第4詩集。93頁に21編を収める。
この詩集で描かれる光景は日常の何でもないもののはずなのに、陰影が微妙に捻れている。それゆえに、それらの光景は触れてはいけないもののような、何か怖ろしいものにたどり着いてしまうもののような、そんな気持ちをわきたたせている。
たとえば「耳」。耳の遠いおばと母との会話は疎通性を欠くものだったようだ。耳は相手の言葉を受け止めることをしてくれなかったのだろう。そんな耳が光景を連れてくる。澱んだ匂いの池には「てんてんと/耳が 浮いていた」のである。見覚えのあるほくろでそれとわかるおばの耳をすくう。そして、
池の底に沈んでいる
もうひとつの耳のことを思いながら
丁寧に耳を洗った が
洗っても洗っても
黒いしみは 滲み出てくる
母の耳にとどいたおばの声には、取り除くことのできない黒いものがしみこんでいたのか。言葉での説明なぞすることができない危うい人間関係を、意思疎通をになう耳の可視的な光景として巧みにあらわしている。
「客間」。法事が終わった部屋の「畳の上に/切った爪が落ちている」のだ。誰が持ち込んでしまった爪なのか。法事に集まった老いた人たちは同じ話をくり返し、「故人も膝を並べて うなずいて」いたのだ。人たちは去り、最終連は、
客間には誰もいなくなった
夜が客間を鎮めようとしている
爪は もう落ちていない
亡くなった人も、自分の爪と一緒に引き上げていったのだろう。こちら側とあちら側が溶けあっていた場が、今は何食わぬ顔でそこにひろがっている。
「手を洗う」は、「死んでしまった人の詩を読む」とはじまる。作者が不在となった後に、残された言葉は何を背負っているのだろうかと、あらためて考えてしまう。作品は書き上げられた瞬間に作者からは解き放たれると考えれば、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。それでも、やはり作品はいつまでも作者の何かを担っているのだろうか。最終連は、
死んでしまった人の詩が
私を探して
呼んでいる
作者もすでにいなくなっている作品は、それ自身の意思で彷徨いはじめるのだろうか。
この詩集で描かれる光景は日常の何でもないもののはずなのに、陰影が微妙に捻れている。それゆえに、それらの光景は触れてはいけないもののような、何か怖ろしいものにたどり着いてしまうもののような、そんな気持ちをわきたたせている。
たとえば「耳」。耳の遠いおばと母との会話は疎通性を欠くものだったようだ。耳は相手の言葉を受け止めることをしてくれなかったのだろう。そんな耳が光景を連れてくる。澱んだ匂いの池には「てんてんと/耳が 浮いていた」のである。見覚えのあるほくろでそれとわかるおばの耳をすくう。そして、
池の底に沈んでいる
もうひとつの耳のことを思いながら
丁寧に耳を洗った が
洗っても洗っても
黒いしみは 滲み出てくる
母の耳にとどいたおばの声には、取り除くことのできない黒いものがしみこんでいたのか。言葉での説明なぞすることができない危うい人間関係を、意思疎通をになう耳の可視的な光景として巧みにあらわしている。
「客間」。法事が終わった部屋の「畳の上に/切った爪が落ちている」のだ。誰が持ち込んでしまった爪なのか。法事に集まった老いた人たちは同じ話をくり返し、「故人も膝を並べて うなずいて」いたのだ。人たちは去り、最終連は、
客間には誰もいなくなった
夜が客間を鎮めようとしている
爪は もう落ちていない
亡くなった人も、自分の爪と一緒に引き上げていったのだろう。こちら側とあちら側が溶けあっていた場が、今は何食わぬ顔でそこにひろがっている。
「手を洗う」は、「死んでしまった人の詩を読む」とはじまる。作者が不在となった後に、残された言葉は何を背負っているのだろうかと、あらためて考えてしまう。作品は書き上げられた瞬間に作者からは解き放たれると考えれば、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。それでも、やはり作品はいつまでも作者の何かを担っているのだろうか。最終連は、
死んでしまった人の詩が
私を探して
呼んでいる
作者もすでにいなくなっている作品は、それ自身の意思で彷徨いはじめるのだろうか。
この度は拙詩集を丁寧に読み込んで下さりご感想ありがとうございました。