瀬崎祐の本棚

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葡萄  57号  (2010/05)  東京

2010-05-28 18:03:01 | 「は行」で始まる詩誌
 「夜のキリン」鷲谷峰雄の第1連は次のようなのだが、あまりに見事なとらえ方で唸ってしまった。

   キリンが走るとき
   首から上は貧血だ
   だから
   ながい首は木の固さになって走る

 走るときのリズミカルな振動でぐらぐらしてしまいそうなキリンの首は、たしかにどうなるのだろうと思ってしまうが、まさか木の固さになっているとは知らなかった。さらに、貧血が治らないキリンは「ときどき/木の表情をする」のだという。これも知らなかった。 

   寝つきのわるいキリンは
   夜のような暗いアコーディオンを
   首のうちがわへたてかけている

 キリンが寝るときにどのような姿勢をとるのかは知らないが、キリンの首の長さのイメージが的確である。キリンの夢は足の方から次第に高みへ上がっていくのだろうし、それはとてもゆっくりとした早さなのだろう。キリンがいるだけで、夜自体にも音があるような気がしてくる。これに続くのは、

   その
   アコーディオンが
   ひとりでに高く鳴り始めるのは
   きまって キリンが
   深手を負ったときだ
                                   (最終部分)

 顔が遠くの高みにあるので、キリンには何を考えているのかがよく判らない不思議さがある。表情はいつも穏やかで、どんなことにも平然と対処しているような雰囲気があるのだが、実はキリンも耐えていたんだ。そして、キリンについて語っている人も。
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ひょうたん  40号  (2010/01)  神奈川

2010-05-27 19:14:52 | 「は行」で始まる詩誌
 「枯野」長田典子。
 路地裏からあらわれた顔のない中年男の前を、「目を合わせてはいけないと直感し」ながら通り過ぎる。誰が? たぶん”わたし”が。不気味である。その不気味さを怖れている。この作品には主語が全くあらわれない。話者はいるのだが、特に第2連、第3連は誰について語っているのか、説明がない。

   猫ならば 猫ならばと
   素性がわからなくても可愛いだけと
   毎夜 男と女のように抱き合い温め合う
   オニタビラコ
   ノボロギク
   など
   たくさんの小さな種を星座のようにわたしのからだに散りばめ
   泥で布団を汚す

 はたしてこの雑草の種を身につけて”わたし”に迫ってくるのは誰なのだろう。中年男のもとへ「わたしのやわらかく縮んだ髪や/洗い立てのシャンプーの匂いを」伝えるのは誰なのだろう。
 たぶん、本当に猫なのだろうが、第1連にあらわれた中年男がまだ影を落としているものだから、つい、猫に化身した何ものかが毎夜、私を訪れてくるのだろう、私はそれを拒めないのだろうと、想像してしまう。それでもなお、”わたし”は待っているのだろうか。待って、抱き合うこと自体が枯野にいることだと判っていても。

   冬の枯野は豊饒と
   冴え渡る          (最終連)
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詩集「夜の言の葉」  近藤久也  (2010/03)  思潮社

2010-05-26 17:26:21 | 詩集
 第3詩集。23編を収める。
 小さな情景を捉えて、そこに潜んでいるものを見つけようとしている作品が並んでいる。まるでかくれんぼの鬼をしているようなものなのだが、わたしは動きまわらずにただ見つめているだけだ。
 「夜の果物」では、皆が寝静まったあとにテーブルの上に置かれた果物をながめている(なんと、素直なタイトルだ)。闇の中でそこだけが明るく、ただよっている濃密な匂いも好きなのだ。なぜなら、

   仄暗くなつかしい
   とおいとおい
   わたくしの住処から
   夜の果物めざし
   得体のしれないけだものや鳥たちが
   あとからあとからやってくるからだ

 わたしが見ることによって、身近だった家のなかの一廓が特別な場所に変容する。集まってくる生き物たちはわたしの家の果物に何を求めているのか。いや、そうではないのだろう。それは逆で、わたしが生き物たちに何かを求めてもらいたがっているのだ。そうでなければ、わたしが果物について書きとめるはずがないからだ。

   欲望の正体は
   いつも翳っていて
   あなたは
   モールス信号をよみちがえるにちがいない

 この部分は不明瞭だ。突然にあらわれた”あなた”はいったい誰なのだろう。まさか、読者を挑発しているのでもないだろうに。そんなことには無頓着に、みずみずしい朝はやって来て、妻は果物をほおばる。作品の印象もみずみずしい。
 こうして、どの作品においても、わたしはその場所から動かない。しかし、わたしを取り囲むものたちの意味が、わたしに見つけられたことによって微かに変容する。その変容が新しい世界を形づくり始めるのだ。
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多島海  17号  (2010/05)  兵庫

2010-05-25 23:55:23 | 「た行」で始まる詩誌
 「春なんです」森原尚子。
何も難しいことは書いていないのに、よく判らない詩である。四本の脚で支えているテーブルがあり、その上に片手が一本載っているようなのだ。で、

   場所を得た とでもいいたげに
   腕が一本 テーブルの腕になった

 はて、文中にもあるのだが、この腕は誰の腕なのかという疑問がわくし、それ以上に、テーブルの腕になるということの意味が判らない。だいたいテーブルに腕が要るのだろうか? さらに、真夜中になるとわたしのからだはなにかが欠けていくようなのだ。だから「すきま風さえ吹いて」きてしまうので、「塞がねばならない」のだ。ああ、やっぱり、わたしの腕が抜け落ちていたのだろうな。でも、確かめると腕は二本あるようなのだ。あれ?

   なにもない部屋の
   中央に置き去られたテーブルの
   夜を深く沈めて
   (本当に これでいいのかしら)
   うで
   テーブルには
   腕が一本
   置かれたまま
                                  (最終部分)

 何も判らないままに作品は立ち去ってしまう。疑問はそのまま残される。誰の腕? そしてなぜ腕がテーブルに載っているのか? あの情景はなんだったのか。そんなことも大したことではないような気持ちがしてきているようで、なにか腑に落ちないのだけれども全部を受け入れてしまっている。
 で、なんで春なの? とても楽しんで読んだ作品。
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ココア共和国  2号  (2010/04)  宮城

2010-05-22 09:18:12 | 「か行」で始まる詩誌
 懐かしい名前の方からの詩誌が届いた。秋亜綺羅の個人誌である。秋亜綺羅という名前を知ったのは、大学生の頃に読んでいた「現代詩手帳」あたりでだっただろう。「真夜中のギター」という当時流行ったフォークソングを題材にした詩を読んだ記憶がある。
 懐かしい感触のする作品が並んでいる。たしかにこういったうねりをたどって自分たちの世代のものは書いてきたんだなと思える。たとえ作者のことを知らなくても、私(瀬崎)の年代の者だったら何の抵抗もなく入り込める世界が構築されている。いいなあ。たとえば「気違い」の最終部分は、

   気違いというのは
   もう少しであなたに助けられたはずのぼくの子どものことをいうのではないだろうか神よ
   気違いというのは
   何度もあなたとの心中を試みたぼくの妻のことをいうのではないだろうか神よ
   気違いというのは
   あなたが怖くて故郷に逃げ帰ったぼくの妹のことをいうのではないだろうか神よ
   気違いというのは
   神に誓ってなどと兵器でいうぼくの立派な片親のことをいうのではないだろうか神よ

 感じるままに書いていて、いわば無手勝流である。それが自分であるし、それが自分を取り囲んでいる状況であるし、それ以上でもそれ以下でもないという冷めた視線も感じられる。
 「きのうも、そう思った」では、あの頃のブリジット・フォンテーヌのシャンソン「ラジオのように」も出てくる。それに、この作品でリフレインされる”きのうも、そう思った”は、林静一の漫画「赤色エレジー」の最終回で一郎が呟く印象的な台詞”朝になれば・・・苦しいことなんか忘れられる、きのうもそう思った”からきているのだろうな。
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