瀬崎祐の本棚

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詩集「ティダのしおり」 柴田三吉 (2022/03) ジャンクション・ハーベスト

2022-02-25 21:19:10 | 詩集
89頁に21編を収める。

「あとがき」には「辺野古の新基地建設強硬に反対するため、島々の歴史と文化を学びつつ旅をしてきました」とある。Ⅰの12編はまさしくその旅から生まれた作品だった。詩集タイトルにある”ティダ”とは、沖縄の言葉で太陽を意味する。作者はその地を照らすティダと共に旅をしているのだった。
6章からなる「辺野古」は、その海、土地、生活する人、歴史といったさまざまな面から辺野古が向きあっている問題の理不尽さに迫ろうとしている。

   数えきれぬ杭を打つというが
   杭は どこにも届かず
   きみらの胸に沈んでいく

   悔いを呑んで喉は溺れるだろう
   込み上げる海鳴りに
   包囲されて

中の2章は既詩集の作品を組み込んでいるとのことだが、新たな章と共に全体として立ち上がってくる力強さが生まれていた。

Ⅱには、東日本大震災による原発事故の地、被爆した長崎の地などでの作品が並ぶ。
”じょうろ”といえば、平和な日常生活の中での庭先で水やりに使う道具。作品「じょうろ」では、「そういえばあれだって、じょうろに似たものだろう。いや、ヤカンに親(ちか)しいもの--」と、皮肉混じりに、あの水を湧かして発電をおこなうはずだったものに触れる。

   穴があいても指でふさげず、溶け落ちたものを
   取り出せないもの。壊れたのに壊れないものが
   残り、平面図には戻れず、明けない夜を沸騰さ
   せつづけるもの。ヤカンに近いけれど、じょう
   ろには似ていないもの。

話者は苗床に水やりをする。そして最終連は、「細い管を通り 蜂の巣から散開する/虹のような慈雨」。とりかえしのつかない怖ろしいものとの対比が効いている。

社会的な主題を孕んだ作品を収めた詩集だったが、声高なシュプレヒコールではなく、その地で問題に向きあう人々とともにそこに佇んでいるような風情であった。その沈んでいく口調故に、怒りや苛立ちはより強いものとなっていた。
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詩誌「それぞれの三月」 1号 (2021/12)

2022-02-21 21:59:10 | 詩集
大坪あんず、漆原正雄の二人誌の創刊号。27頁で、それぞれが3編の作品を載せている。

二人の作品は交互に掲載されており、その作品たちはペアになっている。たとえば、漆原正雄の作品「書物」。「きみ」はろうそくの炎で書物を読んでいて、そこでは古い木造の駅にいるふたりの前に馬がやってくる。

   --わたしたち、あっちの世界でも会えるかなと少女はささやき、
   --ねむっているのでもさめているのでもないと少年はつぶやく

馬は駆けてゆき、ろうそくの炎がおわってあなたは書物を閉じる。

次の頁に載っている大坪あんずの作品「早春の白い光」では、「わたし」は朝の窓辺で本を読んでいる。そこでのわたしたちは小さな駅の木のベンチに並んで何かを待っている。すると草のうえに揺れる白い光が、まるで白い子うまが駆けてくるようなのだ。

   あなたはいつも待っていた
   わたしたちは何を待ちわびていたのだろう

あなたは白い子うまが駆けてくる夢を、わたしはあなたが野原を駆けている夢をみたりするのだ。

次に並んでいる漆原の「おとぎばなし」と大坪の「さんぽのおはなし」では、それぞれの作品に出てくる男女が「--風がつよいですね」「--そうですね」と言葉を交わす。まったく異なる状況が描かれているのだが、話者の視点がずれることによって片方では見えなかったものが見えてくるような、不思議な感覚を読む者に届ける。

「風を訪うまで」漆原、「どこかの季節で」大坪は、48字X20行の頁をそれぞれ6頁、10頁使った散文詩。それぞれの作品のモノローグがときに重なり合い、ときに遠ざかったりして、単独で読んだ場合とは異なった深みを出している。

このようにそれぞれの作品の話者を他方の話者が支えている。そのことによって作品世界は相乗効果的に拡がっていた。面白い試みであった。 
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詩誌「SHY」 1号 (2021/01) 神奈川

2022-02-18 20:36:10 | ローマ字で始まる詩誌
下川啓明、原利代子、山中真知子の3人誌の創刊号。誌名は3人の頭文字に由来しているとのこと。28頁に3人の詩、エッセイ、評論を載せている。

「二十年前に見た夢の」原利代子。
二十年前の夢の続きを見たという。友人のアパートを訪ねるために斜面を登っていく夢だ。しかし、こんなに長いときにわたって私の中にある夢は、私のどんな部分を形づくっていたのだろうか。

   どんな時のからくりに巻き込まれたのか
   大きな宿題を背負っているような
   大きな期待をかけられているような
   もしかしたらわたしは目覚めていても
   いつもこの建物の斜面を上り続けているのではないか

当然のこととして、今回の夢の中でも友人の家にはたどり着けない。もしたどり着いてしまったら、夢から醒めた私はどうなってしまうのだろうか。

「夜」下川啓明。
この作品の話者は「夜」である。わたくしは動かず、無言でただ周囲を満たしているだけ。そしてうつろな暗黒を広げている。このような立場から眺めて捉える世界という発想は新鮮だった。最終連は、

   わたくしは決して動かない
   音もたてず 声もかけない
   あなたがたの周囲を
   ただ夢のように巡るだけ

山中真知子は評論「詩的ミュージアム」の23回目を書いている。今回は東京都美術館でのイサム・ノグチ展を訪れている。そこから桐野夏生の小説、田村隆一の詩に考察は続き、さらには自分の旅路での思いにまで広がっていく。お見事。

シャイなお三方なのだろうか。これからも、恥ずかしがらずに、内気にならずに、臆病にならずに、ガンガンと行って欲しい。
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詩誌「三人プラス」 1号 (2022/01) 東京

2022-02-15 22:35:32 | ローマ字で始まる詩誌
小松宏佳、宿久理花子、和田まさ子の3人誌の創刊号。大ぶりなA4版で26頁。各自が3編の詩を載せている。”プラス”というのは毎号ゲストを迎えることのようだ。

「暗号」宿久理花子。
暗号は誰かにだけわかって欲しいことを伝える手段なのだろう。それとも、きみに隠しておきたいのだけれども、その一方でわかって欲しいということなのだろうか。冷たい手はふれたときに何かを伝えてくるのだろうか。

   ちがう書かれなかったものは掘り起こすつもりで埋めてそのまま忘れたもので
   暗号として体に残る
   体を交わすとき互いの暗号の
   かたちに指を這わせるからこんなに冷たい
   冷たい手を
   なかったことにしないで

なにか、切実に伝えたいと思いながらもそれが暗号になってしまう苛立たしさもあるようだ。

「脱走」小松宏佳。
無辜のものたちは、その何ものにもとらわれない感情のままに常識の世界から脱走するのだ。乳児やぬいぐるみの犬、指人形、そして寝落ちした子ども。彼らは実体をこの世界に残したまま、どこか別の次元の世界に行っているのだろう。

   夜
   寝顔を見れば
   もう地球外
   追いかけられないところへ行っている

幼な子にとっては夢も現も同じ意味を持っているのだろう。そんな幼な子の心はもう地球のような狭いところからは脱走しているわけだ。

「足の爪が引っかからないように」和田まさ子。
もう二年も続こうとしているコロナ感染禍。その状況下でともすれば萎縮して、何かに引っかかってしまいそうになる意志を鼓舞している。

   まだ待っているものがあるから
   新聞を取るふりをして
   郵便受けに手を突っ込む
   からっぽの一日をつかんでしまうこともあるが
   だからといって逃げていかない

とにかく何処かへ出かけて、とにかく意志を解きはなとうとしているようだ。
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押し入れ(クローゼット)の人 渡辺みえこ (2021/11) 七月堂

2022-02-11 22:53:46 | 詩集
第8詩集。90頁に24編を収める。

冒頭の「呼び声」はまさに、詩人が詩を書くことについて、書いた作品。言葉は「耳から喉までの/長い道のりを」行くのだが、容易には声にはなれないのだ。

   呼び戻したかったのは
   ひとつの朝
   指先がたどる
   月光に刻まれた名
   その名を声に出し
   名付けてみたい

そのものの名を呼べたときにそれは私のものとなり、初めて作品が現れてくるのだろう。「あとがき」で作者は「私の表現は「耳から喉までの長い道のり」だったのだとも思えます」と書いている。なるほどとうなずかせるものがある。

「その言葉」という作品では、「長い間詩を書いてきた/それでもまだ言えない言葉がある」と記している。もしかすれば、そんなひとつの言葉を持ってしまったために詩を書き続けているのかもしれない。それは、少しでもその言葉に近づくための儀式のようなものなんかもしれない。最終連は、

   きっとあなたも言葉のないひと
   喉に火傷を持つひと

これらの後に続く作品で言葉が書きとめているのは、重く苦しい物語だ。作品世界ではあるのだが、辛かった家族関係のことなどにどこまでも一生懸命に向き合った思いからの言葉がここにはある。特に「裁ち鋏」「ホーム スィート ホーム」は安易な感想の言葉を拒絶するような作品だった。

後半にまとめられているお母様を描いた作品は印象深い。「私だけの駿馬」では、幼かった作者が母にお馬さんごっこをしてもらったことを思い出している。その日々が遠くに去り、

   目が悪くなった晩年の母は
   毎朝そっと呼んでいた
   密かに手の中に入る 庭の小さな花に
   母だけに分かる名をつけて
   そうして頭を上げていた花々が
   やがて名も呼ばれずに
   秋を終えていく

作者は喉にまで下りてきたそのものの名を呼ぶことはできたのだろうか。
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