「ルヴェルディ、ボヌフォア等をめぐって」と副題のついた詩論集。255頁。
これまでずっと理系の世界を歩んできて文学的な素養を身につけることができなかった私にとっては、永年にわたって文学を研究してきた方は畏敬の対象以外の何ものでもない。著者もそのようなフランス文学の研究の第一人者である。
Ⅰ章は副題に挙げられている二人の詩人についての評論であるが、内容としてはそれらの詩人の研究というよりも、それらの詩人をとおして、著者の言葉を借りれば、「自分にとってのただ一つの問題、〈詩〉とは何なのかということを(略)繰り返し吟味している」ものとなっている。そのために単に学究的なところからは離れており、得るものが多々あった。
詩の読者としての私たちはことばを通じてしか、ことばの語り得なかった
ところまで沈潜してゆく手立てはないのだから、まずはことばにたいして
柔軟な感能力を用意することが必要だ。そして、そのことばに即して、何
らかのイデーやイマージュを現前せしめるためには、私たちの生そのもの
に依拠する想像力の働きが必要だ
Ⅱ章は4つの講演の記録となっており、ここでも多くの示唆を受けた。特に「イマージュ、イデー、ことば」では、なんとなくぼんやりと感じていた”詩”というものに関する事柄が明確に整理されており、ああ、そういうことだったのか、と納得させられた。
いまや「他者としての個人も世界も断片化されて、その〈全一性〉を否定されてい」るのだが、詩に可能なことは、
単純化していえば、世界と個人とのなかに、こうして失われた〈全一性〉
をいま一度目醒めさせ、回復させることではないだろうか、私たちの護る
べき価値とはこのことなのだと示すことではないだろうか。
また、個人が蓄えているイマージュと詩におけるイデーの関係についても、私が断片的に思っていたことをまとめる手がかりを与えてもらった。
これまでずっと理系の世界を歩んできて文学的な素養を身につけることができなかった私にとっては、永年にわたって文学を研究してきた方は畏敬の対象以外の何ものでもない。著者もそのようなフランス文学の研究の第一人者である。
Ⅰ章は副題に挙げられている二人の詩人についての評論であるが、内容としてはそれらの詩人の研究というよりも、それらの詩人をとおして、著者の言葉を借りれば、「自分にとってのただ一つの問題、〈詩〉とは何なのかということを(略)繰り返し吟味している」ものとなっている。そのために単に学究的なところからは離れており、得るものが多々あった。
詩の読者としての私たちはことばを通じてしか、ことばの語り得なかった
ところまで沈潜してゆく手立てはないのだから、まずはことばにたいして
柔軟な感能力を用意することが必要だ。そして、そのことばに即して、何
らかのイデーやイマージュを現前せしめるためには、私たちの生そのもの
に依拠する想像力の働きが必要だ
Ⅱ章は4つの講演の記録となっており、ここでも多くの示唆を受けた。特に「イマージュ、イデー、ことば」では、なんとなくぼんやりと感じていた”詩”というものに関する事柄が明確に整理されており、ああ、そういうことだったのか、と納得させられた。
いまや「他者としての個人も世界も断片化されて、その〈全一性〉を否定されてい」るのだが、詩に可能なことは、
単純化していえば、世界と個人とのなかに、こうして失われた〈全一性〉
をいま一度目醒めさせ、回復させることではないだろうか、私たちの護る
べき価値とはこのことなのだと示すことではないだろうか。
また、個人が蓄えているイマージュと詩におけるイデーの関係についても、私が断片的に思っていたことをまとめる手がかりを与えてもらった。