瀬崎祐の本棚

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詩集「旅を編む」 白井知子 (2019/09) 思潮社

2019-10-31 21:21:34 | 詩集
 第6詩集。101頁。
 Ⅰ部「イラン 白砂と天空」には6000kmをめぐったというイランの旅に材をとった10編を収めている。
 もちろん作者は旅人であり、それはこの地を通過する存在であるということだ。この地の歴史によって育まれた者ではないということだ。しかし、話者はこの地に同化しようとしている。

 たとえば「沈黙の塔」。それはヤズドという地にあり、「余すところなく洗い 白い布でくるんだ死者を棺に入れて運び込む塔なのだ。そこで死者は鳥や猛獣に喰いつくされたのだ。死んだ母を洗えなかったわたしは、

   灰になったあなたを 土の壁の隙間に置いていきますから
   どうぞ お好きにね
   あやうい旅かもしれませんよ
   綺羅星が雹みたいに降ってきそうな夜です
   寒くなりました
   土漠の風におまかせしていいですね

 話者は旅人であるがゆえの関わりをこの地に結んでいる。この地を旅した意味が、確かなものとして残されている。

 Ⅱ部「コーカサスの森の鍵盤を遮光が弾く」では、コーカサス、インド亜大陸、バングラディッシュ、インドネシアの旅が詩われている。
 「異土 コルカタ」。個人的な記憶でもインドはそれこそ”異土”だった。いたるところは混沌だった。IT大国という一面を持ちながら未だに厳しい身分制度が残り、日本とは比較もできないような貧困が当たり前のようにある。そんな地で、

   ヒンドゥー教の女神 ガンガー その現し身なる聖なる河
   ガンジスの河へ
   爪先から浸らせてもらう
   灰が浮いている
   生身だったころの夢の苛となって流れていく

 旅をして、その地を通りすぎることによって、その人の中を過ぎていくものもまた在るのだろう。それがわたしを新しいものにしてくれるのだろう。
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エウメニデスⅢ  58号  (2019/10)  長野

2019-10-28 23:00:51 | 「あ行」で始まる詩誌
小島きみ子が非常に意欲的に編集発行している詩誌。8人の詩、それに論考、書評が載って32頁。

 「中空での抗い、そのように育むもの」松尾真由美。
 30字×30行の矩形にはめ込まれた言葉が蠢き、ざわめいている。筺の中ではせめぎ合いもあり、新たに徒党を組む言葉たちもあるようだ。ここでは混沌を混沌のまま見せつけている。だから「希望」と言われても安易に信じるわけにはいかないのだ。

   いつまでも乾かない水溜まりが濁りすぎて虫もわいて、気味の悪い
   地下を想像させていき、宙に浮いた涙たちは中空で集まれば扼殺を
   まぬがれる、そうした希望が生まれてきて、より集合する涙の重み
   で紙が破れてひとすじの光がさすのだ。

 「水処(みずこ)」海埜今日子。
 「水の、声だったのかもしれない。」という魅力的な行で始まる。”水処”は”水子”でもあるのだ。水は子どものものであり、流れて旅をしたものが還っていく処でもある。途中に1行ずつ挟み込まれる4カ所の短い詩行を紹介しておく。

   ここ、そこ、どこ、でも。水の、ながい旅が、あらわれてゆく。

   水の子。あそこ、ここだよ。ほそい流れが、声を、たぐる。

   水の子、なんだよ。ながれてゆく、ところは、ここ、そこ。

   海のない、骨が、階を、ここでも、ことばだ。水の声がする。

 「零れる音」北原千代。
 病の末期状態にある「先生」を病室に見舞っている。そこには光があふれているようで、哀しみを越えたおだやかさがある。おそらくは、すでに先生は遺骨になっているのだろう。やわらかなピアノの音色が聞こえてくるような、恩師を送る作品だった。最終連は、

   てのひらに載せると指のあいだから ひかりの音が零
   れる
   ほどかれてここにあるわたしの 節立つ指よ さあ 
   ピアノを弾きなさい 鍵盤の芯には先生の 砕かれた
   肋骨が睡っている

 「エウメニデス」は60号からふたたび小島の個人誌に戻るとのこと。 
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ハルハトラム 1号 (2019/07)  

2019-10-25 20:57:08 | 「は行」で始まる詩誌
 ある合評会に集まったメンバーで制作された詩誌の創刊号。10人が集まり、38頁。

 「樹上」小川三郎。
 樹の上には人がいて「ほんとうのことを」言ってくれるのだが、私たちは全部が嘘の存在だったのだ。だからほんとうのことが行われても、それは私たちには関係のないことのようだったのだ。

   狂うべきものが狂わないときだけ
   意味を失う言葉があり
   だからいくら狂おしくても
   きらめくものはきらめいていたし
   静かに過ぎ去っていくものが
   私たちの胸を満たしていった。

 最終連では、「死が/理由なく訪れることを」私たちは樹の上に向かって願ったのだ。樹上にはこの世界を超越した存在のものがいて、私たちをいつも観ていたのだろうか。そして私たちも本当は、”ほんとうのこと”が意味を持つことを願っていたのだろう。それなのに、死しか確かなことがないとは、なんと切ないことだろう。

 「樹についての書物を読む」北爪満喜。
 それぞれが独りで立っていると思っていた樹木は、実は密接な連絡を取り合っている可能性を、書物で読んでいる。木についた菌は樹木の仲を取り持っているかも知れないとも。わたしたちには言葉があるのだが、繋がり合うことはできているのだろうかと考えてしまう。最終連は、

   聞かないようにして歩く日々に
   聞き合っていた木について読む

 黙ってそれぞれが動かないでいると思っている自然が、実は豊富に動き廻っていたのだということを知らされたわけだ。自分は自然に比べても孤独だったのだと、あらためて思い知らされているようだ。

 「交点」佐峰存。
 様々の情報や出来事が、互いには無関係な無秩序状態で起こっている。話者は「あらゆる声が混じりあう中で、対面するあなたの指の一歩先の空白を追いかけていた」のだ。それは、あなたとの関係を秩序あるものとして繋ぎ止める試みであったのだろう。

   割れて穴の空いた大気から水が溢れ
   私達は鉄色の企みをした
   文字を打ち込むと まだ触れたことのない
   遠くの樹木の葉が擦れ
   そこから 夜更けが近づいてくるのがきこえた

 他者との関係がどうなっているかを捉えることは容易ではない。3作品を取り上げてみたが、どの作品においても、それを認識するために記述していると思われた。みんな、混迷の中に漂っている。
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詩集「昼の岸」 渡辺めぐみ (2019/09) 思潮社

2019-10-21 22:45:44 | 詩集
 第5詩集。150頁に32編を収める。

 「睦月を急ぐ」は、「風の坂を上がる」と始まる。勾配は急で、おそらくは向かい風が吹いているようなその”風の坂”は、無数の友達の脱落によって作られてしまったのだ。それでも話者は坂を上がらなければならないと思っている。

   落札された幸福を
   遥かに見下ろして
   せり上がる風の坂になり
   夕陽をひとすじ抱(いだ)くだろう

 新しい年に新しい世界を構築しようとする決意が、叫びではなく、内に秘めたものとして伝わってくる。話者にそのように語らせることによって、作者もまた勇気づけられている。
 「鬼百合の咲く頃」「夏至」「灼熱」なども好きな作品だった。そこでは、描かれる具象の風景が抽象的な意味合いを自然に孕んでいた。

 Ⅱにはマグリットの絵に触発された8編が収められている。参考にした絵のタイトルも付記として付けられていたので画像を確認しながら詩作品を読んだ(マグリットの絵はタイトルから想像することは困難だ)。
 たとえば「脱色」は、あの袋を被って顔を隠した二人を描いた「恋人たち」を参考にしている。互いを見ない二人だから、

   身を寄せあって
   囁きすらせず
   あらゆるいさかいを打ち消す脈動を伝え合うこと
   それさえできれば
   わたしたちは生きてゆかれるはずよ

 恋する心はこんな風に存在していたのだ。そこには希望とか幸せではなく、「貴方が誰であるか/わたしが何であるか/忘れさせて・・・・・・」という懇願だけがあったのだ。
 このように、マグリットの絵を出発点とした作者の彷徨が描かれている。絵をすでに遠くへ置き去りにして作者の作品は新たな”絵”を描いている。「願い」はマグリットの「生命線」を参考にしているのだが、青く無機質な女性の裸体から革命闘争への予感へと続いていた。

 これまでの詩集ではやや身構えた硬いところが感じられていたのだが、本詩集は感性の手触りが柔らかく、それだけ懐が広く豊かに感じられるものだった。これまでの詩集の中で一番好きなものとなった。
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詩集「花あるいは骨」 加藤思何理 (2019/09) 土曜美術社出版販売

2019-10-15 17:53:07 | 詩集
 作者はこの数年は毎年詩集を出しており、今年は2冊目である。やや縦長の判型で、装幀はいつも好いなあと思ってしまう長島弘幸。
 124頁に27編を収める。

 行分け詩の体裁を取ってはいるのだが、内容としては奇譚が語られている掌編集といった雰囲気である。どの作品ででも悪夢のような奇妙な物語が展開される。
 たとえば「妻と鳥籠」。探偵に教えられたホテルの妻の部屋を探していると、その部屋に招き入れられている男を目撃する。男が廊下に鳥籠を残したのだが、それを覆っている絹布を捲ってみると、なかには妻の頭部が吊り下げられていた。

   (略)鳥籠のなかの黒い瞼がゆっくりと大きく開いて、ぼくを真正面から 
   まっすぐに睨みつける。
   その真青な虹彩に映るのは、怖ろしいほど醜く歪んだぼく自身の顔。
   そのときぼくは、妻を殺害した犯人が誰かをはっきりと理解する。

 作品のタイトルも大変にイメージをかき立てるものが多い。「ガラスの車輪に乗る金髪の男たち」「死んだ水夫のための短い祈り」「ぼくの十代に宝石のように埋めこまれた街」など、自分でも作品を書きたくなるような気持ちの昂ぶりを連れてくる。

 「骨と砂丘」では、脚の金色の毛を抜こうとして脛の骨が抜け落ちてしまう。友人と二十年ぶりに再会する約束で砂丘を歩いているのだが、

   湿った窪地があって、このあたりが妻の体の中心だということが解る。
   奈緒也が来ないのは、もしかするとぼくの妻に遠慮しているせいなのかも知れない。
   それとも彼は、まだ妻の耳たぶのあたりで道に迷っているのだろうか。

 やって来た奈緒也は無表情にぼくの眼のなかに金色の文字を書きこむのだが、それは近すぎて読めないのだ。

 急激な場面転換、しかもそれはほとんど脈絡を伴っていない。ただ具体的な出来事がこれでもかとつきつけられる。まさに夢のような展開で物語はすすむ。夢の特徴と言えば、抽象的な表現がなくてすべてが絵画的であること、論理的な意味のつながりの欠如、などがあげられるだろう。常に一人称で展開されるこの詩集の物語は、まさにこの特徴を備えている。
 しかし、ここに収められた物語が夢を描いたものと考える必要はない。夢のような展開を利用しただけであって、求めたのはどこまでも自由な飛翔だったのだろう。
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