瀬崎祐の本棚

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詩集「皆神山」 杉本真維子 (2023/04) 思潮社。

2023-04-28 20:24:14 | 詩集
第4詩集。正方形の判型に幅広の帯がかかっており、カバーの内側で熨斗をイメージさせるような折りたたみ方をされている。表に出してみると、”山”を思わせる形となっていた。111頁に24編を収める。

「しじみ」は、「しじみ、と思ったら、/自分の目が映っていた、」と始まる。己の肉体を形取っている感覚を研ぎ澄まして、己を囲む世界と向き合っている。そこに生じている迫力は語ることの、そして語られるものの説明などまったく不要のものとしている。そこにあるのはぎりぎりまで精神を鍛え、余分なものをそぎ落としてなお生き残った言葉だけなのだ。その結果として、その言葉たちは作者自身を形作るようになっていく。最終連は、

   侮辱され、
   全うする、
   木肌は赤身のようにかがやいて、
   夜はひっそりとしじみの目を見つめた。
   ふうん、と女たちは手をたたいて笑い、
   便器にぶつけてあとかたもない

つづく作品「ぼけ」では、庭に出てそういう名の犬を眺めた話者は、川で釣り人の数を数えて「こころを満た」す。そして、「草野球の、ホームランの音で、/身長をのばし/砂利をふむタイヤの/かんしょくで/体重をつくった」のである。この、何を意味しているのか判らない些末とも思える事柄へのこだわりが、大きく捻れている世界を提示している。

   古い写真のなか
   痩せた犬のぶち模様が
   ときをくぐる暗号になって
   この顔にも、でんでんとほくろは置かれた

「毛のもの」の肉体感覚もすさまじい。毛のものとはなにか。けものに通じる人ではない何かがうごめく。

表題作の「皆神山のこと」では、片手落ちという言葉が印象的にあらわれる。何が片手落ちなのか。咎められるのは何が足りなかったのか。そして、誰が片手落ちだと言われているのか。皆神山の地下壕を含む松代大本営建設には多数の強制労働者が駆り出されていたとのこと。そのような歴史的背景も絡め取った作品は複雑に折りたたまれている。

杉本の作品は、どれも読み手に解釈を求めてこない。解釈や理屈を跳びこえた地点で新しい物語が読み手に生まれる。作品をとても自由に解放していて、そのうえで作品が成り立つだけの力を持っていた。
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詩集「瑪瑙屋」 若宮明彦 (2023/04) 土曜美術社出版販売

2023-04-24 11:25:00 | 詩集
第5詩集。94頁に24編を収める。
作者は長く地質学、なかでも石をはじめとする鉱物の研究をされてきている。以前に何かの会合のおりに石に関する講演も聴いたことがある。この詩集はそんな作者がそれこそ”石屋”であることが充分に伝わってくる詩集であった。

冒頭の「石屋」。私(瀬崎)はこれまでよく知らなかったのだが、石の研究をする人はとにかく石を割るようだ。その割れた石の断面を詳細に観察するようだ。

   医者は生者を診て
   ひとすじの希望を探すが
   石屋は死者を砕いて
   ひと欠片の永遠を探す
   とにかく石を割ることだ

そして石のなかに「気のありかを探すのだ」という。そうか、石のなかには時間が閉じ込められていたのかとも思ってしまう。石を割ることによって、その石が担っていたものを解き放すのかとも思ってしまう。石も、石屋に出会わなければただの石であり続けたわけだ。最終連は「石が割れなくなった時/石屋はただの石となる/何億年後には新しい石屋が/ただの石を砕きにやって来る」

Ⅰではこのほかにも「渚屋」「風屋」「碑(いしぶみ)屋」「瑪瑙屋」などで、通常では気付かない視点からの世界が展開されている。

Ⅱの「ハンマー」「クリノメーター」「ルーペ」は地質屋の三種の神器のそれぞれについてユーモアを交えながら詩っている。地質屋は「すれ違いざま素敵な石があれば、懐から岩石ハンマーを取り出して、まっぷたつに割ってみたくなる」のだという。そしてクリノメーターで自分の傾きを測り、ルーペではうつむいた男の横顔が映って見えたりするのだ。

「岩石倶楽部」。部室は(当然のこととして)無機の気配なのだ。いろいろな石が「岩石カッターでまっぷたつにされたり/偏光顕微鏡でしつこく覗かれたりして」いる。最終連は、

   クラブに参加できない石ころは
   道ばたでごろごろしている
   するとどこかの寡黙な少年が
   その石を恥ずかしそうに拾ってゆく

これに続く「化石倶楽部」「鉱物倶楽部」も愉快な作品であった。たとえば、「石の世界では化石は犯罪者だ」と詩う。そして「鉱物は見かけが九割」という。なるほど、そういうものかと妙に納得させられる。
地球規模の進化を視野に入れる作者の視点は、路傍の石が孕んでいる物語に気付かせてくれる。
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ガーネット  99号  (2023/03)  兵庫

2023-04-19 11:16:28 | 「か行」で始まる詩誌
「春凪」萩野なつみ。
おだやかな暖かさの季節に、ゆっくりと心が満たされていくような感触がある。ていねいに選ばれた柔らかい言葉がその感触を支えている。

   だれしもに
   ひとしく来る おわりの
   樹下をゆく風
   花の影
   あなたがさいごに
   飲み干すひかり

この作品の静かさは、何とかして受け入れようとしている別離の予感がもたらしているのだろう。

「うんこちんこまんこ」神尾和寿。
なんとも頬が緩んでしまうタイトルであるが、これは9つの断章からなる作品の②からきている。言葉を覚えてほどない子どもたちが唱えるのだ。6行からなる作品の後半部は、

   うんこちんこまんこと唱えながら
   子どもたちは母さんにお尻を叩かれながら
   目を閉じて
   ああぼくはこれまでに幾度となく生まれてきたんだなあ

汚い言葉を使ったことで折檻を受けるのだが、それは人が新しく誕生することだったのだ。ここでは言葉と肉体が密接に絡み合っている。それをこのように軽妙な情景で現しきっていることに感心する。

「眺望」高階杞一。
副題に「追悼 山田兼士」とある。大学の五階で、作者は昨年亡くなられた山田兼士氏とよくタバコを吸いながら話しをしたとのこと。いろんな話をしたのだろうが、くっきりとよみがえってくるのは「あれがあべのハルカス」と、山田氏が遠くの高層ビルを指さして言った言葉だったのだ。ああ、そういうことって確かにあるよなあ。その言葉は、そのときの情景そのものなのだ。山田氏が存命していたときの時間そのものなのだ。今、作者はひとりでタバコを吸いながら遠くを見るのだ。

   もう二度と会えなくなってしまった彼の
   指さす先に
   小さな 小指ほどもない灰色の影が
   早春の
   光の中に
   かすかに見えた

この作品を読んで私(瀬崎)も山田氏の柔和な笑顔を思い出した。合掌。
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歌詞集「京大からタテ看が消える日」 細見和之 (2023/03) 澪標

2023-04-11 17:44:16 | 詩集
作者は若いころからバンド活動をしていたとのことで、何かの詩の集まりの際にギターを弾きながらの歌唱を聴いたこともある。この歌詞集はそんな作者が10年前から曲をつけた自作詩を集めたもの。77頁に23編が収められている。昨年亡くなられた山田兼士氏に捧げられている。

冒頭の「十三(じゅうそう)駅で乗り換えて」からして、メロディは判らないものの言葉のリズムを感じる。「ここは美しい電車の発着する/つまらない駅」である十三のいささか苦い光景が展開されて、リフレインが効果的にあらわれる。

   十三駅で乗り換えて
   ぼくには会いたいひとがあった
   十三駅で乗り換えて
   ぼくにはいきたい街があった
   十三駅で乗り換えて
   ここで別れたこともあって
   十三

最後の「十三」は歌詞の中で何回もあらわれる(実際には囃子詞のような感じで歌われている)。

基本的には既詩集に発表している作品に曲をつけているようだが、手を加えたものもあるとのこと(巻末の「覚書」に詳しい)。たとえば、妻の言う”ちゃらんぽらん”を幼い娘が真似をして”チャンポラパン”と言い立てるのが愉快な「ちゃらんぽらんな生涯」は詩集「闇風呂」の1編だったが、「かなり圧縮した内容になっている」とのこと。

「京大からタテ看が消える日」。最近ではそれこそ”タテ看”を目にすることは少なくなった。学生運動が華やかだったころは、百万遍の交差点から近衛通りのあたりまで、独特の”タテ看文字”が書かれた大きな木製の看板が並んでいたものだった。京都市の屋外広告物設置条例を盾にして大学はタテ看の規制撤去を謀った。

   そんな日が来るのだろうか?
   そんな日が来るっていうのか?
   そんな日がもう来ているのかもしれない
   そんな日が・・・・・・

「あとがき」ではこれに関連して吉田自治寮の立ち退き問題にも触れている。吉田寮は歴史的に学生の自治が認められてきた場所で、政治活動の拠点になったりもしていた。私事になるが、学生だった頃には吉田寮に同級生がいたことがあって何をするでもなくたむろしたりしていた。そこに映画のエキストラ募集が来たりして(寮には暇な連中が集まっている)、中村錦之助主演の時代劇のロケで彦根の山中で張りぼての鎧兜に身を固めて走り回ったこともあった。

閑話休題。この歌詞集を読めばやはり、どんな曲が付けられているのか聴いてみたいと、誰もが思うだろう。Youtubeで検索すれば、吉田寮でのライブ映像などを観る(聴く)ことができます。
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詩集「神さまのノート」 苗村吉昭 (2022/10) 土曜美術社出版販売

2023-04-08 22:10:25 | 詩集
第7詩集。129頁に32編を収める。

「Ⅰ.左遷ノート」の章には鬱屈した会社勤めの日常が色濃く作品の裏に立ちこめている。電車の好きな席にも座れず、敗戦処理投手のような立場での職場異動。それに対比されるように自由だった若い日のフランス旅行の日々が回顧されたりもする。作品として言葉に表し、あらためて認識することでそれらの日々を自分につなぎ止めているのかもしれない。そして、そんな日々だからこそ目にした小さな光景が意味を持ってくる。

「きみが必要なときには・・・・・・」は通勤電車で医学書を読む青年と隣りあう。話者は二十歳の自分がフランスの医学生に頼まれて「君が必要なときには、いつでもぼくを呼んでくれ」と日本語で書いたことを思い出している。フランス人の彼は、おそらく日本語を勉強していた彼女に渡したのだろう。そして、

   彼は今日 私の隣の青年の姿となって
   時空を越えて一枚の紙切れを渡してくれたのである
   そう
   君が必要なときには
   いつでも過去の君を呼んでくれ と。

理屈など振り払って伝わってくるものがある。

「Ⅱ.記号ノート」には記号をタイトルにした機知に富んだ10編が並んでいる。「□」では、むすめががっこうからメダカをもちかえってくる。ちいさな四角形のすいそうのはしにあつまっていたメダカをおおきなすいそうにうつしてやる。ちいさなメダカはおおきくひろがったせかいをおよいいでいる。最終部分は、

   けれど
   やがて大きな四角形のすいそうのかべのそんざいをしるだろう
   たのしそうにメダカにえさをやるむすめも
   このせかいがいくつもの四角形でできていることをしるだろう。

Ⅰ.の作品の話者が感じていた世界のどうしようもない不自由さがここにもあらわれている。

詩集最後に置かれている「ふろしきの中身」は、まだちいさかったむすめと電車で出かけた日のことを詩っている。それは「わたしのしあわせな日」だったのだ。あまりにしあわせそうで、なにかの予感も感じさせてしまう作品だった。
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