瀬崎祐の本棚

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「鼻行類の盗賊たち」  尾世川正明  (2017/04)  土曜美術社出版販売

2017-04-27 22:28:42 | 詩集
 第7詩集。96頁に28編を収める。
 装幀も作者自身によるもので、途中頁には2葉の油彩画も載っている。作者は人物をモチーフとした油彩画をよく描き、個展を開いたり、10年以上にわたって二科展への出品もしている。
 それもあってか、視覚による描写が作品をしっかりと支えている。事物の明暗、そこから生じてくる形、そしてそこから生じてくる事物の存在意味に近づいていく。
 「黄色いカンナの咲いた夏」ではいろいろな情景が点描され、それらの情景がならべられてひとつの大きなイメージを形成している。いる。

   美術館から消えた時間旅行者はずっと帰らない
   それから今日までの間
   中世のコウモリの声を聴く受信機を探していたが
   そんなものはあるわけないよと隣にいるひとが言う
   確かにそれが現実なのだろうとそのひとの手を握る
   細い指と柔らかいがひんやりとした手首

このように尾世川の作品では、一枚の画布に具体的な複数の事物がある関係をもって描かれる。それらの事物が引き合う力によって、全体としての絵が完成している。このことにも関係すると思われる形態的特徴としては、いくつかの章からなる作品が少なからずあることをあげることができる。本詩集でも6作品は4つの章からなっている。たとえば、「四種類の演技方法」は、「祈るための演技」「詩を書くための演技」「都市を去るための演技」「繰り返すための演技」からなっている。また「十二分質の小世界」ではタイトル通りに12の作品からなっている。
 「壺のなかで半島になる」でも、海があり、人が歩かなくなった街の石畳があり、

   地下室にとどかない鐘の音もある
   ひとみがゆれつづける女の詐欺師がいて
   細いトンネルや暗い切り通しの先で待っている
   深い皺でしわくちゃになった老婆の顔のような
   等高線の細やかな地図をはじから歩きだして
   おおきな水槽の水面に浮かぶ
   おびただしい虫の死骸に至る

 こうした情景を通して、人が存在することの不思議さ、存在するために人がなす行為の面白さに迫っていく。この詩集にあるのは落ちついた視点なのだが、冷たくはない。どこまでも理知的な抒情とでもいうものが伝わってくる。
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詩集「父の配慮」  小笠原眞  (2017/04)  フランス堂

2017-04-25 21:03:41 | 詩集
 第6詩集。正方形の判型で146頁に27編を収める。
 平易な語り口で父のこと、我が身のことなどを描いている。地元の医師会誌に長く詩を書いていたとのこと。そのために”詩を書かない読み手”にも受けとってもらえるものとなっている。これは貴重なことである。
 「犬猿の仲」は、生まれ年の干支にからめての家族の話。自分は申、父は寅、母は酉などと続き、それぞれの性格を軽妙に記す。そして妻は「何と何と戌年なのだ」という。

   若い頃は猿も悪事がばれて
   時々噛まれもしたのだが
   最近は老獪になったせいか
   吠えられることさえ少なくなってきた
   いわゆる犬猿の仲であっても
   お互い静かな老後を夢見ているのだ

 ここには読む者を惑わせるような詩行はまったくない。読む者は書かれた事柄をそのまま信じて読めばよい。つまりは、読む者は作品そのものを信じて読むことができるのだ。これはなかなかに大変なことだと思う。
 「父の配慮」は最期が迫ってきた父を詩っている。亡くなる十日前から父のところには男女二人が訪れるようになったのだ。もちろん父にだけ見える人たちで、

   亡くなる四日前には
   一日中その人たちと激論を交わしていた
   亡くなる日時を相談していたのかもしれない
   誰にも迷惑をかけないよき日が決まると
   父はとても安らかに静かになった

 作者は、そんな父の気遣い、配慮を感じて、「少し申し訳ない気持ちにな」ったりしているのだ。
 生きてきたことの苦しいことも書かれている。しかし、読後感はやわらかく、どこか気持ちがくつろぐ。作者は医師であるが、読む者の気持ちを癒してくれる、そんな意味では詩における名医である。
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グッフォー  67号  (2017/03)  北海道

2017-04-20 19:12:24 | 「か行」で始まる詩誌
「べつの樹」海東セラ。
 いつもの幻惑させられる作品とは少し趣を異にして、今作は現実的な肌触りを保っている。見慣れた木の幹からたしかに異種と思われる幹が生えているのだ。しかし、それはやはり同じ種類なのだと教えられる。何か耐えなければならないようなことがあって、”べつの樹”を生やさなければならなかったのだろう。それに気づいた話者も、

   うっかり植栽ごと愉しまれていた樹に、まったく気づいていなかった
   かといえばそうともいえない。発芽のときから少しずつ慣らされた目
   に、育まれ愛しまれいつのまにか、自分からべつの樹が生えている。

 「ちいさな町で」中村千代。
 私は紙でできているような家に彷徨いこんでいく。そこで人々は「いくつもの窓にぶつかりながら不揃いの靴は虹の色合いでふぉーるふぉーるまわっていた」のである。だから「こころを叩きながら一緒にまわる自分がみえた」のである。まるで人形セットのような、ここではないどこかの風景の中で、私のひとときの物語がくり広げられている。こういった世界へ、私たちはときおり彷徨いこんでは詩を書くのだろう。

   淡いひかりはまだそこにあって温めているのだと 
   遠いひとも近いひともなにかを抱えてやってきて膝
   を折り 祈り消してゆくことばと携えてゆくことば
   を託して帰ってゆくのだ

 「遙かな人」小林明子。
 「沈んでいく石を拾うために/彼女はためらいもなく/水の中に手を入れた」とはじまる。沈みつづける石を追って彼女は体ごと水に入っていく。残された者たちは見ていることしかできない。

   振り返らず
   言葉も残さず
   しだいに光から遠ざかりながら
   彼女の背中は固まっていく
   ようやく拾った石を
   おさな子を抱くように胸にかかえて

 次に振り返ったときには、彼女は別の人の顔になっているのではないだろうか。それが石を追いかけ、拾いあげる行為の意味なのだろう。
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詩集「月光の音」  北爪満喜  (2017/03)  Memories

2017-04-17 13:39:48 | 詩集
 北爪の詩と写真で構成された38頁の美しい作品集。
 表からは24頁の「月光の音」で、3編の詩、12葉の写真。そして裏からは14頁の「登る彼女 昇る月」で1編の詩、3つの組み写真と3葉の写真。あとがきによればポエトリー・フェスティバルで展示したり、ビルの通路に常設展示したりしている作品とのこと。

 波面を飛ぶ白い鳥と霞んだ月の写真が置かれた次の頁に、詩「消えられないあれを 引き上げたい」。海に自転車が落ちて沈んでいる。その自転車は、人に見られているので、消えることができないでいるのだ。彼女(自転車)は私が置き去りにしてきたもののようで、水の中から私を見ているのだ。

   ほんとは
   彼女が目を向けたときだけ
   繋がっていいよと
   私は まなざしのロープを投げられているのかもしれない

 最終連で私は「ロープを掴んで ゆらゆら登ってくる言葉を/書き留め」ている。藻だらけになって私(瀬崎)の中に沈んでいるものは、どんなものなのだろうか。

 裏からの「登る彼女 昇る月」では、天空に高い月と、歩道橋を駆け上がって行く女性の写真が、見開き頁の左右に配置されている。女性たちはどこかへとても急いでいる。そのために輪郭もこの場所からは滲んでいるようだ。

   汚れた街の目をのぞき込めば
   体が 映って
   バックミラーに
   陽差しや風と同じように
   過ぎてゆく 移ってゆく

 最終部分は「登ってゆく/越えてゆく/渡ってゆく//あ、月だ」。白い月や蒼い月。それから放出されている波動は張りつめた音となって地上を満たしているのかもしれない。
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エウメニデスⅢ 53号 (2017/03) 長野

2017-04-11 20:06:42 | 「あ行」で始まる詩誌
 11人の詩作品、2編の詩論、それに2つの書評を載せて64頁。
 粟棟美里による表紙写真は、キャベツの葉で顔を隠した女性の上半身像が強いコントラストで撮られていて、物語の始まりを予感させている。

 詩論「現代詩の広い通路へと」小島きみ子
 現代詩の魅力は「フロイトによって発見された無意識の領野における〈他者〉の意識に出会う場所である」からだとしている。これは大いに納得できることである。そして「作品創作の現場は、私という〈他者〉を知ることのできる〈鏡像〉の認識の場」であるとしている。これは、私(瀬崎)にとっても詩を書くという行為の存在価値のかなりの部分を占めることである。本稿は、「画家の詩、詩人の絵」展や「荒地」展のことなどにも話が飛び、論がやや拡散しているようにも感じられたが、逆に、広い視野からの接近とも捉えられる。興味深く読んだ。

 詩「安全で安心なアマゾン」小笠原鳥類。
 アマゾンにはピラニアがいて、大きなナマズもいて、でも熱帯魚もたくさんいて、その熱帯魚は水槽に入れられていて、シールが貼られていて、とても安全なのである。

   (略)アマゾンには小さな魚も多くて、例えば
   ネオン・テトラ、ネオン・テトラは土の上を泳いで
   安全だ安心だ、ネオン・テトラにも歯が鋭くて
   安全だ安心だ、ピラニアに食べられるんだろうか

 行またがりのフレーズが考える暇を与えないようにたたみこまれてくる。この勢いには、仰るとおりです、と平伏するほかはないではないか。でも、一番安心していないのは話者なのだろうな。
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