瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「扉が開くと」 江口節 (2024/07) 編集工房ノア

2024-07-24 11:36:14 | 詩集
第11詩集。85頁に27編を収める。

これまでの詩集の作品と較べると、本詩集の作品は軽妙洒脱な感覚が強い。これまでの人生から得てきたものを、平易な言葉で自分に言い聞かせているようでもある。あとがきによれば前詩集にスタイルの違いから割愛したものを中心に編んだとのこと。

「実」は1連9行の短い作品で、「軽いんだな、もともと」という気安げなもの言いで始まる。風に乗って飛んで行く綿毛を詩っているのだが、そこにいささか苦みも混じえた感慨を重ねてくる。最終3行は、

   かなし実や なや実が
   なかったら
   とっくに 友はいなかった

悲しみや悩みを、綿毛が風に乗って気ままに運ぶ実にオーバーラップさせている。長くそして重く書こうとしてしまいがちな感慨を軽く切り取っており、それゆえの鮮やかなイメージを残していく。

「空よ」は4連14行の作品。最初の1連は「背中に羽はないけれど/人はやたら飛びたがる/翼になるなら何だって」と文字数を揃えて、音数も七五調を基調にしてリズミカルである。そう、人は飛びたがるのだ。かすかにペーソスも漂うユーモア感もある。最終連は、

   人には
   風が 今日も足りない

この作品も無駄な表現をできる限り省いている。差し出した言葉だけで読み手のイメージが膨らむことを意図している。そしてそれが成功している。。

詩集最後に置かれた「聞こえる」は、様々な思わぬ事態に直面したときに身の奥底からわき上がってくるものを、巧みな比喩を交えて詩っている。

   うごめくもの
   生が揺れるとき
   うごめくもの
   生が軋むとき

話者はそれを詩と呼びたいとしている。作者の確かな思いを感じることができる作品であった。
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詩集「新・四時刻々」 本多寿 (2024/07) 本多企画

2024-07-20 11:07:16 | 詩集
2年前の詩集「四時刻々」に繋がる詩集で、150頁に31編を収める。

日々の作者は自然の営みの中に身を置いて、草木や小さな生きものの息吹を感じている。そこから生まれた作品が集められていて、肩の力が抜けた自然体のものとなっている。
「青葉木菟」。森では鳥や虫たちが死に、獣たちが眠っている。そんな森の中で青葉木菟が鳴きはじめる。その声は、

   語り得ぬものに向かって
   ついに返答しないものに向かって
   銀河を越え
   星の林を超えていく

星が流れ、それは「投げ返された美しい問いのよう」なのだ。そして「その問いこそが/美しい解であった」のだ。自然の営みと交感している話者がいる。いや、その営みの中に溶けこみ、営みの一部になっている話者がいる。

生があればまた死もある。「つまづきの石」では、いつもの散歩道に犬の死骸があって「その死につまづいた」のである。それは慣れ親しんだ日常に紛れこんできた事件だったわけだ。その死骸は片付けられたのだが、「わずかに道は窪んでいた」のだ。

   その窪みで 死は
   尖ったかたちの
   白い小石になって光っていた
   犬のかたちをした雲の影が
   かたわらに蹲っていた

死が日常の中にころがるものとしてあらわれて、ふいに我が身に迫ってきている。

その他にも、「蟬の死」では七日のあいだ鳴きつづけて亡骸となったアブラゼミを詩っている。散らばった死は地中に埋葬し、「すでに消えてしまった/その鳴き声は/空中に埋葬してやる」のである。抗うことのできない自然の摂理としての死をただあるがままに受け入れて、そして悼んでいる。

私(瀬崎)と同年である作者はあとがきで「生死一如である身」としている。その思いに支えられた詩集であった。
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詩集「脳神経外科病棟505」 清岳こう (2024/07) 思潮社

2024-07-16 22:56:09 | 詩集
93頁に58編を収める。

3年ぶりの詩集であるが、その間に作者は脳動脈瘤という大変な病と闘ってきている。作品は4章に分けられており、術前、術直前から術直後、術後、後日談と並べられている。作者は3回の手術をされたとのことなので、実際の時系列とは便宜上異なっている部分はあるのだろうが、読者にとっては大きな流れを感じることができる作品順となっている。

「Ⅰ」には我が身と同じように病と闘っている同室者を詩う作品も並んでいる。それぞれが背負っている人生を嫌味のないユーモアをまじえて捉えている。根底には同じ場で病と闘っている人への共感と応援の気持ちがある。
そんな中で手術の準備も進んでいく。「施術説明」では、具体的な術式説明を聞いている話者は風にあおられ異物が膨らんでいる帆かけ船となっていく。「右脳左脳の間に分け入り ナビゲーターを使いながら進むのです」、「湖の水をぬきましょう 血瘤を取りのぞきましょう」。

当事者である我が身を客観的に見ており、また、いささか自虐的にも捉えることによって乗り越えようとしている作者の精神力には感嘆する他はない。我が身を首筋を化粧品のセールスレディに褒められてもそれは「生き残っての首」であるし(「首」)、台風の中の病室では「ヘルメットを斜めにかぶったまま手榴弾を胸にだ」いている(「塹壕に横たわり」)のだ。

「Ⅱ」には走り書きのような短い断章の作品もある。いよいよ手術に臨む張りつめた心情が何の飾りもなく伝わってくる。

   熱風の舌になめつくされからめとられ
   今は とらわれの身 沈思黙考するしかなく
                       (「夏」全)

   あっけらかんの青空
   なんとか 逃亡できないものか
                       (「冬」全)

「いざ 決戦」となり、その後に「集中治療室」となる。そして「生まれなおし」をしたのだ。

「Ⅲ」では術後の病室にいる。「ラッキーの作法」では紙一重で変わっていく人生の幸運が描かれている。作中に「ブルーコール」という言葉が出てくる。これは病室などで急変事態が生じた際に医療関係者を招集するための全館放送の符牒である(符牒なのでこれは病院により異なり、あるTV医療ドラマでは”コードブルー”という語が使われていた。”スタットコール”という語を使っている施設もある)。

   ブルーコール ブルーコール ブルーコール
   集中治療室に移されたまま帰ってこない50歳がいる
   入院中の私たちに手放しのラッキーはないのだ

自らも同じ状態におかれていながらのこの創作意欲に感嘆する。
そして詩集1冊分の作品を携えて無事に”病棟505”から戻られたのである。それは厳しい北国の冬の寒さから脱して春が訪れたときの喜びに通じるものだっただろう(「落とし物」「えぐね」)。
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詩集「もはや。」 大西美千代 (2024/07) 編集工房ノア

2024-07-13 12:43:04 | 詩集
第8詩集。102頁に28編を収める。

「もはや。」は、「もはや。の後に続く一行を書きなさい」という誘惑的な一行で始まる。この言葉はその状況がすでに間に合わないときに使われる。「もはや。/やりなおしはできない」のか、それとも「こんなところまで来てしまっては引き返せない/もはや。」なのか。取り返すことが出来ない事態、時間。そこにあるのは悔恨なのか、それとも絶望なのか。それは作品を読んでいる者も否応なしに向きあわされる言葉なのだ。そしてこの作品の話者はそれでもなお、そこから始まるものを見ようとしている。最終連は、

   地上に落ちて
   溶けていく無数の回答
   地面を濡らす言葉の力を信じ続ける
   降りやまない光のように降ってくる
   もはや。
   の後に

「眠れない夜」では、話者は深夜の遮断機の前で待っているように言われている。すると突然の雷鳴、稲妻がやってくる。ありすぎる言葉、情報、そして憎しみや欲望が偏ってしまったと地球が身をゆするのだ。「電車は音もなく停まり/扉を開ける」と、

   車両では男たちが血を流している
   男たちはいくつになっても血を流すことが大好きで
   女たちは化粧に余念がなかった

そこには非現実な世界が不意にあらわれるのだが、実はそれは今までの世界との境界などはなく続いている。こちらの世界にいながら話者が見てしまう光景なのだ。見てしまったら、もはや、引き返すことは出来ないのだろうか。

「波立海岸」。波立海岸に向かう話者は「ほんとうは心の奥に向かっている」「ほんとうはあの日に向かっている」と呟く。そして「みなかったことにしよう」「きかなかったことにしよう」と自分に言い聞かせている。これは相当に辛いことだ。もはや、などと言っている余裕もないほどだ。

しかし詩集の最後近くに置かれた「夜明け」では、消え残る星を見送りながら、

   もういいよ
   どこへでも行きなさい
   ふさがれた未来
   ふさがれた過去から
   自由になって

この詩集を作り終えた作者自身が次の世界に向かっていこうとしている作品だった。
繊細な心の揺れが詩集全体に感じられた。
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「頬、杖」 松川紀代 (2024/06) 思潮社

2024-07-09 21:52:29 | 詩集
第7詩集。90頁に34編を収める。
折々の感興をすばやく書きとめたといった感じの、短く簡潔な詩行で構成された作品が並ぶ。

たとえば「隣」は7行の短い作品。あの世へはこの世が終わってから行くのではなく、目を閉じて老いてゆけばそれだけでいいようなのだ。と書かれた次にあらわれる隣の婆が効果的。化繊のスカートを引きずっていて「(顔を洗うのは忘れちゃった/なんて気持ちのよい天気)」と言ったりしている。

   宇宙には途切れる なんて箇所はなくて
   どこも 隣

こんな哲学的な大命題を(隣の婆も登場させて)さらりと書いてしまうところに感心する。それでいて、どこかに肩すかし感のようなユーモアも漂っている。

「祖父ありき」は「女に貢いだ人生」の祖父を詩っている。二階にお妾さんを住まわせ、三度妻をもらい、女の子ばかりの孫にいろんな物を買ってくれたのだ。昔気質の豪放磊落な人物像が浮かんでくる。
対になる作品の「祖母」。夕飯の残り物などで自分の昼食用におじやを作る。そして中途半端に残っていたものを何でも入れてぐつぐつ煮てしまうのだ。こちらも祖父に負けず劣らずの豪放磊落さを持っていた?
どちらの作品にも話者の主観、思いなどはいっさい書かれておらず、ただ描写があるだけなのだが、二人とも愛すべき人物だったことがよく伝わってきた。

詩集タイトルの「頬、杖」は同名の作品もあるのだが、その他のいくつかの作品にも出てくる。「自分」では、「もとの自分に戻ったよう」なときにいつの間にか頬杖をついていたようなのだ。頬杖は退屈している時の仕草だと言われるが、物思いにふける時の仕草でもある。無防備な自分を支えているのかもしれない。この作品の最終2連は、

   自然な姿でいる
   解放されて

   五分だったか
   永遠だったか

最終連2行はすっとぼけたような、それでいて無常観にも繋がっているような、そんな余韻を残している。
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詩集「途中の話」 和田まさ子 (2024/06) 思潮社

2024-07-07 22:26:10 | 詩集
第6詩集。101頁に24編を収める。

Ⅰには東京の街を物語と共に彷徨っている作品が並ぶ。
「蛇崩川」では権之助坂を過ぎて目黒川に行き当たっている。わたしにはいつまでも帰ってこないチチを待っていた記憶があり、

   近寄らなくても
   いずれ向こうからやってくる
   ひと、もの、こと
   わたしを壊すものたち
   届くものでなぐさめられることはない

異なる水源から流れはじめたものが街中を巡って合流している。わたしのなかで流れていたものも大きな流れと出会うのである。最終部分は、「どこにもいないと信じていたチチが/川という物語になっている」。東京の地勢と話者の血脈の物語が巧みに融合されていた。

Ⅱ、Ⅲでは自分の内側にある街を彷徨っている。
「七月にすること」では話者の家での習わし行事が詩われている。そのような行為があるということは時が流れて人が成長するということでもあるわけだ。ひとの名前を覚え、愛し、そして何かを失う。美しい最終部分を紹介する。

   そうだとしても
   できることはあるだろうか
   何もない
   ただ
   地中にある粗暴な種子を一気に目覚めさせる
   わたしを水浸しにして
   脱色して
   トウメイな夜の新生児になる

「目玉を浮かせて」ではヴィヴィアン・メイヤーというアマチュア・カメラマンに思いを馳せている。彼女は世界中を旅して「目玉を世の中に浮かせて/撮りつづ」けたのだが、それらの膨大な写真は死後にはじめて印刷されたようだ。そんな彼女を想う話者は、

   そのまま中央線に乗っていく
   自分の駅で降りたとき
   何かを電車に置いてきた
   わたしの目玉かもしれない

詩集タイトルの同名作品はなく、「声は残る」の最終部分に「でも、なにもかも/途中の話/その本をずっと読んでいる」とある。亡くなった福間健二さんの名もあらわれる作品だった。
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詩集「食品概覧」 木村恭子 (2024/06) 私家版

2024-07-03 11:01:39 | 詩集
第8詩集。104頁に37編を収める。

個人詩誌「くり屋」に発表した作品の中から食品に想を得たものをまとめたもので、前詩集「調理の実習」と並べてやりたかったとのこと。
どの作品にもふっと異世界に彷徨いこむ感覚がある。この重力を喪失したような感覚が何とも魅力的である。

たとえば「野菜(ミニトマト)」では、久しぶりに訪ねた先生からもらったミニトマトは家に帰るとなくなっている。先生を訪ねるためにのぼった坂道も、先生の家もなく、いや、先生に見せようと連れていった赤ちゃんもいないのだ。話者の呟きは「違う坂をおりたのかも知れません」。異世界はいたるところで繋がっているのだ。

「調味料(塩)」では大雪の暮にやってきた姉が、亡くなったお母さんに町内の忘年会に誘われた話しをする。うっかり付いて行くところだったと笑う姉はそれからあの世に帰っていく。塩抜きをしながら話者は「あの世にもあの世があったのだ」と妙なことに感心している。
このように此岸と彼岸の境界が曖昧な世界で作品は揺れうごいている。  

「乾物」。眠りから覚める前に「その人は決まって私に何か手渡す」のだ。厄介なものを押し付けられたと感じていたこともあるのだが、「自分が望んで引き受けたのだ思うこともある」のだ。そしてそれは、

   力を入れるとすぐにも砕けるもろい物ではあるが 私という水の中で しだい
   に大きく膨らみ 一日を終えるころには ちょっとした豊穣さを備えるように
   もなっている その物がやっと〈モノ〉から解かれて〈コトバ〉に変化したか
   らだ

この作品には作者の自然体の詩人としての様が描かれていて興味深い。

「麺麭」。私は雨に濡れそぼってバスに乗り、バス停前のパン屋でお腹を空かせた二人の子どもにパンを買って帰る・・・。私は必死に行動しているようなのだ。それなのに「私はこんな所に突っ立っている」のだ。汗をかいて目覚め、

   時々思います 私達が本当に棲んでいるのは夢や眠りの中かも知れないと--
   ここでパンを食べて労を為し 排泄しては夢や眠りの中へ戻る(略)
   ある日戻ったまま力尽きて もうここを訪れることはできないのだと--

   誰かに呼ばれて以来 ここへ繰り返しやって来ているのだと
   たった一度きりの深い手招きによって

台所というとても日常的な場所で目にするものが、いつしか非日常的な物語を連れてきている。一部分の引用では物語の面白さが伝わりがたいことが残念だった。
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「地上十センチ」34号(2024/06)/「CROSS ROAD」23号(2024/05)/「空離須」4号(2024/06)

2024-06-28 17:51:17 | 「た行」で始まる詩誌
個人詩誌3冊を紹介する。

「地上十センチ」は和田まさ子発行。18頁で表紙絵は毎号カラフルで楽しいフィリップ・ジョルダーノのもの。今号のゲストは尾久守侑だった。
「新宿」和田まさ子。マッサージをしてもらうと皮膚がやわらかくなり苔が発育してきた。世間と接触するには、皮膚よりも苔の方が快感なのでおとこに水を掛けてもらう。そして胞子を飛ばして女子学生たちも苔玉にしてやる。東京の中でも猥雑な街である新宿に出現した苔が楽しい。

   新宿
   ゴッホの自画像は苔むしている
   ざらりとした世界の果てに生きながらえて
   ニンゲンたちを
   呼び止めては立たせ
   冷え冷えと見ている

「CROSS ROAD」は北川朱実発行。16頁で表紙写真は今はなくなったというジャズ・カフェの夜景である。毎号、ジャズプレイヤーと作家についてのエッセイが載る。今号はディジー・ガレスピーと高井有一だった。
「三月の砂」北川朱実。公園の砂場では男児が丸い玉を作っては「バクダン!」と叫んで崩していた。人は、どうしようもなく何かを壊す生きものなのだろうか、と思えてくる。夕暮れになり私も帰る。

   男児はあれからどうしたのだろう

   小さな泣き声が
   ゴッホの黄色のような
   ことばにできなかったものを連れて

   淡い光の中を歩いていく

話者のなかにもある破壊衝動が見つめられている。

「空離須」は吉田広行発行。A4用紙を三つ折りにした体裁。
「EIGA・栄華の日々」と題したエッセイでは、ビクトル・エリセ監督の新作「瞳を閉じて」を紹介していた。あのアナ・トレントも55歳になったとのこと。観なくては。
「春のらせん」吉田広行。春には何人もの人が発っていく。らせんのような激しい風も吹くのだ。

   だが わたしたちはどこへも
   たち去らない
   この光の
   澱のなか
   別れるべき息を送りだし
   なにかあたらしい
   空間へ
   切り開かれてゆくことを希望いながら

春という季節のなかでどこか途惑っている話者がいる。明るく軽やかな季節の中に潜んでいる死のイメージが切ないものを連れてくる。

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詩集「ストーマの朝」 河野俊一 (2024/06) 土曜美術社出版販売

2024-06-25 18:05:57 | 詩集
第8詩集。109頁に28編を収める。

前詩集「ロンサーフの夜」は26歳で癌のために早世された娘さんを詩っていた。
今回の詩集について作者は「この詩集を作らなければ前に進めない、という一冊」であったという意のことをあとがきで述べている。三部構成で、亡くなるまでの日々、亡き娘への悲しみ、亡くなった娘との交感、となっている。

「新しい礼服」。父から譲り受けた作者の礼服はだいぶくたびれていて、それを気にした”おまえ”は息を引き取る2週間前に紳士服店へいったとのこと。それは六月のことで、「季節はどんどん生気をみなぎらせ/おまえは/どんどん衰えていく」ばかりだったのだ。

   私が次にそれを着るのは
   自分の葬儀だと知っていて
   選ぶ
   いたいけなひとときが
   みちあふれて震えながら
   店の外までながれだしていたことだろう

あとがきには「私たち周囲のものは、延命治療に切り替わって以降、娘から生き方を教えてもらう立場に変わっていました」とあったが、それはどれほどに辛く、また大切な日々であったことだろうかと思う。

「ストーマの朝」(ストーマとは人工肛門のこと)では、冒頭に戦火に見舞われたガザのシファ病院のことを詩っている。病院は戦火から逃れられる場所ではなかったのだ。そして、大手術を終えた娘さんが急変したその夜のことになる。腸管切除後の吻合部の癒合不全が起こり、夜を徹しての緊急手術によってストーマが造設されたのだ。戦火とは無縁の病院で娘さんの手術がおこなわれた一夜だったのだが、それだけに研ぎ済まされた感情があったのだろう。最終部分は、

   生きている 生きる 生かされる
   手術を受けられた朝は
   安らかにやってきた
   ストーマを
   娘の体に馴染ませながら

最後に「追熟」という作品が置かれている。夢の中に小学生の君があらわれ、すぐに高校生になり、大学生になっていく。死は折り返し点であり、

   折り返し点までの思い出と
   折り返し点からは
   すれちがいながら走る
   与えられた時間を
   生きるものとして

”君”の思い出がこれからも作者の中で静かに熟れていく、それを感じながらの生があるのだろう。
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詩集「冬の曲線」 小林妙子 (2024/05) 土曜美術社出版販売

2024-06-21 22:12:52 | 詩集
第3詩集。139頁に32編を収める。巻末に高橋次夫による添え書きが付いている。

「ネジ」は、床にころがっていた一本のネジを詩っている。「なんの企みだろう」と思ったりもしている。それまではあるべきところに収まっていたものが、その役割を捨てて異なる場所にきているのだ。最終2連は、

   いたはずの場所の痕跡
   不在とはこのようなもの
   証拠がのこされること

   ここは部屋
   黄色い花が咲いています

ネジを見つめていた話者の視線が引かれて、ネジのおかれている世界の全体像がぽんと描かれた最後の2行が印象的である。話者のいる場所は”いるはずの場所”なのだろうか。

このように、作品に描かれている具体的な情景は誰でもが思い当たるような、日常的に遭遇するものである。しかしそこから作者は自分だけの“詩”を探し当てている。見事な手練手管である。
「降りた駅」では乗り越してしまったために目にした風景を描いているし、「やって来たもの」では道で出会った猫に、「もしもし」ではすれちがうTシャツの若者に、作品の中で話しかけている。

「逆光」は、隣家へお使いに行った幼い日の情景を描いている。勝手知ったる家だったのだろう、胸までの高さのある縁側にまわったのだが、

   奥を覗くと空っぽで
   真っ黒いだけの深い穴になっている
   仏壇 箪笥 踏台の
   なまえの付いたものが何もない

   開け放たれた障子の先が
   すっかり消えていた

逆光で光から閉ざされていた部屋のなかに見えるものはなく、いわば闇が広がっていたわけだ。それは怖ろしさをも越えてしまった情景で、子供心に虚無のような存在を感じてしまったのではないだろうか。それは初めて体験する感覚だったのだろう。そこに隣人がやってきてドアを開くと、陽がすべり込んできたのだ。その時の自分を今の話者が見つめている最終連が、好い。

   遠くに
   子どもがいるよ
   時間を折り曲げればやってくる
   夏

等身大の風景の中に作者だけの詩の世界が探り当てられている詩集だった。
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