瀬崎祐の本棚

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詩誌「イリプス」Ⅲrd 6号  (2024/01)  大阪

2024-02-16 22:05:51 | 「あ行」で始まる詩誌

「うるさり」中堂けいこ。
有機化合物は生命体となったときから経験、知識を伝承して変化をしてきた。それを進化と捉える考えもあるし、たんなる変異だと捉える考えもある。この作品にはそこに流れた膨大な時間を感じての畏れも描かれているようだ。

   ひとひとりぶん たぶん感覚質のクオリアが反応する
   それぞれがつながると 時に その時がすすむ らしい
   みずからをわかつひと ひとり分の過去さえたもてない
   有機化合物のかけらがもとの正体を現すのはいつだろう

「ドアースコープ」神田さよ。
廊下の蛍光灯が切れかけて点滅している。小さなドアースコープから見える世界はそこだけで成り立っていて、その世界では点滅する灯りで光の時間と闇の時間がせめぎあっているのだろう。瞬時の光に照らされるその光景は、時間に切り取られているのだ。

   点いては失(き)え
   失えては点く
   瞬時に照らされる世界
   だれも通らない廊下
   壁のなかの
   台詞を忘れた
   死者の影

最終連にちょっとしたオチが付いているが、これはなかった方が、作品としては潔かったのではないだろうか。

渡辺めぐみは「人間や事物への愛着」と題して、神尾和寿詩集「巨人ノ星タチ」の書評を書いている。神尾作品のそのあっけらかんとした面白さは他に類をみないのだが、私(瀬崎)はその正体を掴めないでいた。しかし渡辺はそれをきちんと分析してくれている。神尾の作品引用に続いて、

   現代的な詩を書こうと全く気負わないシンプルな言葉で書かれた、生きて行
   く上での雑感の一つであるかのような詩行だ。だが、心地よく、誰もが心が
   安らぐのではないだろうか。

なるほど、そうだよな、とうなづける神尾作品の魅力を端的に述べている。

   時代や社会を風刺する詩は世の中にたくさんあるが、神尾の詩はそれらとは雰
   囲気が違う。目的意識を感じさせない。ただ詩としてそこにある。その押しつ
   けがましさのなさにおいて、神尾和寿は固定ファンを持つのだろう。

そして、「作品の根底にはパーツに分解された批評性が流れて」いることもちゃんと指摘している。神尾作品はただの楽しい作品ではないのだ。
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詩誌「大神オオカミ」 42号 (2023/11)  神奈川

2024-01-23 22:31:20 | 「あ行」で始まる詩誌
光冨幾耶が編集・発行している文芸誌。「詩歌・文芸とアートを楽しむ」ことを目的としており、今号は25人の詩作品を載せて72頁。志久浩介の表紙画も想像力を刺激する。

「おもて」鹿又夏実。雨に降られると都市は面になるのだという。それは陰影を失った世界のようなのだが、それをこの作品では抽象的にではなく具体的なものとして捉えているところが新鮮である。面に穴が開き、

   貫通した内部にも
   面が生まれるだろう
   せまい穴のなかで
   向かいあわなくてはならない
   新しい面に慄きつつ、
   世界へとどろく
   そのやわさ

そして話者たちは開いた穴から顔を覗かせて「こんにちは」とか「よく降りますね」と挨拶をしているのだ。社会を皮肉な目で眺めて描いており、シュールな絵を見ている面白さがある。

「晩年」石川厚志。話者は霧の中を彷徨っていて、幼い日の母の記憶や亡くなった父の山荘があらわれる。霞んだ視野の世界は時空が歪んでいたのだろう。

   霧の中でいったい何をしているのだろう
   足もとを見て歩くのが精一杯だ
   枯れたむらさきの花が黄色い口をして落ちている
   それを白爪草がやさしく受けとめている

最後近くに「もう辿り着いたのか」という台詞があるが、いったいどこに向かっているつもりだったのだろうか。

「明るい砂場にて」光冨幾耶。わたしが校庭の砂場で砂山を作っていると、よそのクラスの子たちが足で踏みつぶすのである。わたしがそれでも砂の山を作りつづけると、

   ひとの子たちは楽しげな声をあげて
   わたしの砂の山を足で踏みつぶしていく
   三度ひとの子たちは声をあげてこわしていく
   いくつもの靴に踏まれて
   わたしの手はくろずみ 脈が痛い

こうした行為のやりとりが存在しているのが”明るい”場所なのだ。陽はどこにあたっている? そして、意地悪をする者を「ひとの子たち」と呼んでいる話者は、それでは何の子なのだろうか。
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詩誌「折々の」 60号  (2023/11)  広島

2023-10-10 16:50:25 | 「あ行」で始まる詩誌
「ジャコメッティの前に」八木真央。
その折れそうになるまで余分を削り取られた像の前で、話者もまた問われていることを感じているのだろう。本当に必要なものだけを残した線のような存在になれるか、と。その問いかけの厳しさに、話者は像の前で立ち尽くしているようだ。

   一本の歪な線として発信する激しさに滲む 孤独
   折れそうに直線的である事が内包するかなしみ
   それらが横倒れぬように支え受け止める 土台の
   重厚な佇まいとバランスに 何時しか 心跪く

「蓑虫」橘しのぶ。
わたしは蓑虫に「一緒に暮らさう」と誘われる。そして「短冊に文字を綴って/貼り合はせて作った蓑」の中で縄跳びをしたりひとつのベッドで眠った。やがて文字には翅が生えてくる。その翅を空っぽのドロップ缶に詰めてゆすると「花の散る音」がしたのだ。最終部分は、

   四角い窓から
   蛾が一頭、飛び立った
   とんでもない。
   飛ばない、わたしは、
   飛べない。

蓑虫の雄は飛ぶが、翅を持たない雌の生涯は蛹の殻の中だけにあり、やがては地上に落下して死んでいくとのこと。そんな雌雄が特異な生態をとる蓑虫を題材にして、幻想的な愛の物語を作り上げている。

「動力機」松尾静明。
それはエスカレーターを動かす度に「鳴くような泣くような ひとつの声を背負」うのだ。作品にはその”声”が擬音語としてくり返しあらわれて、大変に効果を上げている。作品に絡みついてくるようなその音の感じを損なうことを恐れて、ここではそれは引用しない。

   ここを選んだのでもないのに この世界のここへ置かれている
   どうしようもない約束のようなこの場所から
   昇っていくでもない降りていくでもない ひとつの声を背負っているもの

何か辛い宿命を負った存在のものが描かれているのだが、それは作品を書いた者、また読んだ者にのしかかってくるものでもあるようだ。
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詩誌「イリプスⅢrd」 1号  (2022/10)  大阪

2022-10-24 11:17:08 | 「あ行」で始まる詩誌
今号から第三次となり、季刊体制になった。通巻としては57号となる。

「惜別」渡辺めぐみ。
作品は「角を折れてゆく車が僕を見た」とはじまる。やがて死んでしまった犬への思いが渦を巻き始める。「存在値という言葉が嫌い」だったり、食べ残されて「炊飯器の中に残っている米粒になりたい」と思ったりする。喪失感が存在する命への苛立ちにもつながっていくようなのだ。犬は車に轢かれたことが明かされる。そして最終部分は、

   僕の胸の中を
   轢き逃げ犯を乗せた車が
   何度も通り抜けてゆく
   音は聞こえない
   身体が振動するだけだ
   ナンバープレートがどうしても見えない

「操車場」永井章子。
夜の操車場には車両の群れが静かに並んでいるのだが、「同じ頃私のなかに最終列車が到着する」のだ。その列車からはその日に感じた気持ちが降り立ってくるのだ。このイメージは新鮮で、頷かされるものがあった。そして、

   近頃 かならず
   向こうから煙をまとった列車がやって来る
   遠い戦いの国から来るのだ
   様々に入り混じった臭いや轟音を引き連れて
   他の列車たちに君臨する

今、遠い地で起こっている戦いが我が身の感情に乗り込んでくるのだろう。その感情を乗せた列車は、戦地に赴く兵士を乗せた列車、そして負傷兵を乗せた列車のイメージと重なってくる。他人事とせずに、我が身に引きつけた地点での発語が重さを持っていた。

「タクシー運転手」細見和之。
雨の降る夜に濡れた女を乗せたタクシーの怪談めいた話は時折り耳にする。そして今はもう無い目的地に着くと、女の姿はない・・・。小咄めいた語り口の作品なのだが、この作品の愁眉は最終3行である。さすがの作品となっていた。

   女の姿がないねん
   「万歳、万歳(マンセー、マンセー)いう声が四方から聞こえて
   わしの車は深い深い海の底にあるみたいやねん
   ほんでいまもうあんたもその海の底におるで
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詩誌「雨期」  79号  (2022/08)  埼玉

2022-10-07 22:24:06 | 「あ行」で始まる詩誌
51頁に9人の詩作品、「建築・構築物」についてのアンケートなどを載せる。
 
「八月」古内美也子。
11行の短い作品だが、夏の感触を的確に捉えている。「ラムネ瓶のむこうに揺らめく/緑の鬱蒼」「油断する八月の吐息」と、何よりも表出されるイメージが美しい。後半部分は、

   要るものと
   要らないものが入れ替わり
   せかいは
   烈しい
   ことばになる

作者にとっての“八月”がどんなものであるかが、きりりと緊張したものとして提示されている。

「ジュンコ」谷合吉重。
短い7つの断章で書き留められたジュンコの人物像である。なかなかに強烈な人物であるようで、青サバをさばくための包丁を持っているだけで禍々しい雰囲気となっている。興味深いのは、話者とジュンコの関係で、「だまれジュンコ/それがどうした」と怒鳴ったりもする。するとジュンコは「すてられたんだよう」とぼやくのである。他者が入り込めない気遣いの関係が保たれているようだ。

   (おかあさん、
    きょうはフラの練習日だよ)
   ナイフの刃先の
   極限の狭小
   隣りあった道を行くのだ

「帽子について」須永紀子。
「唐突に夏が終わ」っていくのだ。脱ぎそびれた麦わら帽子、薄物の上着、それらはもう過ぎていくものだったのだ。暑さが嘘のように退いていって、話者を囲む空気は肌寒くなっていく。個人的には、衣服として欠かすことのできない上着やパンツに比べれば、帽子はプラスアルファで身につけるものといったイメージがある。だから、

   身から離れてしまえば
   ただのくたびれた小物
   頭上にあれば賢さを計り
   愚かさは縁取どれる

最終部分は「わたしをよけて過ぎる/長袖の人びと、初秋の風」。話者だけはまだ麦わら帽子を脱げないでいたのだな。

「短編通信」として須永紀子が小説の紹介コラムの連載を書いている。その小説の要となる部分を的確に紹介してくれるので、未読のものでは興味を惹かれることがよくある。
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