瀬崎祐の本棚

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詩集「蟻の日」  野田順子  (2015/09)  土曜美術社出版販売

2015-09-30 19:23:59 | 詩集
 第3詩集。93頁に21編を収める。
 どの作品からも作者が抱えている疎外感を感じる。それは親からの疎外感であり、夫や子どもからのそれである。自分は誰ともつながっていないと感じているようなのだが、あるいは自らがつながろうとしない意志を持ってしまったのかもしれない。
 たとえば「ひとり娘」では少女は母に疎外されている。少女はすでに母に愛される術を失っているようで、自分でも世界を閉じているようなのだ。痛みが辛い。
 同じように母に対しての鬱屈した感情が痛々しいのは「代理母」。「母が老いてきたので 母の代わりが欲しいのだ」という。その代理母に、わたしは母にしてやれなかったことをしてやりたいという。いったい、何を? それは、とてつもなく残酷で怖ろしいことのようにも思えてくる。

   実母の頭が元気なうちに
   できるだけ頑丈な代理母を見つけたい
   長年の思いを込めて わたしが母に何をしてやれるかは
   これからじっくり考えよう
   あまり刃物を使いたくないので
   わたしは身体を鍛えておこう

 「交差点」では、今度は母親としての私の存在理由が問い直されている。いや、試されている。わたしが男に車で連れられてきたのは、自分の家だった。男は、家にいた男の子と一緒に出て行ってしまう。

   わたしは自分のベッドに横たわり
   途方もないさみしさと
   変化のない生活に戻る安堵の気持ちの大きさをくらべながら
   いつもより妙に明るく見える天井を見つめていた

 自分の家族も他人となってわたしの前に現れるようなのだ。男や男の子は、わたしを冷たい母親だと見ているのだろうが、わたしには未練もない人たちなのだろう。それでも、今までは何かの形であの人たちに縛られていたのだろう。
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詩集「注釈」  谷内修三  (2015/09)  象形文字編集室

2015-09-25 15:02:26 | 詩集
 B5版、簡易装幀の48頁に20編を収める。
 以前の詩集の感想の際にも書いたのだが、作者は、ことばを、実体や現実の事象とまったくかかわらない次元で使っている。だから、作品はどこまでも軽い。

 「橋を眺めた」ということばがあった。「両腕」ということばは、風にちぎれていた。
 「さまたげるものは何もない」というのは「美しい」ことか、「残酷」なことか、あるいは「さ
 びしい」ことか。      (「橋」より)

 これらの”ことば”は、実体としての書く者にも読む者にもまったく痛みを感じさせることはないのだろう。その次元でのことばを作者は求めているのだろう。
 この詩集には「破棄された詩のための注釈」、あるいは「書かれなかった詩のための注釈」と題された10編の作品が収められている。それらは、ある作品に使われたことばについて作者が自己注釈をしている、という体裁をとっている。もちろん”破棄された詩”や”書かれなかった詩”が実際に存在したのか否かはどちらでもよいことである(いずれにしても、今は存在しないわけだ)。ここで試みられたのは、作者が近づこうとしたことばへの距離を確認することであったのだろうか。

 「咳」ということばが、部屋の反対の隅で動いた。振り向かずに、肉眼ではない眼で見て
 いるひとの、のどのやわらかさを感じさせる「咳」だ。そのように描写しようとして、何
 度も書き直した様子がノートに残っている。 (「破棄された詩のための注釈(34)」より)

 この”注釈”をするという意識行為を作品として成立させようとしたわけだが、自己注釈をすることばが、はたしてどれだけの力を持つものだろうかと訝しくも思ってしまった。
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詩集「ひかりの方へ」  中村明美  (2015/09)  版木舎

2015-09-22 22:59:18 | 詩集
 第3詩集。93頁に18編を収める。
 「釣り人が帰って」。釣り人が鰺を流し台に置いたまま眠ったので、「私らは/暮れ果てた地上から/泡立つ海へと/深く滑り落ちた」のである。起きているときの、言い換えれば、この世界で生きているときの私らは、内に孕んでいるものを隠しているのだろう。

   だから私らは
   闇の中で微かに光る
   背中の銀色の鱗を
   隠しもしないで
   深く
   その夜を眠ったのだ

 人には見られない場所で、私らははじめて別の世界へもぐりこんでいくのだろう。
 中村の作品の魅力は、地につくところを持たずに漂うような位置に世界が形成されているところにある。その世界は漂いながらも、この世界に匹敵する重さを有しているはずなのだ。
 「ねむる」は、「ねむるねむる るる」といったように、「るる」という音が繰り返しあらわれて、背を丸めて別の世界に入っていくイメージが巧みに作り出されている。「薄墨の底を行」くと、「鶏につかまった」り、「生臭い生き物の影が横切ったり」するのである。

   遠くに錆びたらせん階段。木戸病院は既
   に砂まみれで 日も暮れたし もうねむ
   るしかない るるる と沈み続ける。た
   ぶん そこでまたうまれるはずだ。

   ゆるしてね。もうみんな死んでしまって。

 ここでは、起きている世界と眠りの世界が生と死に結びついているようで、そのあわいを漂っている意識の独白が魅力的である。
 詩集の後半の作品には現実の世界の匂いがどこかに染みているようなものもあり、その点は私(瀬崎)にはちょっと残念であった。
 「家を曳く」の感想は、詩誌発表時に「現代詩手帖」詩誌評に書いた。
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Zero  2号  (2015/09)  東京

2015-09-19 21:47:02 | ローマ字で始まる詩誌
 「神経」長嶋南子。
 神経は抜かれると絶命するし、その神経に触れるとどこかが痛み出す。だからわたしは殻に閉じこもっている。すると、「男は遊びにこなくな」るし「出かけるところも仕事もない」のだ。わたしは「殻から舌をだし/神経のない歯をなめている」。この何とかして自分を守ろうとしている様が、異様な小気味よさで繰りひろげられる。最終連は、

   息子はナイフで牡蠣の殻をこじあけ
   レモンをふって食べている
   バカ それはわたしの舌だよ

 とにかく毒気のあるユーモアが小気味よいのだ。

 「ポケットに手をつっこんで」井川博年は、寄稿作品。
 ポケットをまさぐり、戦後間もない頃の美空ひばりの唄を思い出している。この作品にもユーモアがあるのだが、こちらは毒気はなく、ほのかな哀しみ、かすかな痛みがある。

   ほかほかのパンなんて
   あの頃は匂いすら嗅いだこともなかった。
   薄いコッペパンに脱脂粉乳の給食
   なにしろ進駐軍の時代だったからな
   と思い出し笑いになって

 「入道雲」北川朱実。
 今の自分の意識が、思い出の中にあったものをつないでいく。断片的に思い出の中にあるものを、ときに時間や場所を跳びこえていく。学生時代の下宿屋や、古書店主、駅前の居酒屋。跳びこえたものの分だけ世界もどんどん広がっていく。そこにあるのは「地上から消えたものばかりの/中空の街」なのだ。しかし、消えたはずのものが自分の中に残っていたことを、今日は再び組み立てているのだ。なぜなら、その頃に共に在った人がいなくなっていくから。

   焼かれて
   陽炎になった母が

   火葬場の木々を揺さぶって
   昇ってくる

   鼻につく微かな匂いも 
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詩集「七番目の鉱石」  颯木あやこ  (2015/08)  思潮社

2015-09-15 21:11:05 | 詩集
 第3詩集。93頁に29編を収める。野村貴和夫、伊武トーマの栞が付く。
 いつも書かれた言葉はそのものを見ようとしているのに、どうしても違う方向を見ているようだ。それは、見えないものを必死に手触りで確かめているような妖しさを伴っている。
 「音の梯子」では、「道を駆けてくる狼」が詩われている。それは見つめている私を浸食してくるようなのだ。何かに憑依されたような私は、「点滴瓶に満ちる銀河」を見、床に転がる水銀を見る。鋭敏になった感覚が、通常では感じ取れないものを感じとっているようだ。

   狼にやさしい物語を語りかけ
   ゆるく開いた喉から
   残像を取り戻したい
   シーツ一枚のうすい白さは
   月の光も本心も 一瞬で

 やがて狼は消えていくのだ。狼は消えていった音階に乗っていたのだろうか。理屈ではない感覚の訪れが捉えられている。
 「息もできない朝に」では蒼空がなだれこんでくる。すると「わたしの魂の下半分は 舟」になって漂い出すのだ。ここにあるのは、詩われている状況とは裏腹に渇望があるようにも思える。生きていることをどこかへ向かって解き放したいという渇望である。

   海との永い同棲から逃れて
   乾いた女の骸に
   かえって安らぐのだ
   息のできない朝は
   海や空の
   強引なふるまいに
   ゆだねてしまいそうで

 それにしても、詩集の中で必死にまさぐっている指先が探り当てるものは、とても美しい。
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