季村敏夫の個人誌。9人のゲストを迎えて96頁。
「昨日と今日のあいだ」季村敏夫。
4編の行分け詩で、これからも続く連作のようだ。背負ったものの重みを確かめながらの日々が横たわっている。
その中の「煙仲間」では、ある人と湯豆腐を食べたり、牛タン料理を馳走になったりしている。温かさに満たされた交流があったのだろう。そして、
語り足りない
それでよいのだ
わかれて数年後
そのひとは乾涸びた状態で発見された
どのような事態がその人に起きたのかは語られない。大切なのは、話者から遠い位置での事柄そのものではなく、その事態と向き合った話者自身の有り様である。それは「湯煙はどこにもなく/夕闇は身体を冷やす」風景と共にある。
「コロナウイルス禍をめぐる十一の断章」細見和之。
詩誌「びーぐる」50号では「詩とは何か」という特集を組んでいた。そこで細見は、「詩とは「厄災のほとぼりのただなかで存在しなかったかもしれないものとして書かれ得るもの」である。」と定義している。
そして今回、鮎川信夫の詩論集から「すぐれた詩を読んだときの新鮮な衝撃の底にあるものは、「いままでの世界に欠けていたもの」という実感であります。(以下略)」という一節を紹介している。さらに現在の厄災であるコロナウイルス禍が詩に及ぼしているものに考察している。生命体である人間とウイルスと、そして自然淘汰との関係についての考察は面白いものだった。
「殉教覚悟の生命体」という断章では次のようにも考えている。
肉体が渇きと飢えを訴えるとき、私たちは意識的に水分と栄養を口に入れる。それで肉
体の渇きと飢えがいっときおさまる。意識は肉体の主人なのだろうか、奴隷なのだろう
か。そもそもそのとき私たちは意識なのだろうか、肉体なのだろうか。
季村の「分析的に身をさらす ーあとがきにかえて」も印象的な文であった。安易な感想などは書くべきではないと思わせるものだった。
「昨日と今日のあいだ」季村敏夫。
4編の行分け詩で、これからも続く連作のようだ。背負ったものの重みを確かめながらの日々が横たわっている。
その中の「煙仲間」では、ある人と湯豆腐を食べたり、牛タン料理を馳走になったりしている。温かさに満たされた交流があったのだろう。そして、
語り足りない
それでよいのだ
わかれて数年後
そのひとは乾涸びた状態で発見された
どのような事態がその人に起きたのかは語られない。大切なのは、話者から遠い位置での事柄そのものではなく、その事態と向き合った話者自身の有り様である。それは「湯煙はどこにもなく/夕闇は身体を冷やす」風景と共にある。
「コロナウイルス禍をめぐる十一の断章」細見和之。
詩誌「びーぐる」50号では「詩とは何か」という特集を組んでいた。そこで細見は、「詩とは「厄災のほとぼりのただなかで存在しなかったかもしれないものとして書かれ得るもの」である。」と定義している。
そして今回、鮎川信夫の詩論集から「すぐれた詩を読んだときの新鮮な衝撃の底にあるものは、「いままでの世界に欠けていたもの」という実感であります。(以下略)」という一節を紹介している。さらに現在の厄災であるコロナウイルス禍が詩に及ぼしているものに考察している。生命体である人間とウイルスと、そして自然淘汰との関係についての考察は面白いものだった。
「殉教覚悟の生命体」という断章では次のようにも考えている。
肉体が渇きと飢えを訴えるとき、私たちは意識的に水分と栄養を口に入れる。それで肉
体の渇きと飢えがいっときおさまる。意識は肉体の主人なのだろうか、奴隷なのだろう
か。そもそもそのとき私たちは意識なのだろうか、肉体なのだろうか。
季村の「分析的に身をさらす ーあとがきにかえて」も印象的な文であった。安易な感想などは書くべきではないと思わせるものだった。