瀬崎祐の本棚

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詩集「レモン」  青山雨子  (2013/02)  書肆山田

2013-02-28 19:05:34 | 詩集
 第4詩集。73頁に14編を収める。
 ほとんどの作品では、短い詩行がぽつんぽつんと切り離されたように提示される。書き表される物事の関係や説明をすべて省いて、思いがたどりついたことだけを書きつけているようだ。だから、ほとんどの作品では、なぜ、ここにこの言葉が置かれたのかはわからずじまいである。その状態で作品を読んでいくことになる。
 たとえば「柵」では、丘の柵がのび、その隙間を通るうさぎがいて、羊の目の色が気になり、少女が駆けていったりする。そして柵の状態は、「長い/長くなってきた//全景だ」と極点に達する。説明が省かれているだけに読み手の自由なイメージが試されるようだ。
 「バーメイド」は、「小松菜をゆでた大鍋に/小さいけれど黒い殻がある」と、かたつむりのことが詩われる。「黄色い手袋を/はめて/ジャングルをつきぬける道はこの先にある」と言われても、かたつむりにとっての意味なのか、まったく離れた視点での意味なのかは不明である。

   シャンペンをあけてちょうだい

   ハイビスカスの髪かざり

   何度歩いてもわかる
   やわらかな土だから

   裸足で行って
                  (後半部分)

 主語があいまいなままの詩行をたどるうちに、意識はかたつむりなのか、それともそれを超えたものになっているのか、混沌としてくるのだが、その感覚は意外に心地よい。
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詩集「異譚集」  樋口武二  (2013/02)  書肆山住

2013-02-26 19:06:16 | 詩集
 第4詩集。117頁に31編を収める。あまり白くないざらついた用紙が触れる手に心地よい。
 散文詩形を主とした作品は、どれも奇妙で面白い物語を提示してくれる。たとえば、わたしは無理な形で押し込まれて貨物の車両に乗せられていたり(「運ばれて」)、葱を取りに行った畑で深い井戸に入り込んだり(「梯子を降りつづけると」)する。
 物語はつねに一人称で、話者の身に起こった出来事として語られる。だからそこに記述されるのは物事の説明ではなく、物事の体験である。展開される世界の構造は話者の主観的なものであり、話者には説明しきれないような約束ごとに直面している。
 「旗」では「田圃のなかで、/真っ赤な旗を、しきりにふっている人が」あらわれる。通りすがりの人が呼んだり、電車の音が聞こえたりもしていたのだが、しだいにそんな日常からはみんな居なくなって、アキアカネとひるがえる赤い旗だけが残されたのだ。

   きっと、明日ふられるために
   旗は、ゆっくりと一日を閉じたのだ。
   夢のなかでは
   激しくふられている旗があって
   雨模様の空からは
   悲鳴さえも聞こえてくる

 世界の構造は、個人にとってはどこかに説明しきれないものを孕んでいる。それは、なぜか他者によって決められてしまっていることである。この詩集で”異譚”として語られる物語には、そのような世界の構造に対する違和感があらわれている。
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詩集「水の感触」  岩堀純子  (2013/02)  編集工房ノア

2013-02-18 19:43:15 | 詩集
 126頁に43編を収める。
 素直な言葉で等身大の世界が描かれているようで、読む者はその描かれた世界を疑うこともなく受け取ることができる。語られる事柄は、母の死であったり、小児麻痺で知能の発達が止まったままの姉の闘病であったりする。作品は、そのような辛い事柄を生身の状態で差し出してくる。
 そこには「お喋りしているわたしたちの背後で/死はひっそり待っている/熟れた実が木から落ちるのを」(「ある日の会話」最終連)と言ってしまうだけの強さもあるのだろう。
 しかし、それはやはり辛いことだ。

   やがて 夜が明ける
   ふたたび今日がやって来て戸を叩く
   わたしは石棺の陰に潜んで
   新しい今日が弾んだ声で
   庭を掃き 食器を洗えばいいのよ
   と囁くのを聞く
                  (「今日」最終連)

 辛い事柄を必死に日常へ取り込み埋没させることでやり過ごそうとしているようだ。
 4章には、自分を表すことのできない姉が不治の病に罹り最期を迎える様を、それを看取る話者の気持ちを絡めながら、散文形で描く。他者の感想などは不要のせかいがそこにはある。
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評論集「光源体としての西脇順三郎」  (2013/01)  慶應義塾大学アート・センター

2013-02-14 19:24:53 | 詩集
 西脇順三郎アーカイヴの運用を記念してのブックレットとのこと。
 新倉俊一らが、萩原朔太郎、折口信夫、瀧口修三などと比較しながら西脇に迫る論考をおこない、さらに、朝吹亮二、杉本徹、八木幹夫が「西脇詩の新鮮な解読の試み」をしている。
 笠井裕之の論考では、西脇の瀧口修三との出会い、交流、そしてお互いがお互いに影響を与えつづけた事柄を描いている。彼の言語のオブジェ化、あるいは”コラージュ文”という捉え方は興味深いものだった。
 杉本徹は「フローラの詩学」と題して、西脇の作品に現れる植物をとおして、彼の日常性の跳び越え方のようなものに言及している。以下、いくつかの箇所を紹介する。

   永遠とは西脇にとって、植物を通してもっとも肉感的に甘受されうるもの
   で、(略)「詩は永遠への枕詞--」という西脇の美しい呟きにかこつけ
   れば、「植物(フローラ)は詩への枕詞」ということにもなろうか。

   フローラを介しての永遠との感応と同調と、永遠からの眺め返しによる流
   動的な詩行の身体性、こうした持続=音楽のスタイルを実現したことで、
   西脇順三郎は、旧来の叙情詩のパターンをどこか根幹の部分で覆した。つ
   まり、なんらか個人の情のピークに触発され、そこに照準をあわせ、切り
   とって歌いあげる抒情詩のせまい自己規制的な枠をとりはらい、情も含め
   て思念や行動や現象やその他、人間のいとなみとこの時空の総体を原理的
   にすべて収めきる可能態としての器を提示したこと。

 非常に示唆に富む論考をいくつも読むことができた。西脇順三郎に興味を持つ者にとっては有意議な一冊であろう。
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詩集「横浜エスキス」  倉田良成  (2013/01)  ワーズアート

2013-02-12 19:39:10 | 詩集
 第15詩集。105頁に34編を収める。
 作品を一人称で語る話者は、あるときはジャズを聴きに行ったり、あるときは絵画を探しに行ったり、ときに酩酊しながら横浜の街を彷徨う。それは架空の旅の記録であるようでもあり、実際の日録の一部であるようでもある。
 作者の生身の日常と想念の非日常が混沌と撹拌されて、話者の物語になっているのだろう。読んでいる者もふらふらと街を彷徨っているようであり、かなり楽しい追経験をすることができる。
 各作品の終わりには、先人の作品の一部が引用されている。それは渋沢孝輔の「水晶狂い」であったり、芭蕉の句であったりする。なかにはアンゲロブロス監督の映画「永遠と一日」のなかの台詞もある。意外な引用の組み合わせもあって、意欲的な試みである。
 当然のことながら、作者が引用した意図と、それを読む者が引用に対して抱くイメージは異なる。そのために、この試みには、話者の物語と引用が引き合ってくれる場合と、逆に反発しあってしまう場合が、読む者にとってはあり得るだろう。

   この街の昼は、老人と、若い母親と幼子と、私のような病者しかいない。駅前は広場になってい
   るが、下を列車がとどろいて走りぬける巨大な跨線橋のようでもあって、広場の空間はするどい
   山巓みたいに滑りやすく、人がそこに留まることをていねいに排除する意志を持つかに見えた。
   女神の肌がふくむ酷薄な体温のような微風に吹かれ、私もまた父のようにほのかにも、たった一
   人で橋を渡ってゆくのかと痛切に思った。         (「橋に関するメモワール」より)
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