第6詩集。93頁に20編を収める。
前詩集でもそうだったがとても肌触りの柔らかい作品が並ぶ。
Ⅰの6編は病に伏せっている母のことなどが詩われている。加齢によって記憶力も認知能力も衰えていく。それは誰にでもいつかは訪れることであり、生きていることの哀しみでもある。
「花吹雪」では、車椅子の母にさくらを見に行こうと誘うのだが、母は「行かない むかし見たから」と拒むのである。しかも、私には母と桜を見た記憶はないのだ。
桜の思い出から母を消してしまった私
むかし見たから と
いつか私も言うかもしれない
そのとき
いっしょに見ているひとは誰だろう
私の知らない母がいるのか、それとも私が拒絶した母がいたのか。血のつながりは切ない。
他の「夕暮れ」や「モヘアのコート」もしみじみとしてくる作品であった。
作者は長く音楽に関わってこられたとのこと。そのためか、詩行にはゆるやかにうねるようなリズムが感じられる。先に書いた肌触りの柔らかさにもつながっているのだろう。
「終楽章」では、あるピアニストが「最初の音にふれた瞬間から/曲は終わるために突き進んでいきます」と語る。あらためて、ああ、そうか、と思う。曲は時間の流れとともに進んでいくわけだが、
これが最後のページだ と
わかってしまうときがある
めくったとたん
長いコーダが書き込まれていて
そこがいちばん難しい
人も、生の始まりは認識することはできないが、生の終わりはいつからか予感して、そしてその日へ突き進んでいくのだろう。
前詩集でもそうだったがとても肌触りの柔らかい作品が並ぶ。
Ⅰの6編は病に伏せっている母のことなどが詩われている。加齢によって記憶力も認知能力も衰えていく。それは誰にでもいつかは訪れることであり、生きていることの哀しみでもある。
「花吹雪」では、車椅子の母にさくらを見に行こうと誘うのだが、母は「行かない むかし見たから」と拒むのである。しかも、私には母と桜を見た記憶はないのだ。
桜の思い出から母を消してしまった私
むかし見たから と
いつか私も言うかもしれない
そのとき
いっしょに見ているひとは誰だろう
私の知らない母がいるのか、それとも私が拒絶した母がいたのか。血のつながりは切ない。
他の「夕暮れ」や「モヘアのコート」もしみじみとしてくる作品であった。
作者は長く音楽に関わってこられたとのこと。そのためか、詩行にはゆるやかにうねるようなリズムが感じられる。先に書いた肌触りの柔らかさにもつながっているのだろう。
「終楽章」では、あるピアニストが「最初の音にふれた瞬間から/曲は終わるために突き進んでいきます」と語る。あらためて、ああ、そうか、と思う。曲は時間の流れとともに進んでいくわけだが、
これが最後のページだ と
わかってしまうときがある
めくったとたん
長いコーダが書き込まれていて
そこがいちばん難しい
人も、生の始まりは認識することはできないが、生の終わりはいつからか予感して、そしてその日へ突き進んでいくのだろう。