瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

叢生  155号  (2008/04)  大阪

2008-04-25 19:43:34 | 「さ行」で始まる詩誌
 「夕映えの船」島田陽子。長い航海を続けてきた老朽船を詩っている。ここまで恵まれていた、と詩い、航海中の魚たちのうたや空を埋める星のことを思い出している。いまは静かに夕映えを眺めているのだが、そこに後悔はなく、精一杯やってきたという満足感と安堵感がある。

   次の嵐を乗りこえられるかどうか
   船体も機器もかなり傷んだ
   いずれはようようの思いで彼の地に行き着くにしても
   まだ舵は手放したくない
   海図を頼りに緑の島々に寄り ゆっくりいこう

 これからもゆっくりと航海を続けるという意志がある。容易に判るように、老いを感じ始めた自分に対しての応援歌である。頑張っていただきたい。
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くり屋  38号  (2008/04)  広島

2008-04-20 09:56:24 | 「か行」で始まる詩誌
 木村恭子の個人誌で、今号の寄稿者は秋島芳恵。A6の小さな版型に大きく拡がる世界の作品がつまっている詩誌。
 「勝手口」木村恭子。やまねさんのところで台所を間借りをしているおばさんのはなし。奇妙な行動をくり返すので注意をすると、姿が見えなくなる。冷蔵庫の陰に勝手口が作ってあり、そこから広がる原っぱにおばさんは出ていくようなのだ。

   名前を呼んでもこちらを向かず やがてカートを押
   しながらおばさんは踊りだしたそうな。クルクルク
   ネクネ腰を振り 薄墨色の遅い午後ではあったが 
   なんだかそれは光あふるるという感じで・・・ や
   まねさんはしみじみそう言った。

 そんなおばさんの話をやまねさんが語っているのだが、実は、やまねさんのなかにおばさんは住みついていて、時々勝手口を開けるためにやまねさんはこんなお話をするのではないだろうか。ということは、作者の中にそのやまねさんが住みついていて、時々勝手口を開けるために・・・。
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道標  128号  (2008/03)  岡山

2008-04-15 17:36:56 | 「た行」で始まる詩誌
 「今朝も」松田研之。幼少の頃の朝、寝床のなかで母親が野菜を切る音を聞いている。それは何でもない、毎朝くり返された音だ。それは、おそらくは誰でもが毎朝くり返し聞いてきた音だ。

   耳をすます

   あれは
   今が
   刻まれている
   音だ

   見えない
   大きな包丁に
   いのちが
   刻まれている
   音だ

 誰でもが子供のときから育まれて、成長して、やがて死んでいく。毎朝まな板の上で葉を切るリズミカルな音がくり返され、その朝が積み重なるだけ、人は死に向かって生きている。子供時代にはこんなことは考えなかっただろう。ある年齢に達した者だけが、毎朝の積み重ねの意味を問いなおして自分の人生をふりかえる。そして、これから始まる今日一日を生きていくのだ。短く改行された詩行がリズミカルな音をよく伝えてくる作品。
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谷神  11号  (2008/03)  千葉

2008-04-13 18:50:29 | 「た行」で始まる詩誌
 「鬼ごっこ」中村洋子。孫と鬼ごっこをしている。鬼に追いかけられたり、鬼になって追いかけたり。孫をブランコに乗せて背を押している。そんなさなかに見せる孫の無垢な動作が、わたしの動作の意味を確かめてくれている。

   皮膚の奥にまだ残っていたらしい
   とっくに忘れたはずのこと
   うかつに現れる執着のかけら
   そのつまさきでけ散らして
   やわらかい背をおしてやる

 孫は、自分を映す鏡。その鏡に映る自分はどこまで行くことができるのだろう。だからどこまでも行けと、そんな孫を励ましている。「ふりかえるな ふりかえるな/わたしは鬼になって追いかける」のだ。
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RAVINE  165号  (2008/03)  京都

2008-04-08 20:57:26 | ローマ字で始まる詩誌
 「書記」藤井雅人。古代エジプトの書記に仮託して、書くと言う行為の意味を探ろうとしている。しかし、書記はただ書くだけが役割の人だ。

   見つめる前方に空虚がある
   あるいは無限の空間と 永劫の時が
   わたしは表情なく 待っている
   書き記すべき事実の渦が
   目から腕に しみ透るのを

 パピルスに書き留められた言葉は永遠に意味を持って残される。しかし、書記は「消えるべき風の裏道」であるだけなのだ。では、書記が書こうとしたものは何であったのだろうか。こうして私たちが言葉を書き留めるときも、言葉が永遠に残ることを夢想して、私たち自身は消えて行くべきなのだろうか。
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