瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

木立ち  109号  (2011/05)  福井

2011-06-30 19:19:26 | 「か行」で始まる詩誌
 「私を見なくていいから」中島悦子。
 中島の作品の魅力は意識の彷徨い方にある。ひとつの思いの周りを螺旋状に回っていたかと思うと、ふいっと遠心力にはじかれたように跳んでいく。そして彼方から別の視線で元の思いを眺めなおしたりする。
 この作品では、「私を見なくていいから」「俺は見なくていいから」と、行為の主体を消そうとしている。あらわされた行為、その結果だけを差しだしてくる。だからといって、自分を卑下しているのではない。単に、行為には主体の有り様は無関係だといっているようだ。韓流スターは「素顔はみせなくていいし」「影ばかりでもいい」という。ここでも主体が作りだして提供しているものだけを受けとろうとしているわけだ。
 それにしても、「私を見なくていいから」と言われたとき、見る者は何を見ているのだろうか。”私”を見ずに見ることができるのだろうか。本人が見られたくないと言っているのだから見ないようにしてあげるべきなのだろうが、それでも見えてしまう”私”はあるだろう。

   たまにくる映画監督からのメールは、「頭が不調です」だって。私は、よく妄想のロケハ
   ンをしています。ここで、こんな映像と台詞をと無駄に考えていますよ。メロンパンは、
   けっこうカロリー高いって知ってましたか。クリームがないぶんマシかと思っていたら、
   とんでもない。だまされてましたよ。「脳は大食い」って、子どもの頃読んだ科学漫画に
   ありました。だから、カロリーをとらないと,脳に食われてしまうのかな。
                                   (最終連)

 この作品の最後に向かうかき混ぜ方が絶妙の味加減になっている。さて、私(瀬崎)の”メロンパンみたいな脳”は、中島悦子を見てはいないのだろうか。
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詩集「星降る岸辺の叙景」  青木津奈江  (2011/05)  ふらんす堂

2011-06-28 22:42:17 | 詩集
 86頁に23編を収める。
 作品は、たどたどしく思えるような短く途切れる詩行で構成されている。目に付くのは、限られた言葉の中にあらわれるものの名前の多さである。たとえば「マチの部屋」では、「海の色に染められた部屋」「磨きあげられたガラス」「海に沿う国道134号線」「部屋に似合いだったマーブルとビチャロ」「庭のハープ」「バニエに置かれたティーカップ」などなど。それらを関係させる最小限の言葉で、組み立てがおこなわれている。
 「夕暮れをさがして」は、「芦名を過ぎた」ところでバスにとわこさんが乗ってくる話し。終点でわたしととわこさんのふたりだけが降りる。バスはわたし達だけを乗せてここまで走ってきたわけだ。だからここはものが尽きる地点であるのだろうし、ときが尽きる時間でもあったのだろう。

   太陽はもうすれすれ

   海猫が鳴いている
   とわこさんの声がする

   ああ
   夕暮れは
   太陽を掴まえにやってきた

 勝手な解釈なのだが、とわこさんはもう亡くなっている人なのだろう(途中で、「死んでなんか いない いない いない」という、とわこさんのものと思われる台詞もある)。そんなとわこさんに会えるのは、夕暮れだけだったのだろう。とわこさんに会える”夕暮れをさがして”バスに乗ったのだろうな。
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兆  150号  (2011/05)  高知

2011-06-26 23:15:09 | 「か行」で始まる詩誌
 「花」林継夫。
 この作品は「花が倒れた、/といううわさが/いつのまにかひろがった」と始まる。話者は倒れた花を見たわけではなく、うわさを聞いてその情景を想像している。そして花が倒れた理由についてのうわさも聞くのだが、通常の意味で、具体的に”花が倒れた”のではないことが判る。”花が倒れた”ことには、なにかもっと大きな意味合いが含まれているようなのだ。

   花の中を流れる時間が
   希薄になったためだ、
   というひともいれば

   花が
   花になりすぎたためだ、
   という人もいる

 ”花の中を流れる時間”がどのような時間をあらわしているのか、また、”花が花になりすぎる”というのはどんなことを意味しているのか、私(瀬崎)にはよくわからない。わからないのだが、自らを滅ぼすようなことなのだけれども抑えようがないことが起こってしまったようなのだ。ここにはもどかしいような感覚がひそんでいる。しかもこの憶測は人びとのものであり、話者の憶測ではない。そのために読む者はさらに曖昧な気持ちにさせられる。この人びとの憶測を受けて話者は、「花が倒れることで/世界は一瞬 見通しがよくなったのではないか」と言う。しかし、

   やがて
   花が倒れることで空は空の色を失い

   風も風ではなくなっていくのだろう
                     (最終部分)

 花が倒れたことの意味が語られるのだが、この理屈も非常に感覚的である。本当は理屈にはなっていないのだ。おそらくは、何を伝えたいのかは理屈では伝わらないだろう、と思いながら自分の中に浮かんだ事柄をこのように感覚的にあらわさざるを得なかったのだろう。
 その感覚で、充分に伝わってくるものがあった。
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ロッジア  10号  (2011/06)  兵庫

2011-06-24 20:50:44 | 詩集
 毎号届くのを心待ちにしている時里二郎の個人誌。今号は散文詩「《mozu》 声のためのテクスチュア」が掲載されているのだが、なんと、本編(13頁)と補足(13頁)の2分冊となっている。
 お告げによって決まられた日に、mozuの声を聞きにある場所へ出かける家族の話が語られる。その場所そのものがmozuなのである。語り手は「わたし」で、「お姉ちゃんの声」が聞こえると、わたしは父母と一緒にmozuへ出かけるのである。そして、いつの間にか母と手をつないだお姉ちゃんもいるのである。そしてmozuにいると、不意にmozuの声が聞こえてくるのである。
 このmozuとは何なのだろう? ふだんはいないお姉ちゃんは、いつもmozuの日にだけあらわれ、mozuからの帰り道にいつの間にか居なくなってしまう。「家族には、見えない家族がいる」のであり、お姉ちゃんは「mozuの日にだけ家族のもとに帰される家族」なのである。
 やがて、最後のmozuの日がやってくる。その日、わたしの姿は見えなくなっていたのである。

    ただ、mozuの帰り道、お姉ちゃんがわたしと手をつないでくれたのをよく覚えています。mo
   zuの行き帰りはいつも母と手をつないでいたお姉ちゃんが、その帰り道にわたしの手を取って、
   わざと大きく振ってみせたのも、お姉ちゃんにもわたしが見えなかったのだということを教え
   ていました。しかし、そのあともお姉ちゃんは、わたしの手を離しませんでした。いつまでも、
   いつまでも握っていたように記憶しています。あるいは、それはお姉ちゃんがわたしとの永遠
   の別れを予感してのことだったのでしょうか。

 こうして本編は終わっていく。すばらしい物語世界である。ただただ打ちのめされる。このような世界を繰り広げることのできる時里に、羨望あるのみ、である。
 補足では、本編で述べられていたことが実はある作曲家の作品であることが明かされる。そして、取材をしている「ぼく」はmozuの村を訪ねたりもしている。しかし私(瀬崎)には本編だけでこの作品は充分に成立しているように感じられた。時里は、なぜ補足を必要としたのだろう? 時里自身の姿が見えなくなってしまうことを防ぐためには、物語を二重構造にしなければならなかったのだろうか。
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折々の  23号  (2011/07)  広島

2011-06-22 21:50:18 | 「あ行」で始まる詩誌
 「あいさつ」万亀佳子。
 教室を抜けだして来た少年が、ひとりでブランコに揺られている。おそらく教室ではまだ授業がおこなわれていて、誰もほかにはいない運動場なのであろう。そんな少年の行動を誰も咎めようともしないのだ。

   少年はあいさつをする
   おはよう おはよう
   抑揚のない声で何度でも
   答えが返ってくるまで
   母がそう躾けたのだ
   挨拶と返事
   少年が世間を渡っていく手立てであるように

 皆に協調して集団行動をとることには何らかの問題を抱えている少年なのであろう。そんな少年に対する一番容易な解決法として、少年は友達ばかりか、守ってくれるべき大人からもネグレクトされているのだ。そんな少年のあいさつの言葉の周りには、言葉を持たないチョウが飛んでいるだけなのである。少年はどこまでも疎外されている。
 少年は、自分が疎外されていることの意味にも気づかずに、忠実に母の教えを守ってあいさつの言葉を繰り返している。
 俗な言い方になるが、切なくなるような作品である。おそらくは感想や批評などは必要としていない作品である。私(瀬崎)も、ただ、こういう作品に出逢ったということをお知らせしたかっただけである。
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