瀬崎祐の本棚

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詩集「雪塚」 斎藤美恵子 (2022/10) 思潮社

2022-11-30 17:49:43 | 詩集
99頁に25編を収める。

言葉は何も説明をせずに、ただ切羽詰まった状況だけを提示する。それは麻酔で痛覚を失った半身であったり(「白点」)、叔父の遺した風景の残骸であったりする(「風化堆積土」)。その突きつけられた状況に置かれた読者は、緊張感とともに物語を味わうこととなる。それは、このままここにいてもいいのだろうか?といった問いかけを突きつけてくる感じがするのだ。

「白い淵」では、金盥の中の血をあなたに戻そうとして戸惑っている。農作業があるような地で、肉体は張り詰めていて、暗い情念も澱んでいる。あなたを護ってあげたいと、必死なのだ。何から護るのかもわからないままに、必死なのだ。3連からなるこの作品の最終連は、

   遠退くばかりの、狩り場で草を、この手が
   ひとつかみ欲望し
   覆せない金盥のそばで、名前も呼ばずに
   交わし合って、ひらいた心を、縫い合わせても
   灰、以外の帰結はなく、霧さえ
   届かない、昏みの底で、あなたと
   炎が、ぴったりと重なる

「跨線橋」。そこに居ることによって「確かな/存在に変えて」しまわれる部屋があるのだが、しかし、そこには誰も居てはいけないような寂しさもある。

   明かりの代わりに配分される、太陽を待つ室内の
   銀色のカトラリーと、その延長にしか見えない小指。
   形態、ではなく、残光として
   横たわっている人影の、生命時間に、寄り添いながら
   橋の面影、それだけを見ていた。

跨線橋は君が居た部屋から見えていたのだろうか。それはどこへ続く線路(レール)を跨いでいたのだろうか。

どの作品ででも、外部世界では侵略や内乱などを想起させる争いごとが渦巻いており、話者は立ち位置を守ろうとしているようだ。戦いなのだ。詩集全体をそれ故の硬い言葉が覆っていた。
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詩集「ラベンダー狩り」 大西久代 (2022/10) 七月堂

2022-11-25 22:40:56 | 詩集
105頁に28編を収める。

「燃えあがる」は、のうぜんかずらになってしまった話者のモノローグ。話者は鮮やかな朱色で次々に咲き続け、我が身を燃えあがらせている。落下していく分身の花も、「燃やしたものをとり込んで/再生を予感する」のだ。

   のうぜんかずらとなった私の転変
   針を含んだ口先さえ愛(いと)おしい

誰にでも大なり小なりの変身願望はあるだろう。何ものかに絡まりつきどこまでも空の高みに向かおうとする意志がこの変身にはあるようだ。鋭く尖った針も、我が身を守るというよりも、他者を攻撃することも厭わないという心根であるのだろう。

「ふね」は、浜に置き去りにされひっくり返っている、おそらくは朽ちようとしている古い木造船を詩っている。かつては女や男の物語もこのふねでくり広げられたのだろう。

   砂にめりこんだおもては
   とおい記憶を腐敗させてしまった
   幻の夏のさびしさを
   知るものだけがふねを痛める

どこかで我が身と重ね合わせた風景を見ていると読み取るのは、穿ちすぎか。

「ラベンダー狩り」では「一気に殺れ!」という「夜の声に促され」て話者は紫花を刈り取る。何があったのか、刈り取らなければならなかった説明はないのだが、そこにはやむに已まれないものがあったのだろう。根は鉢の中で細り、花は衰えていたのだ。

   その夜
   ないラベンダーの葉がひっそり
   震え続けた
   あの世の果てで
   くずれおちる微かな おと

詩集に収められたどの作品でも閉塞した状況が感じられる。そんな中で一生懸命に言葉を紡ぐことで耐えているような雰囲気があった。

詩集の最後近くには95歳で亡くなられたお母様を詩った作品4編も収められていた。ご冥福をお祈りします。
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詩集「出会う日」 唐作桂子 (2022/10) 左右社

2022-11-18 20:08:19 | 詩集
第3詩集か。84頁に19編を収める。

日常のどこにでもあるような光景が言葉で捉えられて、ここだけの作品世界に変容している。たとえば、「朝の手順」は再開発が進んでいる駅前の喫茶店の、何気ない朝の光景である。店主はモーニング・サービスのトーストを焼き、バタを塗っている。

   窓ぎわの席に角砂糖がつみあがり
   地響きによってほんのわずかずつ
   ずれていく
   ふるい朝刊のむこう側

   別珍張りの椅子の
   擦り切れたところをなでている
   ほかに行く場所がない常連客の
   杖がすべりやすい

こうして言葉で選び取られて記録されることによって、その光景は、時間のなかに消え去ることなく、いつまでも留められるものになった。言葉の持つ力は素晴らしいと思わされる。

「青猫はうなる」は、意味を求めようとすると呆気にとられる作品である。最終バスは行ってしまったのか、それともまだなのか。そんな焦燥感があって、うなる青猫は剥製なのである。

   墓地のあいだにわたしたちは
   かろうじて住んでいる
   気流がかわると
   空白が散乱しはじめ、

「来るもの」は、2行ずつの5連が3組集まった作品。午すぎなのに空がくらくなり、何かがおとたてて来るのだ。個人の連絡手段は途切れ途切れで、代わりに何かが来るのだ。世界の規律も崩れはじめていくようなのだ。

   手紙は書かれるだろう
   むしろ大半はあてどなく

   あすのおおよその南中時刻
   確率的に空はあかるい

1連が2行で終わるために、文字並びの見た目はとても軽い。表出されるものも短く途切れているために、跳んでいくような趣もある。しかし、そこに孕まれているものは存外に重く、現実の社会不安を背後に抱えながら、オカルトのような非現実感もともなっている。あすの正午近く、やって来るものは話者を明るくしてくれるようなものだろうか。

詩集表紙カバーの、水族館で魚の群れを見ている男の子の後ろ姿のシルエットが好いなあ。
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詩誌「詩素」 13号 (2022/11) 神奈川

2022-11-15 22:33:37 | 「さ行」で始まる詩誌
今年7月に亡くなられた小柳玲子氏を追悼して、吉田義昭、坂多瑩子、野田新五の3氏が文章を寄せている。どれも、現実と非現実の境界を自在に往来し、時間軸をひとつの風景として捉えて作品を書かれた小柳氏の作品、人柄がよく伝わってくるものだった。
私(瀬崎)は小柳氏からきれいな手作り封筒での手紙をいただいたりもしていたのだが(この貴重な封筒については坂多氏の文章が触れている)、実際にお会いしたのは2度である。夢人館シリーズの画集で欲しいのがあったらあげるわよとの言葉にあまえて、精密な水彩画を描いたリチャード・ダッドの画集をいただいたのだった。また、亡くなられた友人の蔵書から希少な詩集を分けてもらったこともあった。
小柳氏の作品には、柔らかく包みこまれるようでいて、それなのに背中の方が薄ら寒くなってくるような、不思議な感触があった。詩誌「きょうは詩人」に連載されていた愛憎入り混じった友人詩人についての連載エッセイには、そうか、エッセイというのはこういう風に書くものかと感じ入ったものだった。合掌。

「暗渠通信」海埜今日子。
幾度となく会っているのに連絡する手段を知らない彼。暗渠となった川の両岸にわたしたちは暮らしていたようなのだ。そして、わたしが育ってきた風景にはいつも川が流れていたのだ。川が隔てていたものは何だったのか。暗渠によって「ふさがれた、さけび」があり、最終部分、

   この日、彼を見つけたのは小さな一軒家の二階。窓辺から、わかれのように手を振ってい
   る。つかのまだったか、永遠だったか。今住んでいる家の近くには、小さな川があるの。
   遊びに来てね、またね。

最後の「遊びに来てね、またね。」の言葉は、もう決して実現されないことを知っているかのようで、切ない。

「詩集をよむ」のコーナーで、小島きみ子氏が拙詩集「水分れ、そして水隠れ」について四章立て、2頁半にわたって評を書いてくれている。詩集のあちらこちらに出没する”小さい人”や”眼球”が担っているものを的確に捉え、<光を失うところへ出かけた女将>から<庭をおおう大いなる翅>へとつづく大円団を分析してくれていた。感謝。
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猫まち 山崎るり子 (2022/09) ふらんす堂

2022-11-11 18:10:43 | 詩集
折り紙のような矩形の判型の388頁。カバーにはさかたきよこの猫のイラストが使われている。ブログに1年間毎日書いたという1行から8行程度の猫の作品366編が、日付とともに収められている。

     晴天
   猫が寝ている
   おばあさんが寝ている
   洗濯物が乾いていく
   どちらかがこのまま
   永遠に寝たままでも
   洗濯物が乾いていく

毎日が、猫。いつも、どこかに、猫。犬や猫にはほとんど関心がない私(瀬崎)には想像しがたいのだが、猫とともにある日常はそんなことになるのだろう。猫がいることによって風景が完成し、猫と交流することで思いも湧いてくる。猫の存在によってはじめて世界が存在しているかのような気持ちにもなるのだろう。

中には連作の形を取っているものもある。「ヨモタさんちの猫」は12日間にわたって書かれている。それは猫を捜して、待っているヨモタさんのお母さんの話である。月夜の晩にヨモタさんが帰ってこないお母さんを捜しに行くと、公園では猫が踊っていたのだ。

   その中の一匹 まるくなってしまった背中は
   猫に見えるけれどお母さんだ
   「そろそろ帰りましょう」ヨモタさんが手を引くと
   「あんたは冷たい手をしているねぇ」お母さんが笑う
              (「ヨモタさんちの猫 8」より)

毎日書かれた作品がそれぞれ一頁に印刷されているので、分厚い詩集は日めくりカレンダーのような趣もたたえている。

     外
   くびわもいらない
   なまえもいらない
   もうだれのものでもない
   あしのうらがざくざくする
   風、ああ
   においにおいにおいにおい

このような作品が作品として成立するためには、(私のように)猫に興味のない人にとっても作品として読まれる何かを孕んでいるか、ということになるのだろう。そうでなければ、作品は単に猫好きの人の独りよがり、自己満足、になってしまう。猫好きという立場を離れた地点でも立っていられるかどうか、それが問われるだろう。そういった意味では、本書に収められた作品はきちんと作品になっていた。
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