瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「旗」 嵯峨恵子 (2019/11) ふたば工房

2019-11-22 19:05:12 | 詩集
 84頁に散文詩23編を収める。

 「塔」。村が出来る前から建っている塔についての作品。村人の誰でもが知っているのだが、誰も塔の中に何があるか知らないし、入ろうともしない。塔に入った酔っ払いや旅人はみんな塔に殺されるようなのだ。子供だけが何ごともなく帰ってこられるのだ。

   塔が塔であるために誰かを必要としたことがあったか。ある日、塔が崩れ
   落ちようと村人たちは塔が以前からなかったかのように振舞うだろう。そ
   のようにしてある、村にあるひとつの塔は。

 一体、塔は何なのだろうと訝しくもなるのだが、作品は、こんなものが貴方の周りにもあるのではないですかと、問いかけてきている。さらに言えば、貴方の中にもこんな塔が建っているでしょ、と言っているわけだ。

「花」。見合いで結婚した夫はおとなしく病弱だった。そんな夫は春になるとひとりで出かけた。後をつけると、そこは白い花が一面に咲いている岬で、夫はいつまでも花と戯れていた。私は夢の中で花畑に出かけ、そのたびに白い花を一本ずつ引き抜いてきたのだ。やがて夫は亡くなり、あの岬を訪ねると、

   ふとその中に一本血のように赤い花が混じっていることに気がついた。私
   は躊躇することなくそれを引きぬいた。もう、夢にもここに来ることはな
   いとわかった。

 それは夫の生命のような花畑だったのだろう。そして、そこに咲いている白い花は、本当は私が知っても触れてもいけないものだったのだろう。

どの作品も寓話のようで、それこそある種の奇譚集と言ってもいいような詩集となっている。作品の場合、何を語るか、そして、いかに語るか、この両者のせめぎ合いになることもあるのだが、この詩集は完全に”何を語るか”の面白さだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「ひかりへ」 紺野とも (2019/10) 思潮社

2019-11-20 21:34:31 | 詩集
 第2詩集か。99頁に20編を収める。
 前詩集「かわいくて」では名詞、それもファッション用語やコンピューター用語の乱舞に圧倒されたものだった。その名指しによって今の自分を確かめているようだった。今回の詩集はそんな女の子が少し大人になって現れている。

 「浚渫」。中華レストランで目につくものは天井からぶらさがる腸詰め。そんな中で上海蟹は腹を割かれ詰め物をされる。こわさないでと泣きはらした目ん玉を物好きが喰らうのだ。そこで、

   天井からぶらさがっている腸詰めは
   命綱になってやろうともせず
   いつも蟹たちの死にざまを
   それでも慈愛とともに
   見守り続けているらしい

 他者の痛みを分かち合うことなどはしないが、無関心というわけでもない。他者に冷ややかに寄り添う気配だけを見せているとでも言えばよいのだろうか。それが都会の雑踏の中での作者の立ち位置なのだろう。猥雑さと、その中でのひっそりとした箇所が、巧みに織り込まれている。

 「エクスカーション天現寺」。話者にはその場所が必要だったのか、それとも、その場所があったから話者は体験したのか。いずれにしても、話者はその場所を有効に活用しなければいけない。

   道なりに落とした念は霧消させても
   まだ朽ちない形骸を捨てられない
   跡を残さずになにかつたえたい
   ミストみたいに
   (噴かれて引き裂かれたい)

 ここには自虐をともなったブラック・ユーモア感も漂っている。おそらくは濁っている川は息絶え絶えなのだが、それでも(話者と同じように)簡単には干上がらないのだ。

 「ストリーム」の最終連、「故郷みたいな谷底の街に/わたしたちはつつまれて/よどむことさえいとしい」も好きなフレーズだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガーネット  89号  (2019/117)  兵庫

2019-11-15 23:20:23 | 「か行」で始まる詩誌
 「うたかた」萩野なつみ。
 季節が移ろって、それとともに話者から遠ざかっていくものもあるのだろう。言い切ることの少ない叙述が名残を惜しんでいる。それこそ儚い感覚を確かに捉えた美しい作品。最終部分は、

   いま
   ほぐれた唇から放られたひかりが
   いとしい名をかたどる
   だれの目にもとどかない場所で

 廿楽順治は今号では京都の地名をタイトルにした2編を発表している。その中の「中立売」。
 彷徨はすでに始まっていて、読む者はいきなりその世界に入らされる。顔のいろいろな部分をぼろぼろと落としながら彷徨っているのだ。事象はくっきりと描かれているのに、その意味はどこまでも曖昧なままに面白く、

         川に行き当たると
             それみろ
      やっぱり鈴木医院がある
        小僧さんがにやにや
     ばらで親の骨を売っていた

 「二匹」神尾和寿。
 お互いがそっぽを向いたような短い9つの章からなる作品。なみなみと悲しみがそそがれている簡単なコップや、遠くに想い浮かべている美しい人、だれもコーヒーを飲んでいないコーヒータイムなど。それらが集まってポップアートのような世界を形づくっている。

   柳の下にどじょうがいる
   どじょうは二匹いる
   一匹目は幸せになった
   二匹目はどうなるのだろう
   ぞくぞくと
   見物人が集まってくる
              (④全)

連載されている高階杞一の「詩集から」、神尾和寿の「詩誌時評」は、毎号その読みに感心しながら愛読している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「冬の蟬」 水島美津江 (2019/10) 土曜美術社出版販売

2019-11-13 23:22:07 | 詩集
 14年ぶりの第5詩集。105頁に20編を収める。
 帯文に中村不二夫が「この詩の主人公はだれもが等しく傷を負い救済を待っている」と書いているが、実に的確な評だと思った。
 表紙カバーにはアルチュール・ランボーがあしらわれ、奥付けによれば作者は「ランボーに触発されて詩を書き始め」たとのことだった、

 「赤レンガの家」。大男は疎外され、孤独な生活をしているようなのだ。記憶の中ではy呼んでいる声も聞こえてくるのだが、今は、

   いつまでも瞑れない目の奥で
   切ない海が小さく渦を巻いている

 この詩集の中で、どこに居ても、誰と居ても、話者は独りである。だからこそ相手を想い、相手の存在を求めてもいる。薄ら寒さがあたりを包んでいて、そんな中で微かな温もりを確かめようとしているようだ。
 連と連の間は不規則で、1行のこともあれば5行程度が空いている。また行頭もあちらこちらで下げられている。それらは、言葉が組み立てられるときの息継ぎに拠っているように感じられた。

 「つれて帰れない」は病床に在る姉を詩った作品。幼かった頃から話者を愛してくれた人だったのだが「もはや訪ねて来る人もいない寂しい人」なのだ。

   懸命に今を生きようとするけど
   季節や年月を何処かにおいてきてしまって
   退屈なうす眠りのなかで
   生き残されていく時がやせ細り
       白く静かに流れていく

 「壊れる」では、会社勤めができなくなった男が部屋の奥に籠もり、何もしなくなってしまった老婆が北の部屋にいる。この作品は生まれ変わった二人が「薄い衣を羽織った少女と/黄色いシャツの少年」になってむかいのふたつのドアーから出てくる幻想で終わっていく。

 振り返っても誰も居ないような、そんな辛い詩集だった。そして、そんな作品を書かなければならなかった作者がいるのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「野の戦い、海の思い」 水島英己 (2019/10) 思潮社

2019-11-09 08:04:05 | 詩集
 144頁、4章に分かれていて30編が収められている。

 「a interior」の章にあるのは、沖縄、そして亡くなった母を詩った作品。そのどちらの主題も重く、作者の内側へ沈み込んでいく激しさがあった。
 「夏の旅」では、話者は納棺前に母の冷たい足を手でさすっている。話者が小学生だったころ、母は妹を背負い小学生になる前の僕の手を引いて走ったのだ。

   投げだされた足の
   かすかなぬくもりは何を伝えようと
   まだこの手に残っているのか

 何気ない出来事が、今となっては掛け替えのないひとときであったことを感じている。そして作品の最後の言葉は、「今度は僕が走る」。

 「b exterior」にあったのは、今いる場所から踏み出そうとする作品だった。「愛里のために」では、里の幹線道路に散乱しているハリネズミの死体を見ている。うずくまって「むしろ己へ向けて/小さな棘を立てるしかない」小動物に、話者は我が身を重ねているようだ。

   生まれた里の名であり、おまえの名でもある
   愛
   物語はそこで深く噛まれ、うち捨てられる
   朝露に濡れて光る棘
   他のだれでもない
   おまえに刺され、傷つくのだ

 一番面白く読んだのは「d monologue(野戦歌仙)」だった。ここの5編は、4行を1連とした散文詩(ときに3行や5行のこともある)で、35連前後からなる。作品の終わりに日付が入っており、それによると各作品は2~3ヶ月かけて書かれたことになり、一時はFacebook上に発表されていた。

   ブルーベリーのような人が顔を上げ、体を前に乗り出し、しかしその細い手は
   斜めに座った体を支えているのだが、遠くを見つめて、いざりながら進もうと
   している。小高いところにある木造建築の古い家、下からピンク色の服を着た
   痩せた女性が草原の中から見上げている、その後ろ姿。
                         (「さらされた場所」第1連)

日々の思索が断片的に捉えられ、それが集まることによって作者のその時期の総体が立ち上がってくる仕掛けになっていた。このように、自分を言語化して捉え直すという持続する志には見習うべきところがあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする