熊本(あるいはその隣県)に縁のある人が集まっている。7人の詩作品(ひとつは既詩集からの転載)、それに2つの評論が載っている。
「途上」清水らくは。
早朝5時の空に満月が見えたのである。それは”扉”だと理解した私はそこへ飛び込むのである。それはなにかを追い求める行為なのだが、もちろん生きている間はいつまでも続くようなことでもある。若さゆえのまばゆいような”途上”に作者はいるのだろう。
まだ開いていない扉がある
塗り直されたばかりの道を歩いて
住み慣れた家へと帰る
月のない昼間に
不完全な私がいる
「九品寺」平川綾真智。
作者独特の言葉のリズムで、雨に濡れた風景が描かれ、それに呼応した話者の湿った奥底が展開される。”九品寺”が特定の寺を指すのか、単に地名を刺すのかは定かではないが、極楽往生への澱んだ希求があるようだ。言葉は言い切られるのか、それともその言葉への未練を引きずるのか、話者の意識もどこまでも澱んでいくようだ。
匂う 、 細身が移って生える 。
出窓に種雨粒の瘡蓋、が未だ潤い硝子へ縫い込まれ つ
、ていく気配の微かへ腰、を抱きあげたら、
もいでみる手淫、 に肌が穴を持ち
連なる風通りが一塊の悪寒を 。作って、のし掛かる
麻田あつき詩集「おおきな魚*トジル」の書評を「少女性から、まなざされた太母」と題して平川綾真智が書いている(その詩集から「トジル」が転載されている)。少女として登場した麻田がとらえようとした作品世界を、的確に評している。
「途上」清水らくは。
早朝5時の空に満月が見えたのである。それは”扉”だと理解した私はそこへ飛び込むのである。それはなにかを追い求める行為なのだが、もちろん生きている間はいつまでも続くようなことでもある。若さゆえのまばゆいような”途上”に作者はいるのだろう。
まだ開いていない扉がある
塗り直されたばかりの道を歩いて
住み慣れた家へと帰る
月のない昼間に
不完全な私がいる
「九品寺」平川綾真智。
作者独特の言葉のリズムで、雨に濡れた風景が描かれ、それに呼応した話者の湿った奥底が展開される。”九品寺”が特定の寺を指すのか、単に地名を刺すのかは定かではないが、極楽往生への澱んだ希求があるようだ。言葉は言い切られるのか、それともその言葉への未練を引きずるのか、話者の意識もどこまでも澱んでいくようだ。
匂う 、 細身が移って生える 。
出窓に種雨粒の瘡蓋、が未だ潤い硝子へ縫い込まれ つ
、ていく気配の微かへ腰、を抱きあげたら、
もいでみる手淫、 に肌が穴を持ち
連なる風通りが一塊の悪寒を 。作って、のし掛かる
麻田あつき詩集「おおきな魚*トジル」の書評を「少女性から、まなざされた太母」と題して平川綾真智が書いている(その詩集から「トジル」が転載されている)。少女として登場した麻田がとらえようとした作品世界を、的確に評している。