瀬崎祐の本棚

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詩集「海の血族」  ささきひろし  (2009/11)  土曜美術社出版販売

2010-01-31 20:07:03 | 詩集
第3詩集。113頁に、27編が収められている。
 どの作品にも、北海道の厳しい自然の中で生活してきた一族の一員であるという自負が込められている。兄弟をはじめとした一族の者は漁師が多いようで、北の海での漁の様子が「技巧を弄さぬこの天真な言挙げ振り」(新川和江/帯文より)によって描かれていて、迫力が伝わってくる。
 家族のことも、また詩われる。「ネクタイ」は、形見わけにもらってきた父のネクタイをしめる作品である。ネクタイには父の匂いが染み込んでおり、そんな父の「存在の大きさは/失ってはじめて気づいた」のだ。しかし、父に対する思いは複雑だ。

   年齢と共に顔と性格が
   父に似てきたと妻はいう
   濃い血のなせるわざか
   少年の頃
   母に暴力をふるった父を許せず
   鏡の中の父の首をしめる
   もう一人の父に似た自分がいる
                                  (最終連)

 世間の営みの仕組みを未だ知らない純粋な少年の目で見ていた父の姿と、長じて父の年齢に近づいておもう父の姿には、自ずから変化が出ている。血脈のせいで姿形はどうしようもなく父に似てきた自分を鏡のなかに見て、それだからこそかっての父の有り様は容認が出来ず、かといって否定もできずにいる。素直にその断ちがたい思いが伝わってくる作品である。
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白亜紀  132号  (2009/11)  茨城

2010-01-30 23:41:13 | 「は行」で始まる詩誌
 星野徹追悼号となっていて、氏の作品集、追悼文、星野徹論が掲載されている。一色真理の追悼文「『孤独』について質問があります」は、星野氏への手紙という体裁をとって、氏の作品の根底に流れる”寂しさ”を軸とした確かな詩人論となっていた。

 「ユビキタス畑で」網谷厚子。
 インターネットのさまざまなコンテンツがひろがるディスプレイを畑と見なしている作品。その畑には、世界のあらゆる場所で採れるものが映し出されるのだ。仮想世界が現実世界と同じぐらいの意味を持つかのようにも思えてくるほどだ。しかし、日蝕が起きるとき、自然はそんな電子の畑ものみこんで動いていく。そのときには、実際の世界のすべてが自然を見ている。

    (略)  太陽と月 地球 わたしたちが
   まっすぐに 見つめ合う瞬間 ナノチューブ
   よりも 細く強靱な電波を 全身から無数に
   発信する子どもたち ユビキタス畑で わた
   したちは 新鮮な回路とプログラムを増殖さ
   せながら 子どもたちを大きく育てていく
                                   (最終部分)

 インターネット社会を肯定的に捉えているのだが、そこには最終的なところでの人間を信じる気持ちがあるからだろう。散文詩形で書かれており、ぴったりと言葉が並べられた印字の様子も四角いディスプレイを思わせて効果的であった。
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詩集「セボネキコウ」  海埜今日子  (2010/01)  砂子屋書房

2010-01-28 22:19:35 | 詩集
 第4詩集。137頁に28編を収める。
 海埜の作品は”わからない”。言葉は通常の意味をまったく担っていないからだ。それに、ひらがな表記が多いものだから、必死に読まないといけない。いわば言葉との接地面積を広く取る必要がある。なので、さらに”わからない”感が増幅される。
 たとえば冒頭の「すずほね通り」。「わたしはだんだんうすいのです。」と言われても、わたしの何が、どこが、何故うすいのか、さっぱりわからない。わからないのだけれども妙に心地よい。わからないところに連れて行かれているという快感がある。「にたそぶりをさわってゆく、あるいは性愛をまぶしていたのかもしれない。」主語と述語は、やはり通常の意味では連携していない。捻れているのである。その捻れの分だけ、読み手の視界は傾く。眩暈である。以前にも書いたことだが、そこにひらがな表記によってもたらされる同音異義語の罠がときにおおいかぶさってくる。いくつかの意味が重なり合って揺れているのだ。その意味の不確かさに、また眩暈を覚えるのである。読み手はすっかり酩酊状態である。良いなあ。

   ぬるいちてん、ふみいれたなら、ほぐれてゆく、というかんぜんち
   ょうあくは、もはやつうかしがたいものだった。まだらになったこ
   かげです、かんどうとらくたんのふきだまるよつつじです、ありが
   とう。ほしのしせんがくうきをふるわせ、それぞれのものがたりを
   こぼしている、ひるのふるまいがよどおしゆるむことのないように、
   さんばんめにこえをかけたら、きっとわたしをふみだすことになる、
   そうしるされていたものもあるのだろう。        (「南、十字へ」より)

 この詩集では人体の”紀行”を意図しているのだろう。作品名も「門街」「砂街」「紙宿」「金魚町」など、ある場所を指し示すものが多い。特定されたこれらの場所は人の身体に潜んでいて、自分でも気づかないできごとがそこでは繰り広げられているのだろう。
 「紙宿」「雁信」「卵売りの恋 コノハナサクヤ」「せぼねきこう」については詩誌発表時に感想を書いている。
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詩集「対話のじかん」  川越文子  (2009/11)  思潮社

2010-01-26 19:23:22 | 詩集
 第5詩集。95頁に28編を収める。

   不器用なコスモス
   おのれの立ち姿ばかりを気にして
   いつも一本だけ立っている
   ――これがわたしなの
   とでもいうように                (「コスモス」より最終部分)

 コスモスや百合、エゴノキ、アブラチャン、さくらなど、自然の植物の素直な様をやさしく描きながら、自分の人生に戸惑っている理由に思いをめぐらしてみたり、ふーっとこれから先のことを見据えたりしている。作者もまた植物のように素直に生きていこうとしているからこそ、このように同期できるわけだ。
 「わたしの成人式」。成人式に出席したわたしなのだが、前の年に母を亡くしていたので、祝ってくれる人が誰もいないと感じていたのである。友人のKさんに誘われるままにその家によると、Kさんのお母さんが赤飯で祝ってくれたのである。自分が長じて、そのときのKさんのお母さんの歳になり、その時の礼を伝えると、もうおばあさんになったKさんのお母さんに、「あれくらいのことを、そんなに喜んでくれて……」といわれたのである。

   「あれくらいのこと……」を
   わたしはまだ誰にも返していない
   そのことが
   今のわたしを支えているのではないかと
   思うことがある                         (最終連)

 植物こそあらわれてこないが、やはり素直に読むことのできる作品である。作者は別の作品で「にごったくろい感情はわたしにもあるけれど/それが光になれたものだけ/書いて のこそう」(「エゴノキ」より)と書いている。なかなかできることではない。
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ぶらんこのり  8号  (2009/11)  神奈川

2010-01-25 22:20:20 | 「は行」で始まる詩誌
 「となりのまいちゃん」坂田子。
 わたしはすれ違った見知らぬ女性にうでをつかまれ”まいちゃん”と呼ばれる。「うれしいわなつかしいわ」と執拗にしがみついてくる女をふり離すと、女はしりもちをついたのだ。なれなれしい女に憤然と対応したわたしの有り様が描かれる。そんなことがあったんだと思っていたとたんに、いきなり視点が逆転する。

   ―いいかげんにしてください
    わたしはあなたを知りません
   誰かがわたしをつきとばした
   わたしはしりもちをついて
   走り去って行く見知らぬ女の
   背中に向かって叫び続ける
   ―まいちゃんまいちゃん

 二人の女性の邂逅が今度は逆方向から描かれる。ああ、実はそうだったのか、誤った記憶はどちらだっただろうと思いかけて、そこで立ち止まってしまう。後半のわたしは誰か見知らぬ女につきとばされたのだ。それなのに、わたしはその女に「まいちゃんまいちゃん」と叫びかけているのだ。
 見知らぬ女へ「まいちゃんまいちゃん」と呼びかけると書き付けることが、作者にとってこの作品のすべてであったのだろう。つきとばされることによって、見知らぬ女は”まいちゃん”になったのだろう。道に倒れて幼なじみの名前を叫んでいる女の必死な様が、鮮明な映像となっている。
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