瀬崎祐の本棚

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詩集「海峡よおやすみなさい」  紺野とも  (2016/10)  港の人

2016-10-27 21:30:17 | 詩集
 第3詩集。85頁に19編を収める。
 第1詩集「かわいくて」ではその天衣無縫な語り口に魅せられたが、この詩集でも小気味のよい啖呵が続く。他の人が知っていようがいまいがそんなことは気にせずに、固有名詞を投入してかきまわしたりもする。それは、自分にとって必要なものだけを選び取って投入してくる小気味よさだ。
 「風呂場」は、ホテルの跡地に建設中のマンションが舞台である。

   ベッドを抜け出してもぐってゆく。青緑の丸タイルに囲まれた床の排
   水溝からもぐってゆく。白い小魚と一緒に泳いでおなかがすいたらそ
   いつを取って食べる。苦い魚は生きながらにして茹だって白い。あっ
   たかいお湯からきたからね.海にゆくのねおしあわせに。

 作者の気持ちの移ろいは煩雑ではあるのだが、読んでいて次第に感じる高揚感のようなものがある。どこにも行かなかったふりをして蒲団をかぶるのだが、「マンションの下には死んだ魚と死んだわたしたちがいる」のだ。
 尾頭つきを食べる「お八つ」の第1連から、

   白目だって、がんばればちゃんと目は合う。だから問う「わたしが沙
   倉まなじゃないのはなぜですか」口は食うてしまったので返事はもら
   えない。

 訴えたいどんな理屈が作者のなかで渦巻いているのか。他者の存在を意に介していないようでいながら、他者とのつながりをせわしなく求めてもいるようなのだ。「飲み込んだ白目ふたつがおなかのなかで眼光鋭くて捻転」したりして、そのあげくの最終部分は、

   歌舞伎揚げに早変わりしてごろごろと甘辛いからだを遊んで夜半を過
   ごす。子丑も寅も踊り鳴く。

 解釈とか解説とか、そんなものは振り払って、ただ読むことを楽しむ、そんな詩集だ。つい、次の作品も読みたくなる。
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詩集「奇跡という名の蜜」  加藤思可理  (2016/09)  土曜美術社出版販売

2016-10-25 20:53:53 | 詩集
129頁。「蜜ヲ夢ミル」「蜜ヲ見ツケル」「蜜ヲ忘レル」の3章に分けられた15編を収める。表紙カバーは長島弘幸のコラージュで、作品内容の、どこか人工的で幻想的な物語性とよく合っていた。
どの作品も悪夢のような、理屈を越えた展開の物語として差し出されてくる。読む者は、まずはその世界の有り様を肯定しなければならないのだが、それは素晴らしくわくわくするようなことでもある。
 たとえば「赤いスパナの謎」。教室でぼくたちは地球儀を前にしている。不穏な物音に駆けつけると、階段の踊り場ではぼくのガールフレンドが危篤状態なって倒れている。全裸にされた彼女の肉体を医者は切り裂き、次々に臓器を取りだしていく。いつかぼくは地階を歩いていて、ひとつの部屋で大柄な老人に出会う。

   ぼくは黙って老人の濁った眼を見つめる。すると老人は低くしゃがれた声でこう言う。
   --窓から入ってくるものはけっして光だけじゃない。

   そして老人はあいかわらず謎のように頬笑んだまま、ぼくの無防備な頭をめがけて赤いス
   パナを振りおろす。

 夢には理屈はなく、ただ映像だけが届けられる。その映像を支配している感情もあるはずなのだが、それが説明されることはない。
 「風と笑いと裏切りの国」。いなくなってしまった妻をさがして、ぼくは旧い友人を訪ねる。彼はロープを結んで作った小さな輪を空に投げ上げている。彼は風をつかまえているのだと言い、たしかに「輪の中心で何か透きとおったものが勢いよく渦巻いている」のだ。

   --ほら、この輪のなかに手を入れてみろよ、と促す。

   ぼくは友人に言われたとおり、ロープの輪のなかにおそるおそる右手を挿しいれてみる。
   その瞬間、ぼくは途方もなく強大な力で輪の内部に吸いこまれ、巨大な旋風であっという
   まに大空の高見に吹き飛ばされてしまう。

 はるかな上空からぼくは妻と友人の情交を見るばかりなのだ。ぼくははるかに疎外された存在なのだろう。
 「おだやかな氾濫」、「青い本 あるいはごく緩やかな断章形式の眩暈」など、物語を形成する前の段階の断片を集めたような作品もある。断章の途切れを読む者がいかにそれを結びつけ、物語を広げることができるかと問われているようだ。しかしその断章からは私は上手く物語を立ち上げることができなかった。
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詩集「改行」  谷内修三  (2016/09)  象形文字編集室

2016-10-20 23:42:13 | 詩集
 B5版、61頁に26編を収める。
 「あの部屋を出て行くと、」は、「あの部屋を出て行くと決めたとき」に窓からは川が見えたというのだが、私は何かを間違えていたのだ。なぜなら「あの部屋から川など見えない」からだ。本当は冷蔵庫の中にペットボトルがあり、

   扉を開けたとき、まわりの壁といっしょに黄色い光に染まるまで、
   きっとくらい色をためこんで静かに眠る。
   そのせいだろうか、
   私の知っている川の水は、どこかで飲み残しの水と出会っていて、

 おそらく私は、あの部屋からは見えなかった川をさがしに、出て行くことを決めたのだろう。部屋から出るということはそういうことなのだろう。
 「あの部屋の、」という作品もある。話者は本のなかの男に電話をかけるのだ。しかし、本のなかのあの部屋には、もう誰もいないのだ。部屋は何かをさがしに出かけた男たちの残滓の場所なのだろう。9行の短い作品の終わりの部分は、

   電話を切ると耳のなかが暗くなる。
   本のなかの、あの部屋は夏になる前の光に満ちているのに。

 いくつかの作品を除いて、この詩集の大部分の作品では「ことば」についての考察がなされている。言葉がなければ作品は存在しないわけだが、その言葉の有様を作品で問い直している。これは大変に興味深い取り組みである。
 ただ、前詩集の感想でも書いたのだが、「ことば」という語の主語や目的語としての頻出は、いわば考察がされないままに擬人化された「ことば」となってしまうように感じられる。たとえば、「ことばは夏の公園を持ち去ってしまった」、「私がことばにつかまるのだ」、「ことばをいじめていたことばたちが散らばって」などなど。このようなあまりに便利すぎる「ことば」という言葉の使い方には、せっかくの作品がもったいないとも思えてしまう。
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miu 1号 (2016/09) 京都

2016-10-15 21:02:50 | ローマ字で始まる詩誌
 センナ・ヨウコの個人誌。葉書大の用紙3枚からなり、表紙には作者が撮ったと思われる異国の海岸写真が載っている(私は作者の撮る写真のファンでもある)。岩だらけの黄色い風景のなかに佇む人の影が長い。詩1編を収める。
 「扇」は、「夜のとば口で扇をひろげ」星を数えている作品。星はあまりにも多く、そしてあまりにも遠いところにあるので、はたして自分に意味のあるものなのかどうかという軽い疑惑のようなものが、眩暈のように作者を襲ってくるようだ。

   熱い鉢のなかに
   時には手を入れ

   その設えに弱く笑む
 
   または
   美しい嘘と
   菫のような血脈と
   そりかえる背

 そう、これは眩暈である。ここには作者独特の息づかいがある。それは言葉と感覚が互いに支え合って、どちらか一方では傾いてしまうものを危ういバランスで保っている、そんな息づかいである。
 扇をひろげることは何かを迎えいれることなのだろうか。それとも何かを求めることなのだろうか。最終連は、

   簡単に
   もっと簡単に
   よじれた日付を捜しに降りていく

 かっては同じ詩誌「堕天使」で5年間を過ごした盟友の、新しい個人誌のこれからを見守りたい。
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詩集「かつて孤独だったかは知らない」  和田まさ子  (2016/09)  思潮社

2016-10-13 22:15:29 | 詩集
 第3詩集。109頁に半年間のロンドン滞在中に書かれた27編を収める。カバー、および詩集の中の六葉の写真は作者が撮ったもの。
「挨拶」では、「ここでもまた/出口から始まって/入口に至る旅をする」と書き、「雨になる」では、「もっと泣くために/つよく一人を思うために/アールズコートという街に来た/ここで/新しい名前で呼ばれたい」と書く。
 異国の地に在っての作品であるためか、これまでの作者の作品に比べて、よい意味で神経が緊張しているように感じられる。そのために言葉に対する意識も尖っており、柔らかさは削ぎ落とされ、読む者に突き刺さってくるような詩行に溢れている。
「乾杯」ではパブでの情景が描かれる。乾杯をすれば「それぞれの年月が交差する」のだ。そして、そこから始まる関係があるのだ。

   たとえ雨に打たれても
   走りつづけて息があらくなっても
   チアーズ
   酸っぱいケチャップとフライドポテト
   たくさん食べよう
   夜の芯が熱くなってきた

旅行者、あるいは一時滞在者として異国の地に在ると、周りの風景、事物からの拒否感は否応なしにあるだろう。それが、その地に在る自分をもう一度見つめ直させ、確かめさせようとする。そのために意識は常に自分の内側の深いところへ下りていくようだ。
 「夜」も、そうして異国の風景の中にいる自分を視ている。

   ほんとうはね
   と人はいいたがって
   でも
   ほんとうではないのだ
   そのことを知っていても
   ほんとうのことだと信じたふりをして
   うわの空で聞いているわたしは
   わるい人だと
   通りでだれかが叫んでいる

 この詩集で描かれる異国は、単なる観光の地などではなく、自分の生を問い直す場としての意味だけを担っている。
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