12頁の親しみやすい新井啓子の個人誌。今号の寄稿は「たまご」長嶋南子。
僕は一子・二子・三子と名付けためんどりを飼っている。その名前は別れた女の子の名前。めんどりの卵はケーキになり、遠くの町の別れた女の子はそれをおいしそうに食べるのだが、
別れた女の子のおなかの中の卵は
死滅するのを待つだけだ
この作品では、自らの種の生殖と他の生きものの摂食という生命に関わる二つの事柄が裏表のこととしてあらわれてくる。卵を産まなくなっためんどりは食用となり、それを食べた僕もそのうちに「にわとりのからだになる」。
こうしていつのまにか、食べていた者は食べられる者へと逆転していく。語ることはかくも怖ろしいことなのだ。長嶋の作品はそんなことを見せつけてくる。僕は食肉になって、別れた女の子に買われて、その子たちは「今夜は唐揚げなんて子どもにいっている」。さりげないユーモア感覚が、実はぞっとするような残酷さをさらに際立たせている。
僕は唐揚げになりたかったのだろうか
せめて親子丼になって
かあさん 食べてください
親子丼だから、いきなり母親が意識の中に登場してくる。歯止めがないように、こうしてどこまでも走り去っていく作品が、とても好い。
僕は一子・二子・三子と名付けためんどりを飼っている。その名前は別れた女の子の名前。めんどりの卵はケーキになり、遠くの町の別れた女の子はそれをおいしそうに食べるのだが、
別れた女の子のおなかの中の卵は
死滅するのを待つだけだ
この作品では、自らの種の生殖と他の生きものの摂食という生命に関わる二つの事柄が裏表のこととしてあらわれてくる。卵を産まなくなっためんどりは食用となり、それを食べた僕もそのうちに「にわとりのからだになる」。
こうしていつのまにか、食べていた者は食べられる者へと逆転していく。語ることはかくも怖ろしいことなのだ。長嶋の作品はそんなことを見せつけてくる。僕は食肉になって、別れた女の子に買われて、その子たちは「今夜は唐揚げなんて子どもにいっている」。さりげないユーモア感覚が、実はぞっとするような残酷さをさらに際立たせている。
僕は唐揚げになりたかったのだろうか
せめて親子丼になって
かあさん 食べてください
親子丼だから、いきなり母親が意識の中に登場してくる。歯止めがないように、こうしてどこまでも走り去っていく作品が、とても好い。