瀬崎祐の本棚

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詩誌「河口から」 7号 (2021/04) 兵庫

2021-05-31 13:45:43 | 詩集
季村敏夫の個人誌。9人のゲストを迎えて96頁。

「昨日と今日のあいだ」季村敏夫。
4編の行分け詩で、これからも続く連作のようだ。背負ったものの重みを確かめながらの日々が横たわっている。
その中の「煙仲間」では、ある人と湯豆腐を食べたり、牛タン料理を馳走になったりしている。温かさに満たされた交流があったのだろう。そして、

   語り足りない
   それでよいのだ
   わかれて数年後
   そのひとは乾涸びた状態で発見された

どのような事態がその人に起きたのかは語られない。大切なのは、話者から遠い位置での事柄そのものではなく、その事態と向き合った話者自身の有り様である。それは「湯煙はどこにもなく/夕闇は身体を冷やす」風景と共にある。

「コロナウイルス禍をめぐる十一の断章」細見和之。
詩誌「びーぐる」50号では「詩とは何か」という特集を組んでいた。そこで細見は、「詩とは「厄災のほとぼりのただなかで存在しなかったかもしれないものとして書かれ得るもの」である。」と定義している。
そして今回、鮎川信夫の詩論集から「すぐれた詩を読んだときの新鮮な衝撃の底にあるものは、「いままでの世界に欠けていたもの」という実感であります。(以下略)」という一節を紹介している。さらに現在の厄災であるコロナウイルス禍が詩に及ぼしているものに考察している。生命体である人間とウイルスと、そして自然淘汰との関係についての考察は面白いものだった。
「殉教覚悟の生命体」という断章では次のようにも考えている。

   肉体が渇きと飢えを訴えるとき、私たちは意識的に水分と栄養を口に入れる。それで肉
   体の渇きと飢えがいっときおさまる。意識は肉体の主人なのだろうか、奴隷なのだろう
   か。そもそもそのとき私たちは意識なのだろうか、肉体なのだろうか。

季村の「分析的に身をさらす ーあとがきにかえて」も印象的な文であった。安易な感想などは書くべきではないと思わせるものだった。

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詩誌「詩素」 10号 (2021/05) 神奈川

2021-05-27 22:44:59 | 「さ行」で始まる詩誌
「木箱」海埜今日子。
ちいさな箱とおおきな箱。何が入っている箱なのだろうか、いや、何を入れればよい箱なのだろうか。おおきな箱は汗ばんだり、ちいさな箱からきらきらしたものがかんじられたりする。「坂をのぼりきった記憶がはがれていく」具象と抽象が混じり合った世界が危うい調和を見せていて、緊張感に満ちている。

    板がとおくできしんだ。息がすこし苦しかった。板をあかるく、よどんでいたのは、ど
   ちらの箱であったのか。木漏れ日が波紋のようです。ちいさな木の花が咲く。
    おおきな箱を、起きるのだと、坂のとちゅうでおしえてくれたものがある。坂のしたで
   水音がする。やわらかい実がころがった。

似た形象と同じ音を持つ「板」と「坂」が、ときに重なり合い、ときに互いからこぼれ出すものを支え合い、作品に陰翳を与えていた。

「ransel」池田康。
小学生が毎日学校へ背負っていくランドセルは本当に重い。こんなに小さな子がこんなに重いものを背負うのか、と驚いてしまう。

   ランドセルの闇の奥 手の届かぬ
   怒(ど)の泥 悲(ひ)の火 寂(せき)の化石
   だから小学生はあんなに重そうなのだ
   口をとざして神妙な顔をして
   心持ち前屈みになって
   アスファルトをゆく

作者はそんな彼らに「孤独な/小学生よ」と呼びかける。そんな重いものを持たせてしまっているのは、社会を作っている私たち大人なのだな。

創刊10号を記念しての投稿詩の選考がおこなわれている。17編の応募があったとのこと。最優秀賞には鹿又夏実「赤い電車に乗って」が選ばれていた。三浦海岸に向かう電車は赤く、夕陽は時間を曖昧にして妹も赤く染まっている。最終部分は、

   夕陽の残骸でよごれた線路はもう後戻りできない
   お母さんの悲鳴に似た鋭い音を出しながら
   電車はタンクの股下をはいだし走っていく

ノスタルジックな雰囲気をたたえて、電車はそのまま異世界へ行ってしまうようだ。
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詩誌「彼方へ」 6号 (2021/04) 埼玉

2021-05-24 20:56:13 | 詩集
岡野絵里子と川中子義勝の二人誌。A5判、36頁。

「WHITE」岡野絵里子。連作のようで、「ⅰ祖父」の副題が付いている。
オーバーコートを着た祖父の「従いて来るように」という仕草にしたがって、私は荒涼を歩く。やがて祖父の家に着く。「彼は帰ってきたのだ 煙る時間の中へ」と、静かな幻想譚が語られる。おそらくは波立っているであろう私の感情を抑制して、散文詩型での表現が効果的である。無言の指示に従って私が掘った矩形の穴に祖父は横たわる。こうして死者は時のなかで閉じられたものになるのだろう。そして閉じられるためには、こうして作者はもう一度祖父に会う必要があったのだろう。最終部分は、

    夢が閉じていく

    誰 私だろうか 泣いているのは

    私は激しく引きずられた 朝の方へ

    胸の上で両手を組んで 私も横たわっているらしい 微
   かな白い光の下で 私は目を開けた 生きている目を

「記憶の旅」川中子義勝。「-Requiem」という副題が付き、4編の作品から成る。
幼い日の記憶、あるいは異国の地にあったときの記憶、そして新しい道に歩み出した日の記憶。どの記憶もいままでの人生の節目をかたどっているものなのだろう。

   時の艀に迎えられた
   あなたの歌も いまは遥か
   渡りゆく月の舟に託され

   輝う夜の
   おおいなる響きの宙(そら)へ
   静かに滑りだし
   懐かしい船路に還っていく
                 (「4 時の艀」より)

私事になるが、私(瀬崎)も最近、思い出を核にした作品を書き継いでいる。記憶はその人の人生を支えてくれているわけだが、その記憶は、今の自分が、今の感情で、辿っているものに他ならない。ということは、記憶の旅は今の自分をあらためて検証するための旅、ということになるのだろうか。

巻末の川中子義勝の「マールブルク」というエッセイでは、20歳代でドイツ留学したときの思い出が語られている。
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詩集「時の錘り。」 須永紀子 (2021/05) 思潮社

2021-05-21 17:36:32 | 詩集
 第6詩集。93頁に20編を収める。

 いくつかの作品では旧約聖書や古代ギリシャの物語が作品と重なり、陰影を深くしている。「リリトⅠ」「リリトⅡ」では、アダムの最初の妻でデーモンと交合したリリトがこの世界で話者を呼び続けているようだ。また別の作品では、話者は他者には理解してもらえない言葉を話す〈トリ〉であるし(「バルバロイ」)、あるいは記憶の水を流し続ける小鬼の姿なのだ(「ガーゴイル」)。これらの作品世界では、話者は否応もなく定められた受難に耐えなければならない存在であり、その世界に対抗するために話者は言葉を発しているようだ。

 「きみの島に川が流れ」では、きみは巨大な海中の怪物に追われて島に帰還する。その島で「長い無音が新しい川を呼びこむと」友人は去ってしまったのだ。

   ひとが消えても
   川は川としてあり、島全体が湿って
   街角に貼られたポスターの切れ端のようだ
   何度も上映された古い映画の
   クレジットの下方に書かれた名前
   「そんなひともいたね
   ようやく思いだされるタイプの、きみは一人で
   ひそかに望んでいることがふるまいにあらわれる

 無意識のうちにきみは独りであることを求めていたのかもしれない。怪物に追われるということは独りになるための場所をさがすことだったのかもしれない。しかし終連で話者は、「ボートに揺られて/向こう岸へ行くこともできる」ときみの明日について語る。それこそが”きみ”を語った話者の明日でもあるのだ。

「緑の靴」。破れさけた古靴を脱ぎすてて、わたしははだしで帰郷する。すると、わたしの足を付着した藻が包みこむ。草を抜いている母の背中に近づき声をかけようとするのだが「這いあがってきた藻が繁殖し/口から漏れるのは息だけ」なのだ。わたしの声はなぜ母に、故郷に、届かないのだろうか。すでに遅すぎたのだろうか。思いが届かないもどかしさと、陥ってしまった状態への悔恨が藻のように絡みついている。美しい余韻を残す終連は、

   わたしは川への径を急いでいる
   藻の靴は時を待たない
   川に属する者に帰還をうながす
   夜が近づく

 作品「試みの岸」では、「室内はみずうみのように静かで」「わたしは部屋ごと運びさられる」し、作品「広野」では閉じた眼の「まぶたの裏に生まれたての広野が映」っている。作者は錘りでつけられた傾斜をすべるように新しい世界に向かっていくのだろう。
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詩集「一行詩」 高岡修 (2021/03) ジャプラン

2021-05-18 21:54:52 | 詩集
 第20詩集。95頁に、タイトル通りに全編、1行の作品が80編収められている。

 一行詩と言えば誰でも思いうかべるのは、北川冬彦の「馬」であり、安西冬衛の「春」だろう。馬が軍港を内臓していたり、てふてふが韃靼海峡を渡って行ったりするのだが、その一行の表現で世界と吊り合うものを表現しようとしているわけだ。
 そしておそらくは、多くの人が一度は一行詩を書いてみたことがあるのではないだろうか。私(瀬崎)も何編も書いてみたことがある。しかし、どうしても無季語の(場合によっては自由律の)俳句との区別点が判らなかった。

 作者は詩人であると同時に俳人でもあり、8冊の句集も出している。そんな作者であるから、一行詩と俳句の違いを充分に認識した上でこの詩集を編んでいるわけだ。作者は「一行詩の場合、まるで表札のかかった玄関で立ち止まるかのように、私たちは題で立ち止まり、それから家の内部である本文には入ってゆく」と延べている。たしかに題を表札として捉えると、イメージ的によく判る。

 その点からは、題と本文は対立するように引き合っている関係が好いのではないかと勝手に思った。好きな作品を挙げてみる。

      未明
   鏡の渚に打ち上げられている顔ののっぺらぼう

      迷子石
   氷河が巨大な岩石を残していった僕の枕辺

      日曜日
   怠惰な死体となってベランダに吊されている

 また、題で提示されたものが、本文で説明されるのではなく、その意味するものが深められる関係の作品も面白い。たとえば、

      蝸牛
   永劫をかけて捨てにゆく空無の眩暈

      水滴
   ひとつぶの水滴にめざめては途方に暮れている海

      火口湖
   雲が溺死を復習している

 こんな詩集を見せられると、懲りずにまた一行詩を書いてみようかと(不埒にも)思ったりしてしまうわけだ。
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