瀬崎祐の本棚

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詩集「アリスの森」 樋口武二 (2018/11) 書肆山住

2019-02-15 20:37:46 | 詩集
毎年のように、というか、この数年は年に2冊ずつの詩集を出している作者の第13詩集。75頁に23編の散文詩、それに序詞と終詞を載せている。「遊ぶことを忘れてしまった大人たちへ」という副題が付いている。

 タイトル通りに主役は、あのアリス。狂言回しとして兎も登場する。森の中でアリスは奔放に動き回る。穴を見つけては調べたがる。

   腕を組んで顎を上げたアリスに、声をあげる者などは居なかっ
   た 降りていって上がれなくなったらどうするの、と問えば、
   そんな危険なところに私を降ろすの、と明確な言葉が返ってき
   た              (「梯子を下ろして、」より)

 作者も「あとがきに代えて」で「これは詩集か、と言われるのは覚悟しています」とのことだが、確かにこれは掌編集の趣である。金太郎や乙姫様は出てくるし、シンデレラも遊びに来る。作者の中で生まれる物語には当然のことながら制約などない。世界を広げるためには、なんだって利用してしまうのだ。作者の試みは潔く徹底している。

   何がこれから始まるのだろうか そんなことは誰も分からない
   のだ 遊ぶということはそういうことでもある さいしょから
   理由なんてものは在りはしない はじまりというものはあるだ
   ろうが、終わりは存在しないから、夕暮れの闇が幕を引くまで、
   それは続けられることにもなる
                 (「ゆるやかな下り坂で」より)

 作者は「〈ものがたり〉が主体でしたが、意志の内部には〈私〉が存在しますから、力を抜き、遊び呆けたつもりでも、私は〈わたし〉でしかありませんでした」と言う。これはとても好く判る。可能な限り自分から離れようとしても、自分はどこまでも伸びてついてくる。であれば、せめて書きたいように書いて新しい〈わたし〉に出会うしかないのだろう。
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詩集「変奏術師の娘」 原葵 (2019/01) 沖積舎

2019-02-12 23:24:12 | 詩集
 108頁に23編を収める。第4詩集か。
 作者は幻想文学のロード・ダンセイニの本を何冊も翻訳しており、猫に関する本、そして何冊かの絵本も出版している。「自叙」では「いつも、様々に変装して生きてきました」という。

「金の鍼を研ぐ日は」。二階では眼帯をして耳栓をした夫が「耳が聴こえない 眼が見えない」と叫んでおり、私は治療室で患者に鍼を打っている。猫は夫と弁当を食べ、昼寝をして、夕方には猫歌の練習をする。夫に「なぜ眼帯をするの?」と尋ねれば「お前を見たくないからさ」と答え、「なぜ耳栓をするの?」と尋ねれば「お前がリトアニア語で囁くのを聞きたくないからさ」と答える。

   治しても治してもこわれてゆく私たちの体
   猫よ
   何も聴こえず 何も見えない私たちのために
   夜が明けたなら
   東の空に向かって
   猫歌をうたって聞かせよ お前の熱い喉で

 この詩集には、猫、リトアアニ語、二階にいる夫、死んで川底に横たわる姉、ときどき帰ってくる父、おばあさんなどが、その衣装を替えてはくりかえしあらわれては消えていく。体と共にこわれてゆくのは気持ちのどこかで、ときに夫はやさしく「今日は どこへ行こうか」とたずねるのだ。そしてわたしは「わたくしが帰ってこれないほど遠くの町へ」いきたいと答えるのだ(「捨て犬のように」)。

 「母を捨てた夜」。その夜、姉と私は「びちゃびちゃと/大ぜいの蛙たちを踏みつぶして」帰ってきたのだ。「それぞれに/多くの捨てたものたち/踏み潰したものたち」があったのだ。何十年も過ぎて、ついに訪れなかった天上の音楽に絶望して姉は川で溺れて死んでく。そして私は夜中に死んだ姉に電話尾するのだ。

   いつか母にも 電話をかけることができる日が
   来るだろうか
   誰もいない廊下で 深夜にじっと ひとり立ちつくして

 どうしても今はまだ母には電話がかけられないのだ。母とか、捨てたものたちは、私の何を担っていたのだろうか。それを捨てることによって私の何が変わるのだろうか。

 詩集の最後に「変装術師の娘」「変装術師の家」の2編がある。母は「何に変装するかが、おまえが世界をどう解釈するかを示すものなのよ」と私に教える。私の偉大な母は、”母”に変装していたのだ。そして家の中では、夫や家政婦や少年や師や、ついには聖者がひたひたと歩く音をたてているのだ。
この詩集は、内容からは掌編物語集とでもいった方が適切かもしれない。しかし叙述はあくまでも詩として提示されている。”散文”からははみ出たものを絡ませながら物語が提示されている。

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詩集「柚子の朝」 西村啓子 (2018/11) 土曜美術社出版販売

2019-02-07 22:37:17 | 詩集
 第6詩集。109頁に32編を収める。

 「注意報」は、「坂を下りてきたら/死体を担いだ男と出会った」と、意表を突く状況ではじまる。何事かとわたしは身構えるのだが、あたりは静まりかえっているのだ。「いずれ来るのだろう」とわたしは状況を受け入れてもいるようなのだが、いったい何が来るのだろう。

   そのときは
   亡霊のようにのろのろ起き上がってきた人々が
   通りを埋め
   重なり合って見送り
   足音高く歩く男女を
   テレビが猛々しく報道する

 男の死体はいったい何の“注意報”だったのか。報道される映像は軍事行進を思わせるようなものではないか。不気味な社会が私たちのすぐ近くに佇んでいるようだ。

詩集は3章に分かれていて、Ⅱでは戦中、戦後の記憶が作者に落としているものを描いている。

 Ⅲに収められている「飛んだのか な」は、老いに直面している自分を独得の感性で、少し突き放してみている。歩行がおぼつかなくなってきたので、念を入れて歩みを確認すると、足の指はワニになっていたのだ。鏡を見れば普通の老婆なのだが、背中は固く鱗も生えているようなのだ、そして肩甲骨のあたりは痛痒く「何かが出てくる」ようなのだ。、

   親しかったYさんが
   しきりに「寂しい 寂しい」といっていたのは
   厚着の下に
   生えかけてきた羽を
   たたんでいたころかもしれない

 Yさんはそのあとどこへ行ってしまったのだろう。いささかの自虐の気持ちも混じっているようだが、はて、飛んでしまったら、わたしはどこへ向かわなければならないのだろうか。


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詩集「失われたものたちの国で」 深沢レナ (2018/12) 書肆侃々房

2019-02-05 22:41:09 | 詩集
 第2詩集。141頁に17編を収める。
 独白体の散文詩と行分け詩が収められている。中には”夢追い人”についての箇条書き作品や、”猫影荘”に入居するための規則書の作品もある。

 そして、この詩集ではいたるところで埋める者、そして埋められる者があらわれる。たとえば「小鬼穴」では、「私は夢の中で二人の小鬼と一緒に穴を掘っていて今日こそはなんとか完成させたいと思っていたのだ」。セットで購入した双子の小鬼とは夢の中で落ち合うのだ。昼間は壁と向かいあって立っている私なのだ。ついに穴が完成すると小鬼は私を中に放り込み、穴の底から見えていた丸くくりぬかれた空を巻き取ってしまった。

   私のいる場所はただの無になった。私は無の中にすわっていた。そこは静かで、光も
   なく、時もない、確固とした暗闇だった。

 夢の外、つまりは穴の外では大地震が起き、私は崩れ去る壁の下敷きになるのだ。

   壁は叫ぶのだろう。固く閉ざしていたその口を開き、もはや壁でなくなってしまった
   壁は何を叫ぶべきかもわからずに、言葉にならない声で無意味に、かつて私であった
   ものを呼んで叫ぶのだろう。

 穴、そして壁とはいったい何なのだろうか。個人が閉じこもる世界であったり、現実で行動を制限するものであったりと、解釈は可能かもしれないが、そんなことをしてはつまらない。作品はただ表現されたものとして読む、それが楽しい。そうすれば、いつの日にか、小鬼は私を食べてくれるのだ。

 どの作品にもどす黒い情念が沈殿しているような、そんな重たさを感じる。作品は、他人がとやかく言うことなど、なんの意味も持たないような重さを抱えている。読む者は、共感もできないままに、とにかくその重さを受けとめなければならない。

 お伽噺の体裁を装った「てなしむすめ」も壮絶である。父様に両腕を切り落とされたわたしは、道具を首に挿んだり、口に咥えたりして生活している。リンゴの木の下に埋めてあるお父さんに水をやったりしているのだ。そしてお父さんがうまく生えてきたら、

   あの人はわたしの両腕をどこかから見つけ出してきて
   生まれたての我が子を抱くようにこの上なく大切に
   わたしの部屋まで届けにきてくれる
   のだと
   わたしはあの人が大きな手でノックするのを今か今かと
   そっと
   耳を澄まして待ち続けているのです

 帯には「でも、希望の匂いがする本」(柴田元幸)とあったが、ここにあるのは希望ではなく、それでも行くしかないという決意だと思った。
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地上十センチ 20号  (2018/11)  東京

2019-01-31 16:47:39 | 「た行」で始まる詩誌
 和田まさ子の個人誌。14頁。表紙絵は軽快でおとぎ話のような雰囲気のフィリップ・ジョルダーノの作品。毎号楽しい。

 「イヴの抽斗」はゲストの井坂洋子の作品。それぞれ「ある日、」ではじまる4連から成る。抽斗の中には4つの日の出来事が入っていて、それは亡くなった人の詩を読むことだったり、覚醒と睡眠の間にいることだったりする。ある日、ゆで栗の甘皮をむいて食べると、

   絹雲のセロファンがはがされ
   何くわぬ顔の
   充益した無があらわれる
   うすあおい空は
   無辺際の柩のようだ

 何気なく生活しているようで、実は自分はこんなにも切実なものを抱えていたのだと思わされる。感覚を研ぎ澄ませれば、自分が主人公になった物語で毎日が紡がれていることがわかる。

 和田は3編を載せているがその中から「窓を増やす」。読書をしていた部屋には陽が差し込み、「からだはあやうい川を渡るのを免れたが/薄いシーツにつまず」くのだ。言葉だけではない実生活では、いろいろなことが起きるのだ。

   耳の迷路で歩きまわり
   手を熱くしながら
   窓という窓に石を投げる
   割って割って、どんどん家に穴を開ける
   灰汁のような夜の水があふれ出てきた

 この作品でも、自分がこの世界で生活しているということを見つめ直せばこんなにも物語が溢れているのだということに気づかせてくれる。そのためには、その日の出来事とただ向き合うのではなく、それが自分に突きつけてくるものを見つめなければならない。しかし、その物語が自分にとって大切なものなのか、それとも気づかない方がよかったものなのかは、誰にもわからないことではあるのだが。
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詩集「ASAPさみしくないよ」 尾久守侑 (2018/11) 思潮社

2019-01-29 17:27:43 | 詩集
 第2詩集。100頁に17編を収める。
 都会である。東京である。スカイツリーを思わせるイラストの表紙にかけられている半透明のカバーには東京地下鉄の路線図が描かれている。
 そして都会の詩である。洒落ていて、軽くて、不特定多数で、対象を識別するための名前は符丁でしかない世界が展開される。

 「ドラマタイゼーション」では、「それがないものねだりと知っていて/明日にうそをついた」と始まる。流れていく大勢の人がいるのに、その人たちは話者にとってはまったくの無名の存在のままで、ただ目の前にいる。そんな場所では、わかれるほどの出会いもないのだろう。

   自分をたいせつにしない人
   へんだよって、君が去っていく
   普通かよ
   普通の言葉でおわかれかよ

 最終部分は「バタンと車のとびらがしまって/また君が去っていく」。君とはまた明日会うのかもしれないが、それはいつも同じ運賃の距離をタクシーに乗るようなことかもしれない。

  詩集なかほどに饒舌独白体の2編がある。行頭をずらし、表記にもリズム感を作っている。この饒舌から生まれてくるものは何なのだろうかと考えてしまう。それは読み手である私(瀬崎)にとって意味のあるものだろうか。当然のことながら、作者が求めたものと、読み手が受け取るものは乖離する。いや、生まれてくるものがあるのか。いや、生まれるものを望んでいるのか。そんなこととはまったく無縁の地点で発語しているのだろう。

このブログでの表記の関係で、後半の作品「空からなにも降ってこない」の最終部分を引いておく。前詩集に比べると、気持ちのひだの陰影が濃くなっている。

   夢ならば
   記憶のなかならば
   連続ドラマがはじまるよかんのなか
   全力疾走でたどりついたグラウンド
   人工芝に大の字にねころがって
   青空を見上げれば
   空からなにも降ってこない

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詩集「三日月をけづる」 服部誕 (2018/09) 書肆山田

2019-01-22 22:05:01 | 詩集
 このところ毎年詩集を編んでいる作者の第5詩集。123頁に27編を収める。

 「大空高く凧揚げて」。独り暮らしをしていた母の遺品を整理していると、納戸からは、「またなんぞの折りに使えるさかい」が口癖だった母がきちんととっておいた紙袋、包装紙、紐の束が大量に出てきたのだ。わたしは、いっそこれらを使って大きな凧を作って空に揚げることを夢想する。それは「大空高く 母よ 舞い上がれ」ということであり、すると「おお これこそがなんぞの折だわな」という母の嬌笑も降ってくるのだ。

   わたしは納戸の前に座りこみ
   色とりどりの美しい紙と紐を片付ける
   何の役にも立たなかったその几帳面さを思いだしながら
   母を片付ける

 素直な哀しみが伝わってくる。独居していた老親をおくった者であれば、この作品にはいっそう容易に感情移入できるだろう。最終行の「母を片付ける」という言葉が切ない。
この他にもこの詩集には亡くなった母にまつわる作品を多く収めている。母は今もわたしのところへやってきて、一緒に町を歩き、橋を渡るのだ。

 作者の視線は身の丈にある。背伸びをすることもないし、卑下や自虐もない。自然体で対象と向き合い、自然体で言葉を発している。奥底に一貫する優しさがなければそのような言葉を発することはできないだろう。

 「踏切の音が追いかけてくる」は、相当の年齢になった話者が時間と競争していた人生を詩った作品。それは高校通学や通勤時の電車に間に合うためのもので、遮断機の警報に追われるように生活してきたのだ。退職した今は、

   間に合わせなくてはならない今日は
   とっくにわたしを追い越してしまった
   夜を越えてやってくる明日も
   やすやすとわたしを追い抜くだろう

 そしていずれは「その向こうにひそんでいる/しずかな死の闇」がわたしに追いついてくるのだ。これまでを振り返り、残されたこれからの時間を思っているのだが、そこにあるのは決して諦観ではなく、受容であるだろう。対象にだけではなく、自身にも優しい心根がある。
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詩集「虫を飼い慣らす男の告白」 新延拳 (2018/10) 思潮社

2019-01-20 10:46:09 | 詩集
 第9詩集。125頁に27編を収める。
 詩はあぶない夢なのか、それとも吐瀉物なのか。そして詩を書くことは呪縛なのか戦慄なのか。こんなことを醒めた意識で自問しているような作品が冒頭にある。

   私は過去と地図を見失い
   詩のようなものを嘔吐し続ける
                   (「わが嘔吐」最終部分)

 詩を書く自分をこうして客観的に見る視点があるからこそ、話者は変幻自在に作品世界を構築できるわけだ。

寓意のある作品も少なくない。そこでは鐘や鏡が人々の生活を精神的に支配していたりする。「鐘の音」では、町の時計塔の示す時刻が見る人によって違うのである。鐘の音も聞く人によって時刻が違う。

   鐘の音が聞こえる時ここの住民はよく鏡を見る
   自分にとって一番大事なものが映るからだという
   夭折した子や懐かしい親の顔などが・・・・
   そして何を憶い出すべきなのかを再確認する
   人々は本当の哀しみは時間が経ってからこそ
   やって来るものだということを悟るのだ

 人はその人の気持ちによって長い人生や短い人生を送っているのだろうし、鏡に映る自分の中にこれまでのすべてが堆積しているのだろう。

 夢の中で砂漠を歩く者もいる。朝起きると枕元には砂がこぼれているのだ。そして砂漠の男も高層住宅に住んでいる夢を見るのだ。どちらが現実で、どちらが夢なのだろうか(「バベルの掟」)。

「集められて」は、何の列で何のために並んでいるかもわからずに、「私も順番の後に来る何かを待っている」のだ。話者は蝶の博物館やこけしの博物館で夢を見る。そして最終連では、やはり、

   私は立っている
   いや並んでいるといったほうが正確なのだろう
   何の列なのだろう
   なぜ並んでいるのだろう

 目的も、行為の意味も知らされないままに、とにかく他の人との間に埋没している。いつか順番がやってきたときに自分は自分になれるのだろうが、そんな順番は果たしてやって来るのだろうか。

 詩集の後半には鉄道に関連した作品が収められていた。
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詩集「水平線はここにある」 松川穂波 (2018/09) 思潮社

2019-01-18 21:18:22 | 詩集
 第3詩集。125頁に20編を収める。
 冒頭の「岩場で」は3つの章からなる。「母」は、危ない岩場を一人で行くことを決めた子を見送る作品。おそらく子は振りかえることもしないのだろう。「背中を若い帆のように光らせて」海の方へ行ってしまうのだ。

   放てば欠けていくだけの真昼の月でいい わたしは 淋しさは別のところから
   吹く 一羽の鳥が肌寒い春の風に乗り 彼方へ渡っていく

 いつの日にか子に取りのこされる宿命の母親の姿がここにはある。そんな場に来てしまった母親の心情が簡潔に沁みてくる。「青年」では、親の存在などは意識の外に置いた”僕”が水平線と対峙している。誰でもが、自分が主人公となるそれぞれの物語を持っているのだろう。

 「日向灘」。この浜には「金色の目をしたひと/いっぽん足のひと/ツノのあるひと」などがいて、それぞれ松林の彼方に消えたり、記紀のなかに迷い込んだりしたのだ。話者は流木に火を放って記憶を焚いてしまうのだが、

   浜で拾ったちいさな木片は
   てのひらほどのひとを
   運んだものである
   火にくべるまでもない
   からり
   骨の明るみに届いている

 風景の中に積み重なっている歴史を感じているのだろう。逝く人を見送る淋しさもあるのだろうが、それを諦観を持って受け入れようともしているようだ。

「足りない夢」「陰沼」「雨の川」といった散文詩は寓話的な趣のものとなっていて印象的だった。
 そしてⅱには長編の散文詩が3編収められている。「崖下の家」は幼いころからの家族の記憶、「おまえは歌うな」は小咄のように書かれた断章集、そして「並木 翠のラビリンス」は、かつての日にわたしが殺して埋めたあなたに並木道で遭遇する物語。物語が長さを必要としたのだろうが、やや冗長となってしまった。

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詩集「オウムアムア」 田村雅之 (2018/09) 砂子屋書房

2019-01-11 18:02:41 | 詩集
 111頁に19編を収める。砂子屋書房の詩集は頁を繰ったときの手触りがとてもしなやかである。指先が心地よい。

 「手--柏木義円」は、作者の故郷である群馬県で「安中教会の牧師を四十年近くつとめ、「上毛教界月報」を出し続けた」柏木義円のお孫さんとの遭遇を描いている。作者の祖父は義円とも交友があったとので、その遭遇は大変に貴重なものだったのだろう。義円の晩年の写真をみて、「大きなふくらみのある手の甲、その手の組み合わせ方。それが義円先生のすべてを表出しているように思」うのだ。

   神の手なんて言うと安っぽくなるので、言わない。が、
   わたしにはとても真似ができそうにない。ひとつの人格
   のあらわれだ。
   幾枚かの写真から、それを見つけ、理解したことだけで、
   今日は充分、満足なのであった。

作者の作品には蘊蓄が随所にあらわれる。そこからくる格調のようなものも作者独特の味わいとなっている。しかし、日常生活から少し離れたような立ち位置ですまして事象を見ているようで、実は作品にはとても直情らしい作者の人情味が溢れている。

 「オウムアムア」。詩のタイトルは2017年に発見された巨大彗星の名前である。葉巻形をしたその恒星間天体は、気の遠くなるような年月を単位として太陽系にやってきて、やがてペガサス座に移動するという。話者は「その赤い船に/上等のスコッチを差し出してみる」のだが、

   いやいや
   そんないさおしの
   誘惑なぞに
   しみてたまるか、と
   無言の答えが
   返ってきそうだ

 宇宙のすべてを担った存在でありながら地球人には何も伝えてはくれないのだ。人間の営みなぞとは無縁のところでの存在に、話者は驚嘆と共に敬意を表したいと思ったのだろう。しかし、当の”斥候”(オウムアムアのハワイ語の意味)にとっては、酒などは、ふん!といったところか。酒を愛する人間くさい話者によって、まったくそれとは無関係な存在である彗星がより印象的となっている。

 この詩集と一緒に自選詩集「『デジャビュ』以後」(2018/09 砂子屋書房)も届いた。1992年以後の既刊6冊の詩集からの作品を載せて440頁あまり。存在感がある。
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