瀬崎祐の本棚

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詩集「ぐーらん ぐー」  やまもとあつこ  (2013/10)  空とぶキリン社

2013-11-26 23:22:16 | 詩集
 第3詩集。72頁に21編を収める。
 どの作品も柔らかな感情にあふれている。昂ぶるものをなだめてくれるような、心地よい柔らかさなのだが、その陰には何かにとまどっている怖れもあるようだ。
 タイトル詩の「ぐーらん ぐー」というのは、昼間の電車の中で乗客の皆が次第に眠りに誘われていく光景を詩っている。

   車内は誰も起きていない
   みんなの頭が
   ならんでつながれ
   同じ揺れ方で

   ぐーらん ぐーらん
   ぐーらん ぐー

   どこか知らないところへ
   連れていかれる日が
   きたようでした

 それは一見のどかで平和そうな、誰もがよく目にする光景ではあるのだが、実はどこかに不気味なものも感じさせている。
 おそらくは古いであろう日本家屋の様を詩った「いきている家」。その家は雨が降るとちょろちょろと音がして、風はとおりぬけて部屋の隅にうずまきをつくる。自然が働けば、まるで生きているように家は反応する。そんな家は、

   一日がおわり
   布団を敷くと
   押入れは
   広くなり
   また知らない誰かが起きてきて
   ひもを引っぱる

   明かりが消えると
   月の光が
   畳をこすり
   家は
   すこし
   わらいます

 サーブばかりが繰り返されている父娘のバドミントンの様を描いた「公園」や、一瞬動いてまた木に戻るカワセミを描いた「翡翠」など、細やかな感受性がなければただ通り過ぎてしまうようなことなのだが、作者はそこからつづく普遍的なもの、なにか畏敬するものの存在を感じているようだ。
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詩集「漆黒の鳥」  高橋優子  (2013/09)  思潮社

2013-11-20 23:28:00 | 詩集
 第5詩集か。101頁に21編の散文詩を収める。表紙カバーは詩集タイトルそのままに黒色1色で、そこに銀灰色の文字が浮かんでいる。
 作品は重い。語られる言葉はどこまでも気持ちの中で淀んでいくようだ。たとえば「白い花」の冒頭部は、

    ながい間、私たちにとって、それは死者の魂のために
   ひらく花であった。けれども、あの人が死んで夏が来る
   と、その白い大きな花びらそのものが、死者の魂である
   と知らされる。冷たい夏が仮象のように事物を翳らせる
   なか、白い花びらが夥しくひらいては、散る。

 それこそ黒く粘ついたものが絡みついてくる。手足をもがかせるほどに、それはさらに絡みついてくる。手足が重くなる。言葉も重くなる。ここでは死者も生者も同じ立ち位置で光を浴び、冷たい霧の流れのなかで言葉を発している。「漂う私の行く手に」は「なおも白い花びらがひらき、散る」のだ。暗く重い故の凄惨な美しさがここにはある。
 「もう少しで、忘れることができる、そう思えたのだ。」と始まる「海辺にて」。明け方の夢から眼醒ながら、誰かの名を呼んでいたらしいのだ。遙かな海辺から潮に濡れた生きものたちの匂いがとどき、

   しっとりと汗に濡れてゆく皮膚の、微細な孔に取りつい
   て離れない海辺の記憶。遠く幾層もの時を眼差すように、
   私は貌を上げる。ふっと、眼前の女性が細い頤を引いて、
   小さな会釈をした。

 海辺を彷徨いながら求めていたものがやっと私の許に来たときには、「あれほど美しかったものは、こんなふうに汚れて」いたのだ。書けば書くほどに独りであることが確かめられて、絡みつくものはますます重くなってくるようだ。
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詩集「遠いサバンナ」  田島安江  (2013/10)  書肆侃侃房

2013-11-18 19:04:38 | 詩集
 第5詩集。109頁に23編を収める。
 生きものたちがいろいろな顔つきで登場してくる。「カタツムリ」では、カタツムリの足跡が午後の陽を受けて光り、「ジャリッ/口のなかでなにかが砕ける/ジャリッ/からだのなかでなにかが崩れる」のである。夜更けに来たあの人も窓辺に立ってカタツムリをみている。そしてあの人は、カタツムリになりたいと思ったことがある、と言うのだ。そして、カタツムリはカメの餌として食われるためにだけ生きているのだと言う。

   ゆっくり歩くのも
   足跡を残すのも
   カタツムリの意志であった
   カメがやってくるまで
   無限大とも思える時間を過ごすために

 自分が消滅するまでになにをすればいいのか、さらには、自分が消滅することにどのような意味があるのか、ということまでも問い直しているような作品となっている。そこには、おそらくは今はもう居ない”あの人”の存在を、今も大切に思う気持ちがあるのだろう。 
 「鶏町」は、「うっかり迷い込んだりしたら/抜けでるのは容易ではない」町だ。そんな町へ「ちょっとした手違いで迷い込んでしまったのだ」。鶏たちの住まいがあるのだが、どこからともなく現れる夜の住人はねずみの顔をしていて、「鶏たちはどんどん不安にな」っていく。

   うっかり迷い込んでしまったわたしも
   不安にとりつかれ
   いまでは
   眠れないまま鶏町に住んでいる

 鶏町にはわたしのような人ばかりが集まって住んでいるのだろう。ちょっとした手違いで来てしまったのに、眠れないでいる内に、わたしも他の人からは鶏のように見えてくるのに違いない。いや、眠れないでいたために鶏町へ迷い込んだのかもしれない。
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詩集「蝋梅の道」「ピック、パック、ポック、パック」  谷内修三  (2013/10)  象形文字編集室

2013-11-16 23:16:14 | 詩集
 2冊の詩集を同時にいただいた。どちらもB5版の簡易製本で、前者は45頁に17編、後者は49頁に19編が収められている。
 「狼狽の道」の中の「冬の帰り道」は、情景描写を主とした7行の作品。ある小学校の前の道で、雲の切れ間から差した光が電信柱と交通標識の影を道に落としたのだ。

   影は静かに落ち着いていて動かない 光は表面を駆け抜けて行きそうだ
   まぶしい色が鳥になってすーっと滑るように飛んで行った
   赤坂三丁目の交差点まで道はまっすぐだ

 この最後の1行で話者の視線も光となって飛んで行く。実際には、飛んだことによって道がまっすぐなことにも気づいたのだろう。こうして、考えたのではなく感じたことによって生まれた作品となっている。
 「裁判所の裏の、」では、何故か向かっていた図書館へ行かずに引き返してしまう。そして「なぜ図書館へ行くのを止めたのか考え」ている。自分の行動なのだが、自分でも確固たる理由は思い当たらず、自分に説明ができない。ところが最後の2行で、

   ある日、そうやって
   午後の牡丹が崩れるのに突き当たった。

 何の脈絡もなく置かれたこの美しい2行が、説明無用で迫ってくる。作品には理屈は要らないのだということを改めて感じさせられた。 
 「ピック、パック、ポック、パック」に収められた作品の大部分では擬人化されたような”ことば”が主人公となっている。”ことば”は本の話を聞いたり、殺人の瞬間を描写したり、夢を見たり、快楽を求めて旅に出たりする。作者の想念の世界が”ことば”の言葉を借りて表出されている。そのために、感じる部分がいささか少ないように、感じられた。
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詩集「繭の丘。(光の泡)」  水嶋きょうこ  (2013/09)  土曜美術社出版販売

2013-11-14 17:25:30 | 詩集
 第3詩集。131頁に17編の作品が収められ、それとは別に、作品が生まれる風景を宣言する6編の短文が載せられている。
浮遊しているような郊外都市での生活が描かれている。たとえば「多摩の生きものⅡ」。傾斜地に家が建っているので二階の窓からは通りを歩く人の首からうえだけしか見えないのだ。首だけがわたしの日常の周りを歩きまわっているのである。すると、「いつか見た風景」と「首たちの記憶が入り交じり」始めるのだ。やがて「かわいた首たち」は川に入り「生きものとなって漂い出す」のだ。

   無音の首たちは 花弁を触手を開き
   川の流れに入ってゆく
   言いたかった 思いを吐き 言葉を沈め
   赤い水の中に広がって
   無数に群がる 薄い海月 鮮やかな華となり
   炎の中に赤い全身を開いていった

 わたしの生活が周り中から浸蝕されて、それでいて浸蝕してきたものたちがわたしとは離れた地点で勝手に収束していく怖ろしさが伝わってくる。
 「ガラス玉の家」は、隣の空き家に入り込む散文詩型での独白。廃屋の中にはゴミが散乱していたのだが、それらは「それぞれ形を持ってい」て「解き放たれた他人の時間が、動き出している」のだ。わたしはその時間につかまれてしまう。

    大切な何かを残してきたはずなのに、新しいものに向かって、わたしの記憶は薄れてゆ
   きます。からだは壁と同化してもう消えかかっている。でも、今、部屋を見続けるこの意
   識だけはまだ残り、上へ上へと昇ってゆきます。(略)壁になったわたしの皮膚に、家に
   はりつく植物の細かな水脈が感じられました。

 作品の迫力に魅せられる。ここでは他人が残した時間に浸蝕されていくわたしがいる。この都市で生きていくためには、もはや自分が吐き出した糸で繭を作り、その中に閉じこもるしかないのだろうか。
コメント (1)
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