瀬崎祐の本棚

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詩集「嘘の天ぷら」 佐々木貴子 (2018/09) 土曜美術社出版販売

2018-09-29 22:08:06 | 詩集
 第1詩集。93頁に散文詩22編と、最初と最後に行分け詩2編。表紙、カバーの装画は、かっては寺山修司の劇団天井桟敷のポスターを描いていたこともある宇野亞喜良である。

 秋亜綺羅の詩誌「ココア共和国」で組まれた小特集で佐々木の作品を初めて読んだ時は、あまりの面白さに驚いた。その際の感想に、私は「作品世界のどこかあっけらかんと突きぬけたような、それでいて世間から顔を背けたような屈折した心持ちに魅せられた」「佐々木の作品には愛おしくなるような切なさがある。それは自分を取り囲んでいる世界と対峙している必死さから来るものだろうと思う。」と書いた。 今回の詩集はそれらの作品世界をさらに広げている。

「氷点下」では、仮面を忘れたわたしは教室に入れないでいる。教室は厚い氷で閉ざされていて、わたしは冷えきっているようだ。

   そろそろ目覚まし時計が鳴るのでしょうか。わたしの学校、わたし
   の教室、わたしの机。今日も行きたいのです。ああ、外は雪が降っ
   ていました。あの日も今も。真っ赤な雪が降っているのです。

 作品の話者は中学生ぐらいだろうか。上手く生きのびていくための“嘘”を未だ身に着けていない、つまり、他者や社会の仕組みに対して心が未だ頑なな武装をする前の年代である。そのために武装してしまった心にとっては当たり前のことが、脆く無防備な話者をたいへんに傷つけはじめるのだ。

 「漂白」のわたしは色黒なのだが、みんなと一緒になるために何回も漂白される。そして「学校の人」のわたしは「透きとおってい」る。だから次第に人には見えない存在になっていく。わたしは他の皆と一緒の存在になるために必死なのだ。

 「臭覚」では「僕らは毎日、登校前に家族を捨てる。」家族は臭うからだ。それでも僕は臭ってしまい、棺桶に入れられる。棺桶の中には家族臭が充満していて、

   学校に漂う家族臭。鞄も制服もノートも臭い。僕は感じた。冬の空
   気が更に臭いを際立てている。いくら洗っても落ちなかった。僕の
   両手に滲みた家族。血の臭い。

 ここまでくればもうホラーであるが、無意識のうちによりかかってしまっている家族という関係に別の視点を与えている。
始めの方にある「影」は傑作であるが、佐々木の作品の基調ともなるものであり、後ろの方に置かれた「影のお陰」はそれと裏表のような関係の作品となっている。

 先に、この詩集の話者は”嘘”を身に着ける前である、と書いた。しかし、そんな話者を登場させて作品を語らせているのが作者である。作者は、そんな話者は”嘘”であることを利用して作品世界を広げている。
 だからこの詩集はとてつもなく面白いのだ。
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詩集「あらゆる日も夜も」 川井麻希 (2018/09) 土曜美術社出版販売

2018-09-25 21:37:47 | 詩集
 第1詩集か。94頁に24編を収める。
「収斂」。どういう状況なのかは不明なのだが、「生きているその事実を吸いこんで不思議を吐きだ」しているのである。帰宅してきた小さな人は傷を負って血だらけで、読み手には夜がとても重いような感じられる。

   あらゆるものが体を閉じていく。眠ってしまうのだろう。
   空気が桃色に染まる。みんな同じひとつの色に染まって
   しまえばいい。私はひとり真っ黒なワンピースを着てい
   てそれがいけなかったのだと悔いるしかなかった。

 収斂していくのは何なのか。血の色も紛らわしてしまう黒色が、夜の暗さと呼応しているようだ。
 誰にとってもそうなのだろうが、これらの詩編は自分のために書かれているのだろう。他者への説明などはしないままに、自分の外へ表出することによって自分の内部とのバランスを保っているのだろう。

 「青灰色の瞳」。静かな声で「赦そうとそのひとは言った」のである。赦されるのは誰なのか、なにが赦されようとしているのか。そして赦されるまでの間になにがあったのか。ここでもそれらの具体的な説明はないままに、時の流れのなかで畏れで揺れている人がいるようなのだ。

   私たちは同じで違うから手を延べれば
   触れる
   今日だからつなぐことができる手を
   どの日にもはなさないで
   歩いていく

   赦そうとそのひとが言ったのだから

 もしかすればとても宗教的な意識があるのかもしれないが、それとは無縁の地点で読んだ。赦されて、私は、私たちは何かから救われたのだろうか。
 これらの作品があまりにも無垢のかたちで表出されているために、思わず作者を気遣ってしまいそうにもなる。そのように思わせる作品の善し悪しは、また別のところにあるのだが。
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詩集「海を飼う」 高島りみこ (2018/07) 待望社

2018-09-21 18:54:56 | 詩集
 第一詩集。103頁に25編を収める。

 季節が音もなくうつろって、生活がしずかに積み重なっていく。そんな中でひとつひとつがていねいに書かれたという印象を与える作品が並ぶ。たとえば「春 過ぎて」では、「いくぶんか やわらかさを含んだ影のあたりに/昨日が残され」、遠くの高層ビルのきわでピンク色を帯びたそらのあたりに「まだ誰も知らない明日がいたりする」のだ。

 「海を飼う」では、ふと見たくなって出かけたら、

   あのときからだ
   わたしの耳に海が棲みついたのは

   しんと寝静まった夜になると 海はひたひた
   と耳の奥から這い出してきて 水底深く漂っ
   ているかなしみのかけらを 枕元に置いてい
   った

 それはあの東北の海であり、わたしに何ごとかを迫るように海がとりついているのだ。やがて秋になり、海のかけらを集めて作った植物を水に放つと、「耳の奥の海は/すっかり鎮ま」るのだ。話者のなかでどのような変化が生じたのか、それは語られないままに物語がうつろっていく。

 「月の王国」は、迷い犬にさそわれて森の奥へと踏み込んでいくと、老いた月が横たわり、

   おお!
   泉のなかでは 産まれたばかりの月が洗
   われているのだった

 なんという光景であろうか。誰もが無意識には、光が始まる場所がたしかにあるだろうと感じているに違いない。しかし、そこにたどり着けることのできる人は少ない。光を大切にしていないと駄目なのだろうな。
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詩集「あるくことば」 松岡政則 (2018/09) 書肆侃侃房

2018-09-18 17:22:14 | 詩集
 第7詩集か。101頁に見開き2頁におさまる長さの24編を収める。

あるくことは意志のあらわれである。「これからのみどり」では、「あるくというさみしい病い」と言うのだが、「あるいておりさえすれば/五月のまことがふれにくる」のだ。あるくということは、生身の身体が土地を移動することである。新しい場所へ我が身を移す意志がそこにはある。

   聲だけで、
   なにがなしに、
   ちかしいひとだとわかることがある
   これからのみどり
   ことばをもたないものらの輝き
   外聞はもういい
   身ごしらえこそが清しい

松岡の作品は確固としたものとして書かれている。そこには戸惑いや疑いも当然あるのだが、それらも確たるものとして記述される。たとえば、「にしてもだ。」の次のような一節だ。「聲でしかわかりあえないことがある。」「わたしは絶望が足りないのか/それとも不埒が足りないのか」。作者のことばとの真剣勝負のように張りつめた向き合い方には、ただただ感嘆する。

「ソラのひとら」には”ことば”が詩われている印象的な部分がある。

   とおくで慈愛の雨が生まれている
   じきこっちへやってくる
   地の勢にやられたい
   ここで雨をあつめたい
   ことばよりも先に
   蠢いているもの
   ことばでしか触れないもの
   そうやってなにもしないをするのです

 「あまいヤギの乳をのませてくれた/あのひとら」は「ソラをあきらめた」のだ。廃村を思わせる場所で話者は悔恨にかられているようなのだ。”ことば”を発する以前のものに思いを託そうとしながらも、それは”ことば”を用いなくては書きとめられない。「なにもしない」と書きとめなければ、”なにもしないという行為”を存在させることはできないのだ。

 このようにこの詩集では、ことばによって作者はあるいている。詩集タイトルの「あるくことば」は、”ことばであるく”とも読める。ことばによって身体は色々な地を初めて歩くことができるのだ。どこへ向かっているのかは判らないままに、とにかく今は作者は(作者の身体は)ことばであるいているのだ。
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交野が原 85号 (2018/09) 大阪

2018-09-16 20:34:36 | 「か行」で始まる詩誌
金堀則夫発行の充実した個人誌。104頁。

詩作品は31編で、中本道代「平頂山」の、確かな言葉によって示された塑像のような世界、高階杞一「失う」の、軽妙な言葉で色づけられた機微、野木京子「海には道もなく」の、もう一度自己を尋ね歩いているような言葉の彷徨い、などを楽しんだ。

なかでも北原千代「白いアスパラガス」は、あの”先生”が登場する作品。隠微で、艶めかしい雰囲気が絡みついてくる。先生が買ってきたアスパラガスを湯がき、付け合わせのスクランブルエッグを作る。

   茹であがったアスパラは わずかに頭を垂れ
   て皿に横たわり 柔らかいスクランブルエッ
   グから卵液が滲む 先生の唇がアスパラのか
   つての白さを犯し わたしは痛みを感じた

岩佐なを「蒟蒻」、藤田晴央「視線」、一色真理「使者」は、いずれも”父”を詩っている。「しぐれに降られ濡れる前に/運よく死ん」で「バスに乗って行ってしまった」父の哀切(「蒟蒻」)、視線をカメラに向けることなく撮られた女性の写真を残した亡父(「視線」)、そして、ここは使者の住む町であり、話者を「生まれながらの使者」だと言い聞かせ続けた父(「使者」)。それぞれの“父”の有り様がそれぞれの作者の今を支えているのだろう。

八木忠栄「石ころと草ぐさ」では、猫は行方不明になり、てんまり虫はどこまでもころがる。鐘は鳴り、草ははえる。世界のあらゆるものがが騒々しく動き回っているようだ。

   かすみを裂き石ころを蹴とばし
   列なすダンプカーがわめきたてて
   野を突っ走るよ
   干ものになって。

書評は12編で、取り上げられた詩集、評論集の9冊は私も読んでいたが、気づかなかった点をとらえているものも多く、興味深く読んだ。
斎藤恵子は「自己をひとつの世界として読む」と題して秋山基夫「文学史の人々」を評している。ここでいう”自己”とは、秋山が取り上げた子規、鴎外、一葉などの自己世界のこと。齋藤は、それを「まるごと受けいれ自己のものとして読むことが、読むということなのだ」としている。 

瀬崎は詩「唇」「舌」の2編を載せてもらっている。
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