瀬崎祐の本棚

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黴  10号  (2014/06)  埼玉

2014-06-14 11:19:28 | 「か行」で始まる詩誌
 「キーワード」秋山公哉。
 ”キーワード”という目には見えないものを、可視的なイメージで追った作品。それは「転がり出してしまった/ビー玉のよう」で「手を離れた/ナイフのよう」でもあるのだ。それは「いつも/ここではないどこかへ」逃げていくようなのだ。
 ”キーワード”が逃げていく先の草原の風景が軽やかなイメージで描かれ、見える世界がどんどんと広がっていく。そして”キーワード”の逃げ方も軽やかなのだ。「窓から/飛び出そうとする言葉のように」であり、「ページから/飛び散る文字のように」なのだ。

   追いかけるのは自分
   いつも
   ここではないどこかへ

 逃げていくそれは、まるでひらひらと舞う蝶のようなイメージである。もう少しで捕まえられそうなのに、もうちょっとのところで身を翻してしまうようだ。そして実は、

   追われるのも自分
   いつも
   ここではないどこかへ

それは「読みかけの本」や「未完成の言葉」を遺していくのだ。
 キーワードは自分が自分であるための要になるものなのだろう。自分らしくあるために、そのキーワードになるものを捕まえようとして人は誰でも日々を過ごしているわけだ。
 しかし、それゆえに捕らえてしまうと、自分の営みもそこで終わってしまうのかもしれない。だから、作品は「キ-ワードは/いつまでも/ここではないどこかへ」。
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水盤  13号  (2014/05)  長崎

2014-06-12 20:03:13 | 「さ行」で始まる詩誌
 「牡蠣小屋」平野宏。
 いきなり「だめだよぉう喰っちゃよぉう」と言われるのである。「ここはそんなとこじゃないんだよぉう」と言われるのである。私は牡蠣を焼いて食べていただけのようなのに、だ。私は、当然のことのように、ここは牡蠣を食べるための場所だと思っていたようなのに、だ。
 このように、牡蠣小屋の中での理解不可能な状況が描かれている。「喰うなって?」と訊ねかえす私に、父は「おまえが口に入れたときはちょっと/情けなかったぞ」とまで言うのである。
 この牡蠣小屋の中は、外とはまったく違う決まり事、掟に支配されているようだ。しかも一番身近な存在であったはずの父も、私には理解不可能な掟の側にいるようなのだ。父にまで非難されては、私一人がここの世界では異邦人のようではないか。
 別の客は「水を 鍋で焼いてい」る。なに? ここではそれが正しい行為なのだろうか。最終部分は、

   ほ あのご夫婦
   父が羨望の声をだした
   あせらず牡蠣からやっていくんだ
   ほら乗せろ乗せろ
   牡蠣が爆ぜて顔に飛んだ
   もう二人分追加するか と父がいった
   外で車のドアの閉まる音がして
   どやどやと三人入ってきた

 ”牡蠣からやっていく”とはどういうことなのだろう。食べてはいけない牡蠣をただ焼いているのか。いや、焼いているのは何なのだろうか。どやどやと入ってきた三人はまるで私をどこかへ連行していくような予感がする。牡蠣を三個も食べたのがいけなかったのだろうか。
 この牡蠣小屋の中の掟はどういうことだったのだろう? 何でもない場所が異次元世界へ変容している様が見事だ。
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詩集「浮標」  若木由紀夫  (2014/03)  komayumiの会

2014-06-10 18:55:27 | 詩集
 第2詩集。88頁に20編を収める。
 作者は秋田県在住で、「あとがき」には「津波、原発被災地から遠く安全な地に居ても、私の空はいつも曇っている」とある。海辺を詩い、草原を詩い、夏草を詩っていても、作品の根底には鬱屈したものが流れている。
「ブランコに寄せる二つのソネット」の(Ⅰ)は、「ベン・シャーン「解放」に寄せて」と題されている。ベン・シャーンのその絵は、傾いた建物などの荒れた風景を背景にして吊り輪のような遊具にぶら下がって回っている三人の少女を描いている。彼は第二次世界大戦のパリ解放に際して描いたとのこと。”解放”であるから、希望とか明るさとかがありそうなものだが、私(瀬崎)が受けた絵の印象はどこまでも暗く沈んでいるものだった。若木のこの詩も、どこにも出口のない寂しさを漂わせている。少女たちはただ同じ空間を回っているだけのようなのだ。

   人気のない町に ブランコの音だけが響いている
    -いつまで、まわっているの?
    -夜が、追いかけて来なくなるまでよ。

   今日も一人、二人と 少女たちがやってくる
    -友だちは、みんな散り散りになったね
    -秋風が、眼の中を吹きぬけていったの。

 この作品をはじめ、この詩集のいくつかの作品はソネット形式で書かれている。それを読むとき、私は無意識に起承転結を念頭においてしまう。この形式を選んだからには、書く際にも当然それは意識されているのだろう。形式が内容を制限規定すると同時に、発想を豊かにすることもあるのだろう。
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かねこと  6号  (2014/05)  前橋

2014-06-08 15:50:25 | 「か行」で始まる詩誌
 12頁の親しみやすい新井啓子の個人誌。今号の寄稿は「たまご」長嶋南子。
 僕は一子・二子・三子と名付けためんどりを飼っている。その名前は別れた女の子の名前。めんどりの卵はケーキになり、遠くの町の別れた女の子はそれをおいしそうに食べるのだが、

   別れた女の子のおなかの中の卵は
   死滅するのを待つだけだ

この作品では、自らの種の生殖と他の生きものの摂食という生命に関わる二つの事柄が裏表のこととしてあらわれてくる。卵を産まなくなっためんどりは食用となり、それを食べた僕もそのうちに「にわとりのからだになる」。
 こうしていつのまにか、食べていた者は食べられる者へと逆転していく。語ることはかくも怖ろしいことなのだ。長嶋の作品はそんなことを見せつけてくる。僕は食肉になって、別れた女の子に買われて、その子たちは「今夜は唐揚げなんて子どもにいっている」。さりげないユーモア感覚が、実はぞっとするような残酷さをさらに際立たせている。

   僕は唐揚げになりたかったのだろうか
   せめて親子丼になって
   かあさん 食べてください

 親子丼だから、いきなり母親が意識の中に登場してくる。歯止めがないように、こうしてどこまでも走り去っていく作品が、とても好い。
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詩集「よごとよるのたび」  赤木三郎  (2014/05)  書肆夢ゝ

2014-06-05 14:42:42 | 詩集
76頁に25編を収める。
 機知に富んだ作品が並んでいる。機知に富むというと、頭で考えて書いただけの作品のように思われてしまうが、それだけではない。柔らかい感触で情感も漂っているのだ。
 たとえば「たった一日を」の最終行は、

   いちにちをいちねんのようにいちねんをいちにちのようにくらした

 「蛇としまうま」のしまうまは、ひるまには「じゅもくのもようのなかにじぶんを見失」い、よるは「しまのなかにじぶんをしまってしまう」。そして、

   あさのしまうまはすじごとに分解して
   日のなかにはしっていく光のすじの 草原のしま うま

 美しいイメージの連鎖にモダニズムの作品を思い浮かべたりもする。あらわしたいのは言葉にして言えるようなことではなく、こうしたイメージのなかに明確な形も取らずに孕まれてくるものなのだろう。
 童話のような趣を持つ「さかなの三姉妹」では、さかなは三羽のとりにうまれかわる。一のとりは「いっしんに/さかなをつかまえては たべ」、二のとりは「とりになったことに/気がつかなかった」。そして、

   川や 海のうえを 舞っている三のとりは
   じぶんがとてもむかしさかなというものになりたくてつよくつよくねがった
   のに まだねがいはかなわない
   という気がしきりとする のだった

 童話はときに悲しく、残酷でもある。希望や願いは満ちたりていないと感じるときに、幸せを求めて生じてくる。しかし、満ちたりた幸せなどというものはあり得ないことを童話はしばしば指ししめしてくる。この作品にも、不幸ではないのだろうけれども、どこか背中のあたりに悲しいものが漂っている。 
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