瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

「雨期」84号(2025/02)/「タルタ」65号(2025/03)

2025-02-21 22:49:21 | 「あ行」で始まる詩誌
「雨期」は56頁。創刊は1982年とのことなので40年以上の歴史を持つ。8人が作品を発表している。

「出立」須永紀子。
生きているものは成長に従って変容する。すると、

   さなぎからはじめて
   すみやかに成体になり
   時節が一巡するあいだに
   果てに行きついた
   その先はなだれおちる漆黒

成長し、変容し、ここではない場所を求める。それはこの場所が不満なのではなく、より良い環境を求めるのでもなく、もっと根源的な、生き延びるために必要な行為なのだろう。最終2行は「夜店で買った光る輪のような/この惑星を脱出する」。卑小で具体的な地球の直喩がなんとも効果的だ。
 
「タルタ」は40頁。長く千木貢氏が支えてこられたが、氏の没後も継続発行されている。同人9人の作品を載せる。

「転ぶ」田中裕子。
思いとは裏腹に身体は制御を失ってしまうことがある。話者は衆人の中で転んでしまう。それは恥ずかしいことではなく、むしろかなしいことだったようだ。思いだけが先に行ってしまったような戸惑い、焦りが身体に残されていたのだろう。

   思うことが
   追いついたら
   もう立ち上がれないかもしれない
   季節の風などに吹かれて 私
   どこかに転がっているかもしれない

これは最終連だが、自分を突き放したような視点もあって、どこか諦めたような、それでいて誰かに縋りたいような、そんな絡み合った思いが巧みに吐露されていた。
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詩誌「アンリエット」 (2024/10) 東京

2025-01-26 18:06:16 | 「あ行」で始まる詩誌
高塚謙太郎と峯澤典子の二人誌の第1号のようだ。B6版、100頁。
今号のタイトルは「湖底に映されるシネマのように」で、高塚の詩10編、峯澤の詩7編、それに論考2編を載せている。惹き文句には「それぞれが編数もページ数も書き方も自由に作品を仕上げ、一枚のアルバムを作るようにそれらを並べました」とあった。

高塚は「茉莉」というタイトルの作品を3編発表している。そのうちの1編は21行の作品だが、部分を抜き出して紹介するのが難しい。というのも、行分けされたセンテンスがゆるくうねるように続いてひとつの状況を提示してくるからである。作者の本意ではないだろうが一部分を抜き出してみる。

   湖岸線を縫っていくのに
   ほつれるように
   遠ざかり
   窓まで波間を連れて
   陽がプリズムを撒いたと
   テレビに映っていて
   濡れたサンダルを手に
   水着でしゃがんでいた茉莉花

ジャスミンの花なのか女性なのか、謎めいた光景がくっきりと描かれている。

「星座」峯澤典子。
まつりの夜の風情が「笛と太鼓の日暮れの音」や「狐の嫁いりの淡い裳裾のように/つらなり煙る提灯」、そして「くち紅のうえでとける/林檎あめ 綿あめ」と、音や色、味覚で伝えられる。それは妖しげで、近づいても捉えどころのない輪郭のものであるようだ。まつりの夜はうつつからはどこかへ離れた一夜なのかも知れない。だから朝になれば「しおれるために ひらく」花が取り残されているのだろう。

   ひと夏の笛 太鼓のねいろのあと
   人はみな眠りにつく
   いつもはさびれた宿の夜あけ
   どこかで 湯があふれつづける音

儚げな美しさが漂っている作品。話者は「いちりん、の花びらの/透明な目と耳の/星座を/欄干から流すように/一夜かぎりの/帯を」とくのである。

なお、詩の各作品の作者名は巻末の目次にだけ付している。したがって作品を読む時には作者名は不明である。読む者が作者にはとらわれずに、ただ作品とむきあう事を意図しているのだろう。

論考は高塚の「森川葵村『夜の葉』について」、「三井葉子の詩について」の2編。前者はまったく存じ上げない方についてだったので、大変に示唆を受けた。
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詩誌「阿吽」 復刊1号 (2024/08) 北海道

2024-11-15 22:48:48 | 「あ行」で始まる詩誌
金石稔編集発行で、10年ぶりぐらいに復刊された詩誌。201頁。

「特集 細田傳造」では書き下ろしの細田の10詩編と共に12人が細田詩と詩人をめぐる論考を書いている。

「少年」は12行の作品。話者は少年に半ズボンが長すぎる、ベルトが長すぎると注意をうながしている。まだ大人の世界を知らない少年は苛立たしく、また気がかりな存在のものなのだろう。かつての自分がそうであったように。作品の後半は、

 少年
 きみの小便垂れは短すぎる
 少年
 きみの目ざめは早すぎる
 だめだよ
 一番列車まではまだ昏い

細田の作品は軽妙で嗜虐に満ちていて楽しく読ませてくれる。しかし描かれているその作品世界は実は大変に重く痛々しい。読んでいる間にはそれを感じさせずにいて、読後に気持ちが波立つような感慨を残していく。それは、作者が話者との間に距離を取り、どこか醒めた目で話者を立たせているからだろう。この作品でも最後の1行に脱帽であった。

そんな細田の詩について小池昌代は、「どんなにやさしく書かれた詩にも、奥のほうに芯があり批評があり骨があり、読んでいるとそれが、こちらに石の礫のようにこつこつとぶつかってくる。」「細田さんのいくつかの詩には、簡単に理解されることを拒む美しい隙間があり、そこに品格が宿っている。」と書いている。

詩誌は、この特集の他に8人の詩作品(なんと帷子耀の詩も載っている)、エッセイ、書評、俳句、回文を載せている。

泉祐司「断章《天沢退二郎》考 -はてしなき道(前編)」は24頁にわたる詩人論で、ジュリアン・グラック、ジャン・リュック・ゴダール、つげ義春などもあらわれてくる。特につげの「ねじ式」と天沢の「断食週間前のものがたり」の関係の検証は興味深いものだった。
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詩誌「イリプス」Ⅲrd 6号  (2024/01)  大阪

2024-02-16 22:05:51 | 「あ行」で始まる詩誌

「うるさり」中堂けいこ。
有機化合物は生命体となったときから経験、知識を伝承して変化をしてきた。それを進化と捉える考えもあるし、たんなる変異だと捉える考えもある。この作品にはそこに流れた膨大な時間を感じての畏れも描かれているようだ。

   ひとひとりぶん たぶん感覚質のクオリアが反応する
   それぞれがつながると 時に その時がすすむ らしい
   みずからをわかつひと ひとり分の過去さえたもてない
   有機化合物のかけらがもとの正体を現すのはいつだろう

「ドアースコープ」神田さよ。
廊下の蛍光灯が切れかけて点滅している。小さなドアースコープから見える世界はそこだけで成り立っていて、その世界では点滅する灯りで光の時間と闇の時間がせめぎあっているのだろう。瞬時の光に照らされるその光景は、時間に切り取られているのだ。

   点いては失(き)え
   失えては点く
   瞬時に照らされる世界
   だれも通らない廊下
   壁のなかの
   台詞を忘れた
   死者の影

最終連にちょっとしたオチが付いているが、これはなかった方が、作品としては潔かったのではないだろうか。

渡辺めぐみは「人間や事物への愛着」と題して、神尾和寿詩集「巨人ノ星タチ」の書評を書いている。神尾作品のそのあっけらかんとした面白さは他に類をみないのだが、私(瀬崎)はその正体を掴めないでいた。しかし渡辺はそれをきちんと分析してくれている。神尾の作品引用に続いて、

   現代的な詩を書こうと全く気負わないシンプルな言葉で書かれた、生きて行
   く上での雑感の一つであるかのような詩行だ。だが、心地よく、誰もが心が
   安らぐのではないだろうか。

なるほど、そうだよな、とうなづける神尾作品の魅力を端的に述べている。

   時代や社会を風刺する詩は世の中にたくさんあるが、神尾の詩はそれらとは雰
   囲気が違う。目的意識を感じさせない。ただ詩としてそこにある。その押しつ
   けがましさのなさにおいて、神尾和寿は固定ファンを持つのだろう。

そして、「作品の根底にはパーツに分解された批評性が流れて」いることもちゃんと指摘している。神尾作品はただの楽しい作品ではないのだ。
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詩誌「大神オオカミ」 42号 (2023/11)  神奈川

2024-01-23 22:31:20 | 「あ行」で始まる詩誌
光冨幾耶が編集・発行している文芸誌。「詩歌・文芸とアートを楽しむ」ことを目的としており、今号は25人の詩作品を載せて72頁。志久浩介の表紙画も想像力を刺激する。

「おもて」鹿又夏実。雨に降られると都市は面になるのだという。それは陰影を失った世界のようなのだが、それをこの作品では抽象的にではなく具体的なものとして捉えているところが新鮮である。面に穴が開き、

   貫通した内部にも
   面が生まれるだろう
   せまい穴のなかで
   向かいあわなくてはならない
   新しい面に慄きつつ、
   世界へとどろく
   そのやわさ

そして話者たちは開いた穴から顔を覗かせて「こんにちは」とか「よく降りますね」と挨拶をしているのだ。社会を皮肉な目で眺めて描いており、シュールな絵を見ている面白さがある。

「晩年」石川厚志。話者は霧の中を彷徨っていて、幼い日の母の記憶や亡くなった父の山荘があらわれる。霞んだ視野の世界は時空が歪んでいたのだろう。

   霧の中でいったい何をしているのだろう
   足もとを見て歩くのが精一杯だ
   枯れたむらさきの花が黄色い口をして落ちている
   それを白爪草がやさしく受けとめている

最後近くに「もう辿り着いたのか」という台詞があるが、いったいどこに向かっているつもりだったのだろうか。

「明るい砂場にて」光冨幾耶。わたしが校庭の砂場で砂山を作っていると、よそのクラスの子たちが足で踏みつぶすのである。わたしがそれでも砂の山を作りつづけると、

   ひとの子たちは楽しげな声をあげて
   わたしの砂の山を足で踏みつぶしていく
   三度ひとの子たちは声をあげてこわしていく
   いくつもの靴に踏まれて
   わたしの手はくろずみ 脈が痛い

こうした行為のやりとりが存在しているのが”明るい”場所なのだ。陽はどこにあたっている? そして、意地悪をする者を「ひとの子たち」と呼んでいる話者は、それでは何の子なのだろうか。
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