瀬崎祐の本棚

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詩集「ひばりの声が聴こえない」 岩崎恭子 (2017/09) 空とぶキリン社

2017-11-29 17:41:13 | 詩集
 第1詩集、65頁。作者は50歳となるが、20代の頃からの作品17編を収める。
 巻頭に置かれた「このまま」は、何かに弱った心が安寧に向かう作品。夜の闇のなかの紫陽花は「ゆっくりと呼吸をくりか」えしているのだ。そして闇のなかでも私のなかの紫陽花は花をひらく音を伝えてくるのだ。静かに今の自分を肯定することによって励ましているようだ。最終連は、

   紫陽花は
   今夜も
   闇に受けとめられ
   その内側をあたためつづけ

 「橙色の魚(1)」では、私はどぶ板の下におびただしい数の小魚の死骸を見つける。腐って白く濁った魚を夫と一緒に土に埋めていく。「これはあの時の私/これはその前の/これは・・・・・・」と、私は夫にひとつひとつ説明していく。どんなに辛いものを抱えて生きてきたのだろうと思わされる。そんな私のすべてを夫は包み込んでくれているようなのだ。

   私も腐った臭いがしない?
   と問うと
   夫は黙ったまま私を抱きしめ
   もう終わったからと
   おだやかにほほ笑んだ

 このように、この詩集の作品は弱いものとして寄りそわれ、また弱いものに寄りそっている。自分が弱いことを知っている者は、弱い他者に気持ちを沿わせることができるのだろう。作者は未熟児病棟での医療従事者であるようなのだが、潰える小さな命への思いも優しい。
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詩集「夜更けわたしはわたしのなかを降りていく」 水出みどり (2017/10) 思潮社

2017-11-25 10:00:30 | 詩集
 第5詩集で93頁。Ⅰは行分け詩14編、Ⅱに散文詩9編が収められている。
「水のらせん階段を降りて」。そこには町が沈んでいたのだ。雪が降り、海鳴りが響く町である。そこでは言葉を発しないひとびとが行き交っているようで、

   ひとびとの背には
   まだひれが残っている
   行き交うとき
   ときにしなやかに優しく
   ときには愛撫するように激しく
   ひれを振りあう

 そして話者は、少女だった日に「みうしなった/父を/この町で探す」という。幻想的な情景と作者の切ないような思いが、自然に溶けあっている作品となっていた。

 「ぬぎ捨てた影を」は14行の短い作品だが、「月の光をぬすみ蛇が脱皮している」といった鮮やかなイメージを差しだしてくる。そしてわたしも「白いひかりを盗」んで脱皮しているのである。それは「赤い舌に/焔をとも」すことでもあるのだ。

 作者は医療従事者のようで、精神が脆くなった病室の人たちも描かれている。しかし、脆くなった精神を抱えた有り様は、そのままでその人の尊厳であるわけだ。生きた証があらわされていることに変わりはないだろう。

 詩集最後には、巻頭の「水のらせんを降りて」と呼応し合うように作品「夜更けわたしはわたしのなかを降りていく」が置かれている。わたしのなかには、わたしの知らない場所があり、そこを降りていくと、そこには海がひろがっていたのだ。

   いつかわたしは波のおおきな循環のひと
   しずくになる。寄せては返す波のひとし
   ずくになってあなたのなかへ還っていく。

 自分が何か大いなるものに組み込まれていたことに、あらためて気づいたのかもしれない。それはしずかに満ちてきてわたしを濡らすのだろう。
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詩集「IC」 カニエ・ナハ (2017/10) 私家版

2017-11-23 21:47:01 | 詩集
 60頁ほどの軽快な装幀の詩集。巻末の目次によれば18編の作品が載っていることになっているが、そのほかに12首の短歌も載っているのだ(後述参照)。
 この詩集では、タイトルはすべて短歌の形式をとっている。というよりも、短歌がタイトル代わりに置かれ、それに加える、あるいはそこからあらたに始まる、といった風に詩行が続いている。その詩行も、始めのパートでは散文詩、次のパートでは縦書き行分け詩、つづいて横書き行分け詩、そして最後のパートはタイトルのみとなっている(要するに、短歌のみが置かれている)。

 第1のパートから「前線は水。満たされない約束に、月は石へと。川は影へと」。
 子どもらは川底に仏の石を見つける。それは小さな島であり、川底からの目が集まっている場所でもあるようなのだ。最終部分は、

   向こう側の、自分自身を燃やしていると、解き放たれ、鬼になって、恐れられた。誰もが
   おっている石の、流れに沿って、そのようにして、命をおった人たちの、大雨によって、
   壊れた寺院は、みたことない仏につながって、点と点を結び始めました。

 ”おっている”の意は、”追っている”のか”負っている”のか。命を追い、命を負う。どちらも言い得ているような気がする。

いくつかの作品では映画が題材に取り上げられている。そして舞台としての病院。映画は虚構の物語であり、一方で病院は肉体を強く意識する場所だ。作品「夢でみた映画のエンドロールにて白と黒の慰霊碑を建てる」は会話が混じった行分け詩。「しばらくの間、命を続ける」私は病院にいる。

   「私はベッドの上に横たわっていましたが、背中にガラスが。」
   「私は数日後に死亡しました。」
   「そのとき私はひとりでした。」

 既に亡くなったような人たちも現れ、パートを追うごとに次第に作品の実体も少なくなっていく。あるいは消えていっている、というべきか。
最後のパートから短歌(タイトル?)を1首あげておく。

   夕暮れは廃墟。まってて。遮断機の向こうに私を迎えにいく

 私は、もう遮られた向こうにしか存在しなくなっている。遮断機のこちらの実体は消えてしまっているようだが、「まってて」という呼びかけはほのかに暖かい。
 非常に意欲的な詩集である。薄く小さな判型の詩集に、ぎっしりと豊かな世界が詰め込まれていた。
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詩集「右から二番目のキャベツ」 服部誕 (2017/10) 書肆山田

2017-11-21 17:47:47 | 詩集
 第4詩集。83頁に24編を収める。
 「右側から二番目のキャベツ」では、自転車に二人乗りをしてわたしたちを追い抜いていった女の子たちのおしゃべりが聞こえたのだ。八百屋で右から二番目のキャベツを買ってきて食べるとしあわせになれる、そんな北欧の言い伝えがある、そんなおしゃべりだったのだ。

   わたしは今 娘の手をひいて
   やわらかい春のキャベツを買いに行く
   ちょうどその途中なのだよ
   ありがとう

 きっと話者は、右から二番目のキャベツを娘や妻のために買ったにちがいない。そしてすれちがっただけの女の子たちにそっとお礼をつぶやくところが、作者らしい思いだ。しあわせになれるという言い伝えは、それだけでたしかにしあわせを届けてくれている。

 どの作品もとても素直に書かれている。こんな事を書くのは不適当だと言われてしまいそうだが、作者はとても”好い人”なのだろうと思ってしまう。ということは、私があまり好い人ではないということでもある。なぜなら、人を騙すことばかり考えているからである。この詩集の作者は読む人を騙してやろうなどとは考えていない。そこがとても気持ちがよい。

 「鍵」は三本の鍵がぶらさがったキーホルダーが詩われている。

   畢竟どんな幸福も過去のなかにしか存在しないのだ
   そしてすべては過ぎ去るものだとしても
   わたしの死だけは過ぎ去ることなくつねに未来にあるのである
   その確信がわたしの現在を
   過去から未来へと流れてゆく
   茫漠とした人生の時間のなかにつなぎとめている

 いささか理詰め過ぎるきらいはあるが、言われてみれば、なるほど、そうか、と納得させられてしまう。ここにはぶら下がっていない四本目の鍵は、忘れてしまった過去の幸福を未来のどこかで思い出すための鍵だとのこと。
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イリプス 23号 (2017/10) 奈良

2017-11-18 00:17:36 | 「あ行」で始まる詩誌
 「斧」冨上芳秀。
 部屋には斧が置かれているのだが、その斧はおぞましい過去を持っているようなのだ。私はなぜかその斧を持って立ち尽くしているのだ。しかし、実はそれは夢の中の光景だったのだが、秀逸なのは最後の展開。映画を観ているようなあざやかなイメージが喚起される。

   毎晩、私はそんなおそろしい夢を繰り返し見るのだった。その時で
   あった。後ろのドアが静かに開いて誰かが入ってくる気配を私は感
   じた。

 「水族館はこわいところ」中塚鞠子。
 クラゲを観たくてわたしは水族館へ行ったのだ。そしてクラゲを観ながら死に方についてとりとめもないことを考える。しかし、そんなことを水族館でしてはいけなかったのだ。なぜなら、

   気がつくとわたしの入っている水槽は、丸い楕円形で小さな透明な
   傘のクラゲで混雑している。

 想念と肉体は容易に入れ代わってしまう。ついには「生存競争に敗れ更にストレスで、わたしはいずれ消えていなくなる」のだ。軽い口調の独白体なのに、読者もいつしか”こわいところ”へ連れて行かれている。

 「装幀ノ夜」3は、澪標や砂子屋書房の本の装幀などでお馴染みの倉本修のエッセイ。美大を卒業して版が学校へ入学した頃の、転機となる人たちとの出会い、”装幀修行”の始まりなどがつづられていて、楽しい読み物となっている。、
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