-22 08:29:13 | 詩集
 第2詩集。77頁に16編を収める。
 冒頭の作品「生活習慣」は、「簡単な/いくつかのことばで/暮らす」とはじまる。身や心を守るために、飾りのようについまといたくなる余分なものを潔く振り捨てている。そのむきだしの立ち姿は頼りなげにも見えるのだが、実は素晴らしく強い心の表れなのだろう。

   ざらざらの砂糖のような
   あらい塩みたいな
   少しのことばで暮らす

 古い歌をうたえば雨がぽつぽつと降り出し、「じょうろに溜まったあの水を/あしたは/鳥が飲みにくる」のだ。渇いたものをうるおしてわずかに溜まったことばも、何ものかが求めてくるのだろう。
 「復元」では、「端が欠け/欠けたところが光っている」ものを「海で洗って/手のひらに載せ」ている。そして「きのう届いたことばは/ひびわれていたのだ」。欠けてしまったものは何だったのか、欠けた部分は何を伝えようとしていたのだろうか。私に残されたかけらから伝えられるものを探ろうとしている。

   すり硝子みたいになったかけらを
   日にかざすと
   空と同じ色をしている

 淡彩画のように描かれた光景は、色を重ねられなかったその省略された部分で、はるか遠くまで続くものを見せている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「花眼」  北条裕子  (2014/02)  思潮社

2014-02-20 18:54:26 | 詩集
 37年ぶりの第3詩集。77頁に18編を収める。
ひたすらに自分の内側をのぞき込んでいる。そこに在るのは何なのか、何のためにいつから在るのか、それを確かめようとして言葉を発している。それを確かめることによって自分が今はどこにいるのかを探り当てようとしているのだろう。

   指で押さえた部分 血管のふくらんでいる箇所 そっとそのままに 奥まで押し込
   み 光の淵に手をかけて 覗き込んでいた時には 見ているこちら側が 夢のような
   気がしていたが 今やっとわかる 向こう側の痛んでいるところが まぎれもなくほ
   んとうだった
                             (「私たちの長い夜」より)

 ある場合には、言葉のすぐ裏側には死がある。それは死者の面影であったり、ある人の不在感であったりもする。
 「痣」では、自分の外側のものとの衝突による身体感覚が自分の居る場所を伝えてくる。ぶつけた足首は膨れ上がり、暗紫色の痣を作っているのだ。

   痛む場所を芯にして 身体を折りたたんでゆくと 暗
   がりのなかで痣が発光し そこが女の在処だとわかるの
   であった

 ほとんどの作品では行分け部分と散文部分が混在している。言葉が出てくる時に、詩うときと語る時があり、その両者が形式を求めているのだろう。それは感情と理性のような違いかもしれない。しかしどこまでが感情でどこからが理性かというようなことは、他者には判らない。あくまでも作者の言葉がどのような意識で発せられたのかによるのだろう。
 「渡月」については詩誌発表時に「現代詩手帖」詩誌評で感想を書いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「すべての詩人は水夫である」  加藤思何理  (2014/02)  土曜美術社出版販売 

2014-02-18 18:54:59 | 詩集
 第2詩集。121頁に21編を収める。
 装幀は長嶋弘幸で、エッチングを思わせる緻密な挿画やポイントをおさえた配色が中世的な物語を思わせる雰囲気を作っている。
 散文詩でも行分け詩でも、寓意的な事象の執拗な描写と説明が展開される。たとえば「あるいはその眼で地平線を巻き取る者についての偶発的で自家中毒的な十の断章」という副題を持つ「少年」では、少年について次のように描写される。

   Ⅳ
   たとえば少年は北向きの天窓から溢れる石炭袋の光を逆夢で濾過し、思考と歩行の免疫を
   舌下と耳孔で培養する。

   Ⅴ
   たとえば少年の裸の声の精度と純度は、その充血したナイフの偏心と深部の虹の霊的均衡
   の破綻によって保証される。

 描写されることによって事象は成立し意味を持つわけだが、なにが選び取られてどのように描写されるか、は常に問われている。緊張した意識が事象と向き合っている様は、その持続する息苦しさも伝えてくる。
 作品「緑の蛇が孵化する音も」(惑星の反対側にいる住人へ)」の一部を紹介する。

   ぼくの眼下には一と月ぶりに黒い森が涌きだすように
   拡がっていて、その森は尖端が乳母の指先の形に伸びてきにも家
   をこっそりと指し示す。だからぼくは苔の靴
   を履いて古いクロモリの自転車に跨がり、道の導くままに
   ペダルを漕いで午後四時のきみの家に辿り着く。まさにその場所
   赤いヴァンデン・プラの前窓に置き去りにされたのは、羊歯の模様
   のある細長い封筒、すなわち正統で一通の手紙。(略)

 形づくられるものたちへの具体的な指図、定義。それ以外のものの侵入は許さないといった頑なな気持ちが、作品を硬質なものとしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする