瀬崎祐の本棚

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詩集「もうずっと静かな嵐だ」 そらしといろ (2020/04) ふらんす堂

2020-04-30 21:10:36 | 詩集
 第3詩集か。新書版の大きさで56頁。
 目次もなく、タイトルもないままに2頁目の1行目から唐突に作品が始まる。*で区切られたただ1編の詩編の世界が展開されていく。
 話者は「誰でもない/誰かの宇宙のような/脳の原野で閃く」、そんな言葉を書き留めている。見える光景は軽く、柔らかいものがあたりを覆っている感触なのだが、微かな不安もあるようだ。

   雲の白さ
   かたさほどの
   骨
   と名付けたものを
   僕らは一つずつ
   交換して
   大事にしていた

 しかし、その光景は軽いが故に同時にどこか頼りなさをも孕んでいたのだろう。西日のあたるソファーに「誰も腰かけていない/ように見えてしまうことに/気をつけなければ」と思ってしまうのだ。だから、「僕らの逃避行めく/旅」も始まるのだ。
 話者がたどっている時間軸に沿って作品も進んでいる。ということは、見て聴いて呼吸をして肉体が生きて行く時間を、感情が捉えているということになる。と同時に、書き留められることによって時間もまた進んでいる。作品の成立が人生を歩んでいる。
 旅は「どこまで行けるか知らない」ものであり、冷たく冷えた身体は石になってしまいそうなのだ。そんな旅からは一人で帰ってきたようなのだ。

   書いた手紙は庭に埋める
   うっかりと掘り返した
   古い手紙のインクは滲んで
   まるで
   春泥にまみれた
   残り雪のいろどり
   冷たく月光が縁取る

 今は、僕と君のいる場所は「二重螺旋を駆ける」ようだとのこと。どこかで二つに分かれた道筋があったことを反芻しながら、それを大切にすることが「互いの幸せを/ほんの少し悔やんで 称え合」うために必要なのだろう。最終連は、

   枯れ木も
   あらゆるものの
   棲み処だから
   手触りだけを
   頼りにして
   振り返る場所のこと

 一抹のうらうらとした寂しさをまといながらも、次の季節に向かう新緑の芽吹きの伸びやかさも感じさせる今回の詩集だった。以前の詩集「フラット」に収められていた”血管スパゲティ”の世界(傑作だった!)からの変容でもあった。
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repure  30号  (2020/04)

2020-04-27 17:57:00 | ローマ字で始まる詩誌
 正方形に近い判型の41頁で、きれいな化粧糸で中綴じされている。13人の作品が並ぶ。

「黄緑に光る」有働薫。
「多田道太郎先生に」という添え書きがついている。多田道太郎といえば京大人文研の高名なフランス文学者である。作者とどのような関係だったのかは詳述されていないが、おそらくは恩師だったのだろう。後半で「大熊町の梨の木 すべて切られて」という行があることから、話者は被災にあった福島の光景に向きあっているのだろうと思われる。丘の尾根に立つ電柱に黄緑色の電灯が点り、「お心にようやく/近づいてまいります」とつぶやくのだ。

   ようやくわたしといえば
   黄緑に光るまんまるな梨の実を
   わが人生から
   捥ぎり取ります

 畏敬の念とともに偲んでいる。祈りともとれるようで、気持ちの中に静かに広がっていく作品だった。

「(後退砂波)ほか」たなかあきみつ。
それぞれが独立したような8つの章から成る。「(火の海)」では、アマゾンの森林がごうごうと燃えている映像を見ている。

   これは死にざまに半端な
   映像モザイクをかけ忘れたのではなく
   ハスキイヴォイスのむせぶゴーストタウンで
   発熱する《命火》も心身の棘も
   喉の濃厚紫煙レトロの灰になるまで
   ぶざまに夢と《またクラッシュしちゃった》

補注には”命火”が藤圭子の歌名であることや、”またクラッシュしちゃった”がTVドラマの台詞だったことを記している。そのような個人的な記憶が作品の中で我が物顔にのさばる。そんな記憶の中の出来事自体は他者には何の意味も無いことであるから、ここではその個人的な記憶を利用して、そこから作者がどのような普遍的なものを引き出したかということになる。そんな意味では暴力的で、挑戦的な作品。さあ、どうだ?
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八景 5号 (2020/03) 神奈川

2020-04-23 18:08:53 | ローマ字で始まる詩誌
 宇田川新聞の木版画を表紙にした詩誌がほぼ2年ぶりに発行された。読むのが楽しい。

 「乾いた広い土地に」野木京子。タイトルの”乾いた広い土地”というのは灰色の犬が見ている夢の風景である。そこに鳥もやってきて、その夢の中にあるまっすぐに続く道を見ている。夢の中のその道はどこまでも続くものなのか、それとも突然に断絶するものなのか。そんな問いがあまりに辛かったのだろうか、最終連で話者自身が不意にあらわれる。

   人の秘密は
   空洞があって
   空洞を取り囲んでいるものがあって
   ときどき 内側から崩れてしまう

 犬の見ている夢について語る話者は、その夢のどのあたりにいるのだろうか。その夢について知っているということが、崩れそうな話者の空洞を支えているのかもしれない。

 成田誠の「伝言」はヒロばあちゃんとの交流を書いた8頁の掌編。死の予感が二人をつないでいるようで、静かに波打っている作品だった。

 宇田川新聞の木版画と廿楽順治の詩のコラボレーション作品は23編。1頁の上段に木版画を置き、下段に12行から16行の詩が収められている。エッチングなどと比べると木版画はそのエッジが柔らかい。そこがほのぼのとした感じを与えながらも、その一方で狐か狸に騙されているような奇妙な感触もある。廿楽の詩の肌触りとも共通するものがあって、両者がひとつとなった作品世界となっている。
 「たこあげ(ほんとはエイ)」。版画は、伸ばした手がやけに大きい女の子が凧ならぬエイを揚げている図。エイの目と口は笑っているように見える。「水のなかで生きてきた」から「死んでもなんとかなるだろう」というのだが、この理屈はどこからやってくる?

   魚といわれて
   ちょっと違うかなという気もするが
   もうさからわない
   この空と
   わたしのうすい区別なんかどうでもいい

 作品のところどころで括弧に入れられた独白があらわれる。上機嫌で浮遊していた作品世界を、冷笑するように眺めている作者自身がときおり顔を出している感じで、その屈折した心情が面白い。それにしても、宇田川の版画と廿楽の詩はどちらが先に相手に提示されるのだろう。どちらにしても、互いに刺激し合っての世界の広がりがあるのはうらやましい。
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詩集「聖堂」 石井宏紀 (2020/03) 思潮社

2020-04-20 17:36:48 | 詩集
 第2詩集か。85頁に19編を載せる。「あとがき」によれば67歳の時に「詩を無性に描きたい衝動」にからだが貫かれたとのこと。詩集にはこの5年間の作品から抜粋している。

 周りを見渡す視線は、これまで生きてきた自己の有り様を検証しているかのように厳しい。そしてどこか、幾ばくかの寂しさも滲んでいるようだ。「小さな花びらほどの言葉」を拾いあつめるようにしていると「熟れた柿の実がひとつ小枝に残った」のである。(「痛み葉」最終部分)

 「花びら」では、話者は森のなかに居るようだ。姿が見えずに叫び声だけが聞こえてくるのだが、「あれは忘れ残して裂けた己が咽笛か」とも思っている。たどってきた道が誤りのないものだったのかと思い返しては独りで佇んでいるようだ。すると、鳥の声に混じって「知らぬ歌が聴こえ」てきたりもするのだ。

   水面を埋め尽くす花びら
   浮遊した心の痛みを抱いて
   日没の時間が止まりかけてくる

 80歳に近い年齢での作品だが、この自分を見つめる視線の厳しさには感嘆してしまう。思わず、もう少し緩やかにされては、と言いたくなるほどの厳しさだ。

 「聖堂」でも、ついに降り始めた雨は「わたしに溜った過去を掬い上げ」る。

   ひとが花を見るのではなく
   いつものところからひとを見て
   ひとの心の在りようを問い質すのだ

 これに続いて「現在のわたしの在りようはどうかと」、話者自身が暗渠の口に問われている。「遙か遠い過去」からの詰問なのだが、今がどのような在りようだったら許されるのか。いや、自分自身を許すことができるのだろうか。

 作者は、私も選者をしていた「詩と思想」誌の投稿欄に熱心に参加してくれていた。こうして詩集を上梓されて次の段階に踏みだされたことが嬉しい。
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るなりあ  44号  (2020/04)  神奈川

2020-04-17 18:21:56 | 「ら行」で始まる詩誌
読み応えのある作品を書く女性3人の詩誌。厚手の用紙で14頁に各自が2編ずつの作品を載せている。

「根が触る」氏家篤子。
 アスファルトを割ってふくらんできた木の根を足裏に感じている。人は邪魔になった大木を切りとっていくのだが、置き去りにされた株と根はしぶといのだ。

   今日も根が触る
   そのさきはどこへ向かうか
   敷石の下で
   とぐろを巻いている

 根は見えないところで復活に向かっている。足裏に触れるのは、その日を虎視眈々と狙っている生命力そのものである。

「小道」小島数子。
 背骨の窪みは、「右往左往する心」がたどる小道であって欲しいと願っている。そんな小道が存在することを感じることができれば、人は随分と安んじて生きて行くことができるのだろう。そう思って見直せば、静かな身の回りの情景もあらためて美しいものであると思えるようだ。最終連は、

   あの世に来て
   この世のことを省みて
   勉強し直しているから心配はいらない
   言っている人がいる気がする
   ひそやかな伸び盛りにいて

「うつわ」鈴木正枝。
 長い間見失っていた暗緑色の分厚く重い皿が食器戸棚の奥から出てくる。私はその存在感にじっと対峙しているのだが、そこには見られることのなかった長い年月が堆積しているのだろう。そんな皿は、皿であってもはやただの皿ではなくなっている。皿の内部には何がこもっているのか。皿を掌で包みこむと、

   閉じこめられていたものが
   滲んできて
   皿も掌も
   今はかすかに濡れている

 皿が怨念でも持っているかのようなすさまじい存在感がある。

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