瀬崎祐の本棚

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詩集「星月夜」 野口やよい (2023/11) 版木舎

2024-02-28 17:14:52 | 詩集
第2詩集。100頁に23編を収める。

前半の12編は亡くなられたお父様の追悼作品。
巻頭のタイトル詩「星月夜」では、もう水も飲めなくなった人に「こまかく削った/星屑のような氷」を与えている。「さり さり と散った銀の音」が鳴り、最終部分は、

   いつか時は止まって
   部屋は消えて
   眠るようになつかしい
   どこか にいた

   *

   あそこに帰ったのだと
   知っている

話者の思いは静かに青く透き通っている。哀惜が突き刺さるような感覚に満ちた作品だった。

「あやとり」。父は若くして亡くなった姉さんからあやとりを教わったのだが、二人の指のあいだでいろいろな形がつぎつぎと現れては消えていったのだ。

   形あるものは
   またたく間になくなってしまうから
   形などないものを--
   喉から赤い花を散らす人は
   弟に託した

そして大人になった弟は話者にあやとりを教えたのだ。父にとってあやとりは姉の思い出と共にあるものだった。話者にとってはそれは父の思い出となり、つかの間の形を作ったものがはかなく消えていく様が生前の父と重なっているのだ。

後半の作品は作者の日常に材をとっている。「いわし雲」は散歩の途中で出会った老女を描いている。その人は話者の視線に気づいて頬をくずしたのだ。

   幼子の笑顔に似ていたけれど
   もっときれいだった
   老女の笑み

   怖れを知らない人ではなくて
   知って
   手放した人

無垢の笑みではなく、長い人生で様々な汚れを通り過ぎてきた上での笑みだと思えたのだろう。そして、そう思えるだけの人生を話者もまた歩んできていたということなのだろう。

前詩集の時に私は「作者は微かな心のゆらぎをていねいにすくい取って言葉で留めている」と感想を書いたが、それは本誌集にも通じているものだった。
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詩誌「凪」 4号 (2023/12) 福岡

2024-02-23 22:34:58 | 「さ行」で始まる詩誌
石川敬大が呼びかけてX(旧Twitter)で詩を発表していた有志が結集した詩誌のようだ。103頁。
25人の同人の詩に加えて、本号ではゲストの松尾真由美、和田まさ子の詩が載っている。

「厚子糖蜜」鈴木奥。厚子の家は広くて汚くて蠅が多かったとのこと。厚子はべとっとした食べ物を服にこぼし、時に鯨だったりした。いつも男を絡め取っているようで、魅力的な異形の者なのかもしれない。

   厚子がカーテンを開ける。窓を開ける。うまい、と言いながら呼吸
   する。厚子の指が生えてくる。デッキブラシで床をこする。腐った
   肉を捨てる。犬が白くなる。シャンプーを買いに行く。ついでに箸
   も買う。
   厚子が今日、蠅を食べなくなる。

ぐるんぐるんと世界が回っている。厚子はいったい何者なのか。理屈などとっくに跳び越えた甘いべとっとした世界がひろがっている。

「哀川翔が港町を走った」滝本政博。たぶん恋人であろう「あんた」が出血するような喧嘩をして警察沙汰になる。「それから時がたち/工場では水が冷たく/見上げれば屋根ばかり見える」ようになる。この何気ない季節の移り描写が好い。木々の葉も落ちてしまったわけだ。

   スーパーで総菜を買い物して
   部屋で一人食べる
   この頃には波風もたたぬ

諦観なのか、それとも達観なのか。過ぎていくそんな一日にたまたま観た映画のなかでは走っている男がいたわけだ。それこそ良質の映画を観たような気にさせられる作品だった。

自分のなかでともっている火を、具体的な外部事象に反映させている「待ち受ける火」水木なぎも印象的だった。
これらの作品をはじめとして始めて読む方の作品が多く、その自由な感性を楽しんだ。

石川敬大が「詩に纏わる断章」という連載記事を書いている。その欄で、拙詩集「水分れ、そして水隠れ」について「カフカの迷宮、あるいは天岩戸前の舞いの所作にも似た、ダイアローグではなくモノローグによる詩語生成劇とみた」と評してくれている。感謝。
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詩集「Mの裏庭」 中村郁恵 (2023/08) 港の人

2024-02-20 22:05:26 | 詩集
第1詩集。101頁に23編を収める。
すべての作品が数学に材をとっており、「漸近線」とか「親和数」といった数学用語のタイトルの作品もある。

「直線」。直線はかなしむという。撓んではいけないというかたくなさを要求され、「ねじれず曲がらず伸びゆ」かなければならないのだ。「交叉や迂回も遠ざけ」なくてはならないという。そしてさびしいのは線と線が組まれて図形を作る時だという。

   辺とよばれて
   呼吸をしまいこんだ
   直線として
   生きていた日の

言われてみればなるほどと思う。孤高をもとめられる哀しみがある一方で、他者とのあいだに埋没していく寂しさもあるわけだ。擬人化された直線が身近に感じられるようになる作品だった。

NHKで「笑わない数学」という番組をしていた。取り上げられるのは、abc予想、P対NP問題、ポアンカレ予想、などなど。数Ⅲの世界で止まっている私なので、数字のない符号だけの数式を見るとそれだけですごい世界だなと思ってしまう。ときにこんなことは神の仕業ではないかと思えるような数理もあらわれてきて、数学の凄さだけは判る番組だった。

「鏡のくに」。この作品にあらわれるのはy=f(x)という関数式。xの値に応じて修飾されたyの値が決まるというわけだが、それを作者は自然界に投影している。斜めの光に射されたxがyの影を落とすわけだが、陽が移るに従ってyの形が変わっていく。写像であるという。

   底のない穹の蒼を
   xへ代入
   yに写しだされたのは
   もう
   会うことができないひとの
   手のひらの厚み

このように数式から広がっていく世界は独自の様相を呈している。この作品の最終部分は「xには/縮小できないあやまちを/置き去りにしてきた希みが/角の欠けたうすい氷で/いまyに」

あとがきで作者は「正確に役割を果たす数学の裏側に見え隠れする、寡黙な翳りと切なさが、わたしの拙い言葉を引きだしてくれる気が」するとのこと。冷徹と思える数式に色彩や情緒を見つけ、そこから人間の感情が動き始めている。
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詩誌「イリプス」Ⅲrd 6号  (2024/01)  大阪

2024-02-16 22:05:51 | 「あ行」で始まる詩誌

「うるさり」中堂けいこ。
有機化合物は生命体となったときから経験、知識を伝承して変化をしてきた。それを進化と捉える考えもあるし、たんなる変異だと捉える考えもある。この作品にはそこに流れた膨大な時間を感じての畏れも描かれているようだ。

   ひとひとりぶん たぶん感覚質のクオリアが反応する
   それぞれがつながると 時に その時がすすむ らしい
   みずからをわかつひと ひとり分の過去さえたもてない
   有機化合物のかけらがもとの正体を現すのはいつだろう

「ドアースコープ」神田さよ。
廊下の蛍光灯が切れかけて点滅している。小さなドアースコープから見える世界はそこだけで成り立っていて、その世界では点滅する灯りで光の時間と闇の時間がせめぎあっているのだろう。瞬時の光に照らされるその光景は、時間に切り取られているのだ。

   点いては失(き)え
   失えては点く
   瞬時に照らされる世界
   だれも通らない廊下
   壁のなかの
   台詞を忘れた
   死者の影

最終連にちょっとしたオチが付いているが、これはなかった方が、作品としては潔かったのではないだろうか。

渡辺めぐみは「人間や事物への愛着」と題して、神尾和寿詩集「巨人ノ星タチ」の書評を書いている。神尾作品のそのあっけらかんとした面白さは他に類をみないのだが、私(瀬崎)はその正体を掴めないでいた。しかし渡辺はそれをきちんと分析してくれている。神尾の作品引用に続いて、

   現代的な詩を書こうと全く気負わないシンプルな言葉で書かれた、生きて行
   く上での雑感の一つであるかのような詩行だ。だが、心地よく、誰もが心が
   安らぐのではないだろうか。

なるほど、そうだよな、とうなづける神尾作品の魅力を端的に述べている。

   時代や社会を風刺する詩は世の中にたくさんあるが、神尾の詩はそれらとは雰
   囲気が違う。目的意識を感じさせない。ただ詩としてそこにある。その押しつ
   けがましさのなさにおいて、神尾和寿は固定ファンを持つのだろう。

そして、「作品の根底にはパーツに分解された批評性が流れて」いることもちゃんと指摘している。神尾作品はただの楽しい作品ではないのだ。
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詩集「花狂い」 原葵 (2024/01) おいかぜ書房

2024-02-13 21:09:59 | 詩集
ロード・ダンセイニの訳書を沖積舎やちくま文庫などで出している作者の第8詩集。100頁に20編を収める。
それらの作品の初出記録を見ると、半数近くの未発表作品に混じってかなり以前に「ユリイカ」や「現代詩手帖」に発表した作品6編もあった。

幻想譚のような作品が並ぶ。月の下で輪回し大会をする少年たちがいて、永遠にさまよう花追い人もいる。湿った夜気の中で原色の花が妖しく咲き乱れている光景が浮かび上がってくる。

「誕生月」。あんたは「冷たい川の中で 夜明けに魚たちをはらませ」、「紅もくれんの陰で 猫をはらませ」、「スミレの咲く野原で 少女たちをはらませ」、「極彩色の雨の中 あらゆる蛙をはらませる」。イースターにはみんなが一せいに卵を産むようなのだ。最終部分は、

   卵を産んだ少女たちのお葬いを 午後じゅうして
   夜は 目かくしをしたあんたを
   卵のようになるまで 撫でる
   それから イースターの夜は 一晩中
   あんたのそばで うさぎとボクシング

作品世界は、無邪気な遊び心がとても残酷な生命の在りように繋がっていくようなダーク・ファンタジーになってくる。

「夏の計画」。逃亡する計画を立てて遊んだぼくは、シャボン玉を吹きながら街じゅうを走りぬける。水族館に迷いこんだ子どもたちをしらべ、風邪をひいて寝ている男の子と寝台で一緒にシャボン玉を吹く。最終連は、

   真夜中の暗い路上で ぼくは
   人形と腕を組んで
   ローラースケートをしながら
   シャボン玉を吹いている
   向こうから人形をおぶった少女がやってきても
   挨拶はしない
   そうしてぼくたちは 夜明け前に広場に群がり
   一せいにシャボン玉を吹く

ポール・デルボーの絵画、稲垣足穂の掌編、そんなものも想起させる世界が広がってくる。そんな世界で歓声をあげて走り回ることによって新しく見えてくる世界があるのだ。どこまでも自由でいなければならないのだ。

他にも、恋人に裏切られて少女の誇りだった長い髪を切った姉さんの話(「ぶどう色の涙」)や、どこかの地平線をかぎりなく走りつづける猩々の話(「走れ、どこまでも」)など、幻想的な世界が色彩豊かに閉じ込められている詩集だった。
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