瀬崎祐の本棚

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掌詩集「木金土」 岬多可子 (2020/01) 私家版

2020-02-18 17:33:27 | 詩集
 毎年お正月に届けられる掌詩集。A6版12頁で、9編の作品を収め、きれいな3色の毛糸で綴られている。2013年から作られており8冊目。「今年は枇杷色です」という添え書きと共に届けられた。

 「木の蜜に封じられ」。木は柱になってからも樹液をにじませていた。それは「乾かない傷口から 生が滲み出て」いることだったのだ。幼い頃の話者は、その濃い飴色のべたべたに触れたり舐めてみたりしたのだ。ゆっくりと柔らかく形を変えるものの神秘的な魅力が伝わってくる。

   蜜に溺れた蟻が その夢に封じられ
   千 万 億年の後 掘り出される
   触覚のうつくしい悶え
   細く絞られた胴体の震えも
   とろりとした金色のなかに凝固し、今は
   薫る石 燃える石、

 幼い頃に惹かれた蜜は堅く形を整える。そして、琥珀の中に封じ込められた”時”が妖しく透けて見えるのだ。 

「銅葺きの屋根はしずまり」では、話者は古い家の整理をしているようだ。銅葺きの屋根は緑青色に落ち着き、「炉の火も 井の水も とろとろと/衰えていくことを かなしま」ない佇まいなのだ。布切り鋏、糸切り鋏、針、針山、千枚通し。のこすものを大叔母がくれた楕円形の缶におさめていく。

   氷を掻く青緑色の歯車と
   革のベルトが軋む足踏みミシン。
   不用意に 金属同士の触れあってさえ
   簡素に鳴れ、
   深く澄みひろがっている空の日。

 この作品でも時の流れを封じ込めたさまざまな物に、話者は静かに触れている。それらの物は、ただ在るだけで世界をひろげる何かを孕んでいるのだろう。

 今回の詩集に収められた作品は詩誌「左庭」「洪水」などに発表したもので、2015年の「水と火と」の作品に続くものだとのこと。詩集タイトルが「木金土」となっているのは作者の遊び心か。
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雨傘 7号 (2020/02)

2020-02-14 19:06:07 | 「あ行」で始まる詩誌
坂多瑩子と杉中昌樹の二人が編集発行している詩誌。10頁。

「林にみえて」阿部嘉昭は寄稿作品で「倉田良成哀悼」という副題が付いている。この作品は「いまの秋/ひとつの言語がなくなってしまう」とはじまる。かっては「tab」という詩誌を主宰していた倉田氏は昨年夏に逝去されているが、詩に真摯に向きあっておられることはその作品からうかがえた。言語は葉であり、えだぶりであり、林にみえるものなのだろう。

   ひとつ身をくばったなどととらえても
   ひとつはくばるとはいわないから
   ほのひかる緩衝間伐ができて
   はやしがほどけてゆく
   音楽の寺院までほどけてゆく

静かに唱えているような格好のよい哀悼作品だった。

「とても涼しい」和田まさ子も寄稿作品。新宿の雑踏の中で話者は人波を交わしながら泳いでいる。物理的な人は密集していても、存在するお互いのその関係は希薄なので、気持ちはあっさりしているのだろう。

   からだは残された課題に手を焼いている
   ひととの接続がうまくできないままの午後三時
   さっき街頭で配られた名前をすでに思い出せない
   それでわるいということはないのだが

今号のテーマは「配る」だった。坂多瑩子の作品は「配られる」。誰もいないはずだった会場に、明かりがつくといつの間にか人がいっぱいいるのだ。そして答えの書かれた問題用紙が配られる。時は遡っているようで、若い母と伯母が穴を掘ったりしている。悲しいわけではないのだろうが、甘酸っぱい手触りの作品だった。

杉中昌樹は「カードゲーム」。戦火の街があり、闘牛士や道化師が走りまわる。塔の尖端には旗が翻り、壁には読めない文字が書かれている。喧噪が渦巻いているのだが、すべては神が配るカードの中の物語なのか。映画の場面のように転換する世界が描かれていた。

私(瀬崎)は「顔屋」という散文詩を寄稿させてもらった。
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「Rurikarakusa」 13号 (2020/01) 東京

2020-02-07 22:11:42 | ローマ字で始まる詩誌
3枚のA4用紙を三つ折りにした重ねた軽快な体裁。
同人の花潜幸、草野理恵子、青木由弥子、それにゲストの和田まさ子の作品が2編ずつ載っている。

「背中屋」草野理恵子。その部屋のドアを引くと背中を向けた女がいて、その女と一緒に次のドアを開けると「やはり背中を向けた女がいる」のだ。

   私はきっと私たちと同じで
   私も背中しかないのだと思った

   ドアは開け続けられ
   背中は増え続け

誰かが火をつけた部屋が燃え始め、背中たちが一斉にこちらを向くと「白くつるりとしたものたちだった」のだ。背中屋に行けば皆で立ち去るだけの存在になれるのだろうか。おそらくは言葉を交わすこともなく、相手に向き合うこともなく、ただひとつの方向へ進んでいく背中たちは社会風刺にもなっているようだ。
草野のもう1編は「カワ(たましい)屋」だった。(私(瀬崎)も先月「顔屋」という作品を書いたばかりだった、)

「家路」青木由弥子。誰かが待っていてくれる家が在るということは、それだけでもう幸せなことだろう。家路が明るい山里の風景を辿る道ならばいいのだが、私が歩いているのは夜のアスファルトなのだ。だから、

   だが
   家はどこにある
   その人はもう
   どこにもいないのに

それでも帰らなければならない家は、私にとって何になるのだろうか。最終連は「昼の道に心を残したまま/夜に身をひたしている」

和田まさ子が詩の他に「映画のなかの言葉」というエッセイを寄せている。装幀家・菊池信義の仕事を映像化した「つつんで、ひらいて」について。詩集の装幀も多く手がけていたとのこと。私の知っている関西の装幀家は、与えられた詩集の内容と戦うような気持ちで装幀を考えていく、といった意のことをおっしゃっていた。この映画も機会があれば観てみたいものだ。
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詩集「四角いサボテン」 根本紫苑 (2019/10) モノクローム・プロジェクト

2020-02-04 22:43:05 | 詩集
 93頁に23編を収める。
「僕と洋蘭とプルコギと」。刃物屋のカッターとハサミと牛刀があらわれ、話者の僕を翻弄する。ハサミに枯れ葉の切れ端がつき、牛刀には干からびた肉片が付く。そして「カッターには僕がへばりついてい」るのだ。

   刃物屋には僕と洋蘭とプルコギがいて
   か弱い洋蘭は風邪をひいて死んで
   賞味期限切れのプルコギは腐って
   切り刻まれた僕は捨てられた

 言葉は暴力的に動き廻る。寓意などといったものをお構いなしにふりすてて、直視したくないものを容赦なく突きつけてくる。あまりにも容赦ないので、自虐的な快感を求めているような気にもなってくる。その地点で見えはじめるものを求めているのだろう。回っているカッターと、洋蘭を愛でているハサミ、それに黙々と精肉コーナーで働き続ける牛刀が妙な調和を見せはじめるところが巧みだった。

 「ソルロンタン」。タイトルは韓国の代表的な料理で、牛の肉や骨を煮込んだスープとのこと。この作品でも肉体を切り落とす。「もうすぐごはんにするからね」と言って君は僕の右足を切り落とすのだ。そして君の右手と左手の手首から先もなかったのだ。

   片足の無い僕のために片手が無い君が恥を売ってごはんを買ってきた
   ソルロンタンとは、今日はごちそうだね
   君は何も言わずに自分の肉を僕にくれた
   僕はそれ以上何も聞かなかった

 自分の手足を切り落としてでもしなければならない儀式のような何かが二人にはあったのだろうか。しかし、次の「ごちそう」が求められたときに二人はどうすればよいのだろう。

 「穴の中」も極限的な状態での愛が描かれている。僕は君の内側にいて、「君が穴に向けて柔らかい胸を出すと/穴から手が生えてきてそれをなで」るのだ。穴からはお金や宝石やご褒美が投げこまれる。僕がいるので君は穴から出られず、君がいるので僕も穴から出られないのだ。最終連は、

   君の内側で僕はこんこんと眠ります
   君が穴にお尻を向けていても知りません
   君が金メッキの卵を孕んでも知りません
   僕は眠っているから何も知りません

 この詩集には生きていることに不可欠な、本能的とも言っていい食べること、排泄すること、そして性行為を行うことについてが書かれていた。


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詩集「天体あるいは鐘坂」 杉本徹 (2019/09) 思潮社

2020-01-31 22:29:21 | 詩集
 第4詩集。111頁に20編を収める。
 内省的作品なのだが、その想念は内省の果てに自分の存在を包括した空や地球に向かう。「宇宙の、座標を、わたくしは確かめるだろう、」(「裏窓」より)。視点が自分の肉体を越えて浮遊し、宇宙を思わせる空間が自らの周りに広がる。
 それは眼前の光景からもつながっており、作者の意識はいつも自分を何処までも拡散させようとしているようだ。「緑蔭」ではメトロの最後尾に乗った話者の意識の拡散がみられる。土鳩が時間をくわえて着地し/わたくしの夏の歩みはその湿り気を帯びた一隅に、はじまり」そして、

   そこに
   もうひとつのくらい川面が
   ふたすじの、線路の光を弾いて
   隧道(トンネル)のはての見知らぬ宇宙を、指した

 「ロザ、リオ」は副題に「六枚の夏の写真」とあるように6章からなる作品。情動の契機となった写真がどのようなものであるかの説明や描写はなく、それらの写真から引き取った自分の彷徨いが展開される。具体的な写真から離れることによってその彷徨いは普遍的なものへと変化する。

   人の絶えた路線図は、蔓草の抽象なのか
     振り返ると、あらゆる夕景はつねに機の音に似た
   通過する歩道橋から、影が地上に落ちると
     いちまいの地図の孤独となって舞う(ひろうことはできない--

 読む者はこうして書かれた言葉から新たな自分の写真を描くことになる。そのときに初めてこの作品が成立するという風に考えてもよいのだろう。そのためには、この作品のように、作品が読む者の情動を受け止めることができるだけの確かさを持っていなければならないのだろう。

 美しい一節を紹介しておく。

   すれちがうつま先が、行方不明になりたくて、自転車を漕いで北へ、ゆこうと
   する。地平線という線の、空白を渡ろうとすると、少しずつ陽が翳る。鹿らし
   きかたちにハンドルが照り映えた、瞬間を、届けて、風はわたくしの後ろにま
   わる。逢引の言葉だ。
                              (「木曜歌」より)
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「くり屋」 84号  (2020/02)  広島 

2020-01-28 21:22:37 | 「か行」で始まる詩誌
 木村恭子の個人誌。A6版、12頁。寄稿1編と自身の作品2編を載せている。小さな冊子だが、いつも豊かな読後感を与えてくれる。

 「異性正装」木村恭子。南京嬢は地味な人で、夜中や雨の日に「俯いて とぼとぼ」と歩いている。そんな南京嬢は、5年に一度の異性正装の日に夫の形見の婚礼衣装であらわれる(”異性正装の日”は造語であるとの註が付いている)。そしてその日は自分からぼそぼそと話し始めるのだ。

   種蒔きを終えた最初の日曜日 異性の正装をした滑稽
   やら悲惨やらの姿が入り混じる人々が 広場にやって
   来る 人々はそっとつぶやく 「まだ来ないね」「あ
   の人ももう年だからね」 南京嬢のことだろうか

 町の人々とは交わらないような南京嬢だが、彼等から邪険にされているわけではなく、それどころか興味の対象になっている。異性の装束を着ると、意識は普段の自分とは反対側に行って、そちらの立場からものごとを観ることになるのだろうか。南京嬢が語る雨上がりの朝の草むらについてや、畑に繁る雑草を変える冬の間の風向きについて話しているのは、もしかすれば亡くなった夫なのかもしれない。

 木村の作品がみせてくれる物語には、いつも飄々としたところがある。次の「水道光熱費」では、話者は「女学校では標準の君と呼ばれていましたの」と語る人の話を聞いている。その人は「ひやひや」と言いながら調味料を捜し、「どきどきどき」と言いながら夜中に玄関の外の物音を確かめる。その人の行動には、感情が言葉となってまとわりついているようだ。そしてその人の家には肖像写真がいくつも飾られていて、

     その人達の多くは 何だか思いつめた表情をして
   います 生きてある日々は苦労も多いとでも言いたげ
   に

   まあそういったようなわけです この家の水道光熱費
   が一人暮らしの標準よりずっと高額なのは--

 一人言のような言葉は、自分の気持ちを誰かに言葉に出して伝えていたわけだ。もちろんその人はその誰かたちと一緒に暮らしているわけで、この作品の話者もその誰かなのだろう。
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詩集「約束。」 前沢ひとみ (2019/11) あきは書館

2020-01-21 17:57:47 | 詩集
 93頁に24編を収める。
 どの作品も虚と実が入り交じったような感じを与える物語となっている。

 たとえば「舌」。寝ているわたしの口の中にみずきの舌が入ってくる。高校生になった息子と記念写真を撮ったわたしは、みずきのお母さんのことを思ったりもしている。みずきはバイク事故で死んだ青年で、もしかすればわたしの恋人だったのかもしれない。「わたしの覚醒のわずかな隙間をこじ開け/みずきが舌を入れてきた」のだが、そんなみずきの存在は、ふとした瞬間にわたしの中に蘇ろうとするのだろう。その瞬間にはみずきは今でも「リアル」なのだろう。「だからダメなんだ」というみずきの台詞はそのままわたしの台詞である。

   遠い過去(むかし)にいなくなった人なんだから
   壁からでも天井からでも
   どこからでも出て行けばいいのに
   律儀にドアの前に立って
   わたしをチラッと見て
   消えた
   その顔は少し笑ったように見えた

予断を許さない展開があって、作者の物語を語りたいという希求が、そのまま読む者にも面白さとして伝わってくる。

 「日の下」は散文部分と行分け部分が混在した130行近い作品。時間軸は錯綜し、「日ノ下」という思春期の頃の友人も登場してくるが、作品タイトルは”太陽の下”、つまりはこの世での人の生き方の流れを指しているように思われた。わたしはハジメとハルカという二人の男の子を産み、母親となる。わたしは「風を追うような世界で」「肉を割り、乳を滴らせ、やがては死に還るものを生み落として、変質した」のである。そんなわたしの五歳の頃の記憶には、わたしと弟を連れて無理心中をしようとしたらしい母がいる。

   ハジメを抱きしめるわたしは幸福だった。その時抱かれているハジメはわたし
   だった。取り戻すのだ。欲しかったものを与えるのだ。わたしはわたしの母に
   なってわたしを抱いた。

 作者の孕んでいる情念が物語の形を借りて強い感じで表出されている。ミシシッピのような青い空の日の下で、子は母となっているのだ。

 童話などに想を得た「再話四篇」も毒気にまみれた物語となっていた。蟻を探してキリギリスは彷徨い、羊の皮を被ったオオカミは「お母さんですよ、お別れです」と囁くのだ。この毒気はかなり辛いところから来ているのだろうな。
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詩集「番人」 沢聖子 (2019/10) 土曜美術社出版販売

2020-01-17 23:04:22 | 詩集
 11年ぶりという第5詩集。28編を収める。

 「Ⅰ」では寓話のような作品、それに幻想のような作品が、それぞれに余分なものを斬り落とした印象的な情景をつくっている。
「われがまま」では長年連れ添った男が「この世からダイビングして」しまっていた。「暮色」で、夕暮れになった坂道で自転車を押していると急に軽くなる。振り返るとその男が後押しをしてくれていたのだ。

   坂のてっぺんに着いたら
   お別れ
   男は一言も言葉を発しないまま消えた
   成仏していないのだろうか
   もうすぐ大地を揺るがす地震が来る
   うわさを聞いて
   今度こそと迎えに来たのだろうか

 こうして束の間でもその男があらわれるということは、話者が今でもその男が帰ってくるのを待っているからだろう。その男の「遺言」を大事にしている女は「鳥に なれ」と、「明け方に向かって飛ぶ」のである。女の情念の部分が、具体的な形在るものとして取り出されているようだ。

「Ⅱ」や「Ⅲ」には様々の人が登場する。亡くなった義妹、弟、浅草の女ヤクザ、そして例の男。小動物たちもあらわれる。迷い込んできたインコ、十六歳で亡くなった猫、月のウサギ、そしてカラス。
 「伝言」で詩われるかれ等は、餌と一緒にこの世の毒も食べている。それだから「かれ等は/いっそう黒くなって身を守る」のだ。

   かって私のなかにも
   どしゃぶりの雨の夜
   住み着いた一羽の彼がいた
   彼は寡黙で
   日常 人間の心に湧きあがる
   澱みを餌として生きてきた

 彼は、私がさらけ出した感情を包みこんでくれるというのだが、もちろんそれはさらけ出されたもので出来上がっていたのだ。最終連は、「雨の夜/彼の羽ばたく音が聞こえる」。ここでも手触り感のある寓話が構築されていた。
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詩集「微かな吐息につつまれて」 小野ちとせ (2019/12) 土曜美術社出版販売

2020-01-15 12:05:29 | 詩集
 第3詩集。109頁に28編を収める。帯文は清水茂氏。
 いくつもの作品で亡くなった父や母が詩われている。作者にとって他のものには代え難いモチーフであるのだろうし、また他のモチーフでは詩えない感情なのだろう。

 「いちばん古いアルバム」。古いアルバムを見ている話者は「さっきまで貝殻を満たしていた砂に/呼ばれたような気がした」のだ。そのアルバムの写真には、家族の写真を撮ってきた父の姿はないのだ。カメラを覗き込んで写真に写った光景を一番大切にしてきたのは、実は写っていない父だったのだろう。その写真に切りとられた光景に「いつも同じ顔の父の面影が揺らぐ」のだ。最終連は、

   砂が零れ続けている
   聞こえるか聞こえないかの
   微かな音が
   どこか遠い浜辺から

 さらさらと零れる砂の音は時の流れの謂いなのだろう。次におかれた作品「楽譜」では父の机の上に置かれた砂時計があらわれる。そして「器に閉じこめられている砂の/聞こえるか聞こえないかの微かな音が/何かとてつもなく大きな叫びにも想えた」と、まさしくそのことが詩われている。 

 「ミモザの空」にはたいへんに美しい一節がある。あなたが剪って手渡してくれたミモザは「わたしの夜空を受け入れ」「ことばの果実をしたためていた」のだ。

   喪失はその分だけ広がる空もあるというのに
   躊躇ってばかりいるのはなぜだろう

 哀しみのような地点からの、静かな出発がある。

 後半ではアラスカに旅した際の作品が収められている。「ストロマトライト」はその地で出会った世界最古の生物。その生命の源から続く時間をあらためて感じている。

   億年の歳月を経て
   辿り着いたわたしたちの細胞にも
   きっとおまえたちは隠れ住む

   歪んだ椅子を
   わたしにそっと
   差し出しているのだから

 異なる地にあるとき、それまでは見慣れた風景に囲まれていて知らなかった自分の姿に改めて気付くこともあるのだろう。
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詩集「傘の眠り」 伊藤悠子 (2019/09) 思潮社

2020-01-10 18:07:02 | 詩集
 第4詩集。94頁に25編を収める。
 身構えることのない自然体で対峙した事象から、その日の思いが生まれてくる。「共同の坂道」は、私に話しかけてくる見知らぬ人たちが描かれている。ひとりひとりにそれぞれの人生があり、束の間触れ合ってまた離れていく。

   
   ここ共同の坂道の先にあるのは
   なんだろう
   ひゅうひゅう
   ひゅうひゅう
   風か、息か、私ひとりの
   それぞれたったひとりの

 行きずりの人たちと言葉を交わしながらも、坂道はひとりで上っていかなければならないのだ。話者のこのような思いがその日を支え、明日の話者につながっていくのだろう。

 第2章は「大川小学校三編」(作者と石巻の関係についてはまったく知らないで作品を読んだ)。あの3.11東日本大震災で74人が死亡、行方不明となった大川小学校だが、註によれば2018年の「石巻広域マップに大川小学校の記載はない」とのこと。地図からも消されてしまったあの場所のことを、作者は言葉で残しておくわけだ。

「傘の眠り」でまず展開する情景は、下りエスカレーター(おそらくはその手すりの上)を滑り下りていく傘である。その傘は傷害事を起こすこともなく下までたどり着いて平らになったのである。そして話者も、突き立った眩暈を鎮めるためにベッドで平らになるのである。そこから見える山は、

   さみどり
   さみどりがふきあげている
   そのなかで
   ゆっくりと下ろされていく
   さみどり山にいっぽんの傘の眠り

 「光に愛されて/風に愛され」たこれからの希望ばかりが集まっているような彩りの中に、話者の波立ったものも静かにおさまっていくのだろう。雨が我が身を濡らさないときには、傘はそっと横たわっていればよいのだ。
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