瀬崎祐の本棚

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るなりあ  25号  (2010/10)  神奈川

2010-11-25 23:18:12 | 「ら行」で始まる詩誌
 「落雷」荻悦子。
 独白体の散文詩。雷を伴う激しい雨脚の中を病院へと向かっている。きびきびとした動作が記述され、それに伴って動く周りの景色が記述される。物は雨に濡れ、傘をさしている私もスカートは濡れ、肩の荷物は濡れている。雨に煙り前方も見えないのだが、

   ない なかった この道は あの日は 私は 係累は たたっ ぴしっ
    雨は幕のように私をくるむ ない なかった と言いたてるのは 
   それはもうなし ないだろう もはや ぴしゃっ 激しい雨に包囲され 
   私はそう誓わされる

 頑なな過去にまつわる思いが表出されている。途中に入り込んでくる雨の激しさをあらわす短い語句が、思いの激しさに絡みついている。そう、思いそのものが激しい雨に打たれているのだ。そして、そんな思いのままに母の病室に入る。

   ずぶ濡れの私は母に言う いるわよ いる ある あるある 愛 娘も息
   子も 孫たちも ぴしぴし 雨が窓枠に染み込んでくる
   (略) 
   昨日は 死にたい母だった 私は優しくくり返す あるわよ 礼儀 私に
   も いいのよ 楽に いる もろもろ お母さん あなたの鞄の底にも 
   あるでしょう

 おそらくは入院中の母の見舞いのはずなのだが、激しい雨に打たれた思いは、ちぐはぐな言葉となって母にぶつけられる。母の元へは我が身が濡れなければたどり着けなかったのだろう。作品の言葉も、一切の状況は説明されないでただ紙面に雨のようにぶつけられている。この日、雷はどこへ落ちていたのだろうか。
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ガーネット  62号  (2010/11)  兵庫

2010-11-24 20:16:58 | 「か行」で始まる詩誌
 「背中」池田順子。
 具体的な人間関係も、いきさつも、なにも説明されないままに、ただ二人の人物のその場での関わり合い方が展開される。相手はわたしに背中を向けていて、無言が二人の間の空間をうろついている。背中は居丈高の拒否の姿勢ではなくて、「穴だらけで」、雨が「今にもふり出しそうな」「雲」も漂っているのだが、

   背中だけが
   ひとりすわっている
   よこには
   もう いい
   のことばが
   わたしの方をむいて
   おおきく立ちはだかって
   しまった
   背中の穴に
   もどれなくなっている

 ああ、気まずいなあ、どうやって取り繕うかなあ。傍目にはいささか滑稽にも見える光景だが、そんな人間関係が視覚化されている。そして「こころ」も「次のことば」も、うずくまっているだけで動こうとはしない。「もう いい がうなだれて/しぼんでいく」と、この作品は終わる。後悔、無力感、諦観、そんなものが一緒くたになって、やり直すこともできないままに時間だけが過ぎていく。
 つい言葉にしたくなるような思想や理屈ではなく、一切の説明を省いた感覚だけがこの作品を支配している。その感覚が巧みな擬人法の駆使ともあいまって、人の有り様を深くとらえている。やはり詩には説明は不要なのだな、ということをあらためて感じさせてくれる作品。
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SPACE  94号  (2010/11)  高知

2010-11-21 22:00:40 | ローマ字で始まる詩誌
 「外的・ほか」南原充士。
 6編の短い作品からなるのだが、まずはそのタイトルが面白い。「外的」の次の作品は「超外的」、その次は「極超外的」、そして「至極超外的」「激至極超外的」「爆激至極超外的」とつづく。
 で、次第に激しさを増していく(と思われる)その”外的”とは何かということなのだが、自分の周りを跳びはねて、自分の存在を確立してくれているものたちの属性であるようだ。それは当然か。はじめは他者との関係を持とうとした時にケイタイが鳴る程度だが、それが未確認飛行物体となる。さらに自分の外側を突き詰めていくと、立つところもない地点をさまよいはじめることとなる。ついには生物の死滅した宇宙空間となり、宇宙空間も存在しないブラックホールとなる。

   存在すら とらえようがなく 貧しい道具と理論で
   巨体の わき腹を かする
   予言に頼らず 近似簡易観察を継続しながら
   反転する時点を追いかける
   仮説が だれもいない 砂漠に 記されている
                        (「爆激至極超外的」後半)

 南原の作品は機知に富むものが多い。珊瑚のように、どこまでが自分でどこからが他者か判らないような生命体は別として、自分が存在するのは他者が在るからである。そう考えると、南原が必要とした外的なものが、次第に常軌を逸していくのが興味深い。
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エッセイ集「空を流れる川」  野木京子  (2010/10)  ふらんす堂

2010-11-19 20:59:57 | 詩集
 「ヒロシマ幻視行」と副題の付いたエッセイ集で、副題と同じタイトルで「中国新聞」に連載されたものが中心となっている。
 野木の詩集「ヒルム、われた野原」の作品の根底にはヒロシマがあるのだということを、私(瀬崎)は彼女からの手紙で知った(当初はそこまで読み込めていなかった)。このエッセイ集では、原民喜の詩碑を訪ね、今でも当時の人骨が埋もれて残っているという平和公園を歩く。そしてアラン・レネの「二十四時間の情事」を観る。より直接的にヒロシマへの思いを語っている。
 
    戦争のために苦しみ、亡くなった人たちのことを忘れないというこ
   と。私もいつか生をまっとうして、痕跡を残さずに消えてしまうだろ
   うということ。私の詩は、そういう想いから出発しているようだ。
                         (「伸びやかな草地」より)

 第1章、第3章は、詩誌「スーハ!」や「something」、「現代詩手帳」などに発表されたもの。その大部分を掲載当時にも面白く読んだが、こうしてまとめて読むと作者のどこかへ沈んでいくような感覚に浸りきることができる。どれも錯覚、あるいは記憶の問題が根底にあって、生きていることの感覚で確かなものを求め続けているようである。どの文章も詩作品の世界と溶けあいはじめる。
 幼い頃に探検した廃屋の記憶を語った「どこにあるの」では、

   二度と行けない場所というのは実際のところ、今はどこにあるのだろ
   う。もう一度行きたいと願ったときには、はるかな闇の、白昼の影の
   ような気配と声をたよりに(そしておそらくは誰かと一緒に)記憶の
   曲がり道に沿って行くしかないというのに。私は誰と一緒に歩いてい
   のだろうか。
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詩集「匙」  中村洋子  (2010/10)  砂子屋書房

2010-11-18 18:11:19 | 詩集
 第3詩集、129頁のソフト・カバーでA5版よりもやや小さい版型で手に馴染みやすい。31編を収める。
 生活の中に埋没しそうになりながらも、視界の端の方をかすめるか細いものを大切に取り出している。大事件が起きたわけでもなく、激しい感情が露呈したわけでもない。それは書きとめなければ次の瞬間にはなくなってしまうようなものなのだが、本当は、そんなものが生活をおくる上での自分を支えてくれているのだろう。
 巻頭の「春の日」は、小さな子が泥だんごを作っている情景を詩う。道のぬかるみに手をさしこみ、指にまつわりつく泥の感触に惹かれているのだ。やがて、子は泥をこね、

   あまったまま ならべる
   やがて乾きひびわれくだけ
   塵となってひるがえる

   吹きよせられた土をまた掬い
   水を注いで新しくつくりかえる

   何かを産みそうな泥だんご
   ひかりが音たててふる日
                             (春の日」最終部分)

 場所は未舗装の道であるわけで、自然がもつ柔らかい感じが作品にただよっている。泥だんごを作る小さな子が、なにか愛しいものを作ろうとしている文字通りの天使に思えてくるではないか。
遺品から亡父について詩った「匙」「眼鏡」はいずれもしみじみとしていた。
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