瀬崎祐の本棚

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Down Beat 14号 (2019/07)  神奈川

2019-07-31 22:46:08 | ローマ字で始まる詩誌
 「初音町」廿楽順治。
 あちらこちらと彷徨う意識が、またこちらをふりかえったりして、情景が絡みあう。すると、情景は幾度となく薄く重ね塗りされたようなものとなり、詳細は霞み、また新たな詳細が現れたりする。私(瀬崎)はそれを見つけてはひとりで楽しんでいる。

              みんな
       こわれた楽器なんだよ
   チンタオからきてここでくらす
             そういう
           枕元にあの夜
   わたしと妹が並んで立っていた

 「蛇口」小川三郎。
 こういう言い方は失礼なのだが、小川の作品の登場人物はたいてい格好悪い。この作品では、真夜中過ぎに台所の蛇口から落ちそうになっている水滴をながめているのだが、その格好悪さが読む者を惹きつける情景を作る。落ちた水滴のような私の意識は「盲いたように留まっていて/小さな夜になっている」のである。おそらくは何も起きなかった長い夜が明けて、

   すると蛇口は
   いまにもしゃべりだしそうに
   なれなれしく口を開けたので
   慌てて冷えた蒲団に逃げこみ
   耳を閉じた

 格好悪さというのは、つまりは他人の視点によるどうでもいい評価である。他人の視点を振り切れるという、そんな状態にまでなれるという真剣さ、意味深さが作品を立ち上がらせている。

 「差出人」柴田千晶。
 大変に面白い物語の作品。わたしの知らない「霜村さん」に私の名をかたった誰かが切手を貼らずに封筒を送り、受取拒絶でわたしの手元に戻ってきた。霜村さんの家をGoogleマップで調べたりしてみる。その画面の中で、 

   軽トラックのドアが開き、
   霜村さんが降りてくる
   顔色の悪い中年女性だ。
   霜村さんがわたしの視線に気づく。
   (すぐに、行くから。)
   灰色の霧がわたしの腰まで堆積している。

 他の誰かにとっては、わたしが”霜村さん”であるのだろう。みんな、切手を貼らずに手紙をだしているのだろう。  
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詩集「無人駅」 川上明日夫 (2019/06) 思潮社

2019-07-26 18:09:21 | 詩集
 第15詩集。76頁に12編を収める。
 3冊前の詩集頃から作者の作品には”死”の気配が漂いはじめていた。前詩集でのすべての作品に”白骨草”があらわれており、私(瀬崎)はその言葉に対して「死後に残されるもの、あるいは死そのものを担っているのだろう」と書いた。この詩集でも「白骨草 もう咲きましたか」とときおり訊ねられている。

 「高い空の足音が」では、はるか高みにいる誰かを詩っている。そして、そこに広がっていく波紋(さざなみ)を「ときどきは 夢のお人が/岸辺の それを そっと/ふるまっては/盗み見している」のだ。「魂がやんだのにまだおりてこない」人の足音がきこえると、

   その たびに
   何故か とおい雨の湖では
   この世の
   秋の
   小さな波紋がたっていたな

 愛おしさとも畏敬とも異なる、少し無理をして言ってしまえば懐かしさが、ここにはあるようだ。齢を経てきた作者はすこしずつその足音の位置に近づいている気がしているのかもしれない。そのことを感慨などではなく、自然のこととして受け止めているようだ。

 「心の表裏にも」では、そういった心情がより具体的に描かれている。我が身の立ち位置がはっきりしなくなって、風に揺れているようなのだ。女は待合室の刻の草叢から吹かれて出てゆくし、秋に魂もすこし紅葉してくるのだ。

   さっき 絵葉書の中の
   涼しい宛名を 渉って いった
   わたしの「老い」も
   もう ひっそり
   向こう岸から手を振ってました
   ただ それだけ
   お変わりありませんか

 他の作品でも、やはり老いの自覚と近づいてきている死への思いがうかがえる。、「わたしの年齢を/空のように/涙ぐんでは/見上げているときがあります」(「わたしの年齢を 秋、洛北で」冒頭)、あるいは、「幻のひとの/生きる はなやぎと/死の はなやぎ が/花祭りの提灯のように/淋しくゆれている」(「さくらが散って」より)。
 この先、作者は死をどこまで凝視め続けていくのだろうか。


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詩集「The inland sea」 タケイ・リエ (2019/07) archaeopterys

2019-07-22 14:37:38 | 詩集
 64頁の軽装な詩集。東京ポエケットに合わせて作成されたようだ。
 詩集タイトルは瀬戸内海のこと。島の名を冠した作品14編(うち2編は瀬戸内海を挟む2つの港名だが)を収める。実際に島々を(そして港を)訪れた際の感興を掘りおこしての作品化なのだろう。

 鬼ヶ島伝説が残る「女木島」。人気のない小学校の中庭にはブイが立っていたのだ。訪れた光景からの想念が作品となる。その場所は女木島でなければならなかったのだが、作品となった時点で、そこはどこでもない場所になっていく。

   ジャングルのなかで
   ブイがひとりで立っている
   ブイは夜ごと点滅灯を光らせ
   空に向って生きる女の顔になってゆく
   群れることからはずれても
   誰かと響きあえたら
   わたしだって生きていける

 瀬戸内海の島々のなかで最大の「小豆島」はいろいろなドラマの舞台にもなってきた。古くは壺井栄の「二十四の瞳」もあった。この作品には角田光代原作の映画「八日目の蝉」の一場面も出てくる。たしかに「その子は/まだ ごはんを食べていません」は一番印象に残る台詞だった。

 「大島」では、今も入所者が暮らすハンセン病療養所「大島青松園」が詩われている。ちなみに同じ瀬戸内海の長島には「長島愛生園」、「光明園」がある。そして海を挟んだ四国は、病のために村から追われ定住することができなかった人々が死ぬまで歩きつづける遍路の地であった。

 島々の大半は過疎になっているという。陸地の沈降によって山だった部分だけが海面から突きでて残った島ばかりだから、どこも急斜面であり、わずかな平地部分に人が暮らす。「高見島」も三角形をしていて、人口は44人とのこと。

   ひとが消えた家の屋根に小さな穴が開く
   わずかな光が霧のように降りそそぐ
   港のちかくの家では光の線が貫通する
   もうだれも住まないことをみんな知っている

 カニエ・ナハの装幀は、本州と四国に挟まれた内海に点在する島々を淡い水色で図案化していた。
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すぷん 2号 (2019/夏) 神奈川

2019-07-19 17:35:16 | 「さ行」で始まる詩誌
 小柳玲子詩集「夜明けの月が」を楽しく、そして少し切なく読んだところに、坂多瑩子の個人誌「すぷん」2号が届いた。なんと今号は57頁丸ごとが小柳玲子特集であった。

 坂多のエッセイ「夢人館だより」には「小柳さんと初めて会った日のこと」も書かれているし、「突撃 頭の中のインタビュー」からは小柳さんの生の声が聞こえてくるようだった。小柳は「風景より時計みたいなのが好きだった」と言い、坂多は「時間の操作のできない詩人は困るねといわれたことが」あったとのこと。何か所か、抜き書きする。

   小柳「(略)時間はむずかしいんです。
   たとえば昨日よりずっと近い一昨日というのがあるんですよ。
   風景とは別だから、ずっと遠い時間がこの肩のところまできているときがあるんですよ。

   小柳「私のは、絵だと思って読んでください。
   時間を書こうとしてたので、だれがどうしたとか誰と会って寂しかったとかじゃなくて、
   そういうことがあったと言うことだけを書くのね。
   自分のほんとうの哀しみが物語のうらにあるものもある。

   小柳「作品として自分から離れているのに、自分はこうだったと頑張っちゃうひともいるけど、
   どっちにしてもつくりもの、本当のことって書けないでしょう。
   一番言いたいことをいうのをカタチにするのが芸のうちで、その人の波長がある。

 後半には詩の書き方をいろいろと指導してくれているのだが、最後には「私ね、いいかげんなこと教えるから真に受けないでね。詩は教えられないんですよ。わからないんです。人はそれなりに育つんですよ。」・・・なるほど。

 第一詩集「見えているもの」(1966年刊)からの作品「たびだち」を読むことができたのは素晴らしいことだった。その夜の海はあれて海の声のさびしさに「誰かたびに行ったと」私が話すと、母は、みんないるよ、「たびに行くのは/いつもお前のなかの家族さ」と言ったのだ。

   海があれて
   おもい夜更
   家族とやさしい食事をおわると
   遠い土地へだびだった私の
   頼りない声をきいた
   おやすみのあいさつを送るらしい
   幼い声をきいたと思った

 坂多は「小柳さんの詩に惹かれる大きな理由のひとつは、理由(わけ)のないものに耳傾けている時刻に連れていってもらえるからである。それは、私たちの中にひそんでいる理解しがたいもの、つまり理性のルールに従わない得体の知れないものに出会えるからである。そして不思議なことに、それらは自分の記憶のどこかにしまわれていたもののように思えるのである。」と書いている(エッセイ「見えないのにみえてくるもの」より)。
 たしかに小柳作品の世界は、初めて会うのにどこか懐かしい、という感情を伴ってやってくる。そうだ、私(瀬崎)はこんな懐かしさをどこかで探していたんだ、と思わせるのである。
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詩集「洗面器」 林嗣夫 (2019/06) 土曜美術社出版販売

2019-07-16 22:14:57 | 詩集
 115頁に28編を収める。
 具体的な言葉ばかりをていねいに積みあげて、深みのあるときどきの世界を構築している。「笊」は、遠い日に祖母が里芋を洗うのに使っていた笊を見ている。それから幾星霜がが過ぎて「この世のすべてのものが/まことに 大きな笊で揺すられた」のだ。笊に入れられたものはぶつかり合いながら「余計なものは剥ぎ取られていく」のだ。わたしはひとりのひとと古い居酒屋にたどり着く・

   ここでも笊はゆっくり揺れる
   焼酎のグラスを手にしながら
   その人は不意の素顔をみせ
   わたしも里芋の煮っころがしなどを挟みながら

   大切なことばをこっそり告げた

 そのことばは里芋のように笊で揺すられて最後まで残ったものだったのだろう。

 「柿」。庭のかたすみに熟した渋柿が落ちてつぶれている。そこから飛び立つ黒い蝶を作者は見つける。そして「そうか/そのような月日が流れてきたのか」と思うのである。柿はこの蝶に会うために実り、そして、

   重さを養い
   渋を甘みに変え
   ついに落下して
   思いの傷口そのものになったのである

 偶然の邂逅のように思われるこの一瞬も、何か大いなる者の定めたところのものだったのだろうか。柿はつぶれて「思いの傷口そのものになった」という表現が素晴らしい。最終連は「蝶も/この日を待って訪ねてきた」。このなんでもないような情景をそのように捉える作者の細やかな感性に感嘆する。

 作者は詩誌「兆」を長く発行してきているが、その仲間との合宿を描いた「美馬旅館」や、仲間と友に訪れた宿にまつわる物語を描いた「朝路館」は、作者のやさしい人間味を感じさせるものだった。
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