瀬崎祐の本棚

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詩集「海神のいます処」  根本明  (2014/05)  思潮社

2014-06-02 00:18:27 | 詩集
 第8詩集。100頁に25編を収める。表紙画、挿画には岩佐なをの繊細な銅版画が使われている。
 作者は東京湾の千葉県側に幼少時から居住されているようだ。作品はその地に根を下ろした視点で語られる。
 「潮干のつと」では、話者は千葉の美術館で同題の喜多川歌麿の絵を見ている。”潮干のつと”とは潮干狩りのお土産物とでもいう意味になるのだろう。そこには貝や昆布などの「潮濡れた可憐な生き物たち」が描かれているのだが、「潮干のつととは/海神に下賜された恩寵の謂い」であり、「あまねく潮干のつとでないものはなかった」のである。話者は、今は失われたそれらのなかにある”わざ歌”を聞き、”海神”の影を見ようとしているようだ。
 勝手に、埋め立てられて工場群が立ち並ぶようになった湾岸風景を想起しながら作品を読んだのだが、作品の舞台となっている干潟、澪は海と陸の狭間であり、あわいでもある。それはそのまま神と人とのあわいでもあるのだろう。
 「幕張」は作者には特別の地である。「妹が七つと五つの子を遺して逝った土地」なのだ。そして、下の子が成人するまでの年月が経ち、「妹がようやく失われた浜に裸足を濡らすのが見える」のだ。美しい鎮魂の作品である。

   背の海崖でいくつもの青い烏瓜の実が揺れている
   植物が花をつけるには理由がある
   どの生にも歓びがあったように

 「チバ・シティ」では、製鉄所跡にサッカー場が建てられたことを詩っている。「もっとも古い埋立地で/物が肉より先に滅んでいく」のだが、溶けた鉄のまぼろしに、

   私とはだれか
   うつつとまぼろしの狭間で
   肉としてぶれるもの
   私を襲う言葉はわざ歌であるのか、ほめ歌であるのか

 どの作品にも作者が過ごしてきた時間と場所がくっきりと刻み込まれており、それをとおして自分の立ち位置を改めて見つめ直しているようだ。
コメント
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