瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

紙子  21号  (2014/10)  京都

2014-11-30 21:30:11 | 「か行」で始まる詩誌
 松尾エリの黒を基調とした装幀デザインが重々しくも尖っている。同人は8人で、詩7編のほかに書評、翻訳詩がそれぞれ1編ずつ載り、44頁。

 「卒業研究から」細見和之。
 被爆体験を持つ祖母についての卒業研究をしている女子学生が詩われている。長崎原爆を知るにつれて変化していく彼女からのメール、そしてその彼女に対峙している話者の思い。とても繊細な真面目さで書かれている。

 「音和歌」萩原健次郎。
 即興のソロ演奏を聴いているような趣がある。それもピアノではなく、テナー・サックスか。次々に描かれる事象はうねっては変容していく。ついには自分の中の螺旋階段をどこまでも降りていくようだった。

 「limited」荒木時彦。
 6連からなる散文詩。朝からの私の行動や、私に見えるもの、聞こえるものが静かな口調で語られる。そこには恣意的なものはなく、やがて「私もまた、その、ごくあたりまえの風景の一部」になっていくのだ。奇妙な心地よさがある作品。

 「殺風景のか、それとも殺気の仕業か、それとも順不同のざわめきか」たなかあきみつ。
 挑戦的でふてぶてしいタイトルの作品。5行14連からなり、「松井良彦監督「追悼のざわめき」の気圏にて」という副題があり、1頁分の補注もついている。 映画についてはなにも知らないのだが、描かれたイメージはそれこそ「どす黒い眼窩の《泥水を/撥ね散らしながら/疾走していく》」ようであった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「ざくろと葡萄」  柳生じゅん子  (2014/10)  土曜美術社出版販売

2014-11-27 19:58:09 | 詩集
 第7詩集。94頁に22編を収める。
 わたしはいろいろな場所で、いろいろな時間に死者と出会っている。それはわたしが死者を求めているからだろう。
 「午後三時」では、わたしは空のどこかに蓋があけられるかすかな音を聞きわけている。午後三時はそんなことが起こる時間なのだ。そして、

   三時は 沈黙を映す鏡を持っているから
   亡くなったひとたちが
   向こう岸を行くのが見える
   隔てられた川に
   まだ水が流れているらしい

 お昼が過ぎ、夕暮れには未だ時間がある、そんな狭間のような時間帯がもつ感じが伝わってくる。
 散文詩の「旅に出て」では、旅先の川の辺りで向こうの土手にいるひとと会う。それは「少し前に逝った幼な友だち」で、今まで知らなかったような一面も見せている。そのことが友をより一層懐かしい存在にしている。

   (会いたかったのよ)共に伸ばした手が あと少しで繋
   げそうになってから立ち止まったひとに (そこは危な
   いよ)と言いかけて 今 転びそうな所にいるのは わ
   たしの方だと気づかされます。うれしくて笑っていたわ
   たしに(泣かなくていいから また会えるから)と言っ
   て幼い時からどこか大人だったひとは ただそれだけを
   言いに来たというふうに うなづきました

 死者は、常にわたしの内にある存在なのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「赤く満ちた月」 青山みゆき (2014/10) 思潮社

2014-11-25 21:34:10 | 詩集
 第2詩集。79頁に24編を収める。
 鋭利な刃物で風景を切り裂くように描写している。冷徹にも見えるその描写には呼吸の乱れもない。そして、自らが描写したものについて(あるいは、描写してしまったものについて)必死に反発しているようなのだ。
 「盛夏」では電車の中で出会った男についての妄想が描写される。わたしは、つり革につかまっている男の「なめらかな尻のふくらみに触れ」、「脈打つ性器に触れる」。

   心のもっともやわらかな部分を
   ぴったりと重ね合わせる
   なまあたたかい汗の匂いが立ちのぼる
   くらくらとめまいがする
   わたしはゆっくり内側から押し広げられてゆく

 ここでは暑さの中での生が、肉体的な生臭い性へと転換されて渦巻いている。その妄想に没入することによって時間と場所を超越した時点へ彷徨っている。やがて「わたしは生の塊となって/じりじりと宙づりになっている」のだ。
 「雨」では、「雨つぶが重たげに表皮をつたわ」っているざくろが詩われる。わたしが「紅い裂け目に触る」と「手から種がこぼれる」のだ。そしてそんな夜には納屋の隅で猫がひそかに分娩する」のだ。最終連は、

   わたしは雨に打たれながら台所へもどる
   なまぐさい肉の味が唇にのこる
   てのひらの割れた卵から白身が流れでる
   耳元で蝿が一匹ぶんぶんうなっている

 何の説明もなく、何の意味を求めようとしているのでもない。ただ描写されたものだけが暗くこちらを眺めている。おそらくは、作者も描写してしまったものに凝視されてしまっているのだろう。
 「息を殺す」などの詩誌「未来」に発表されたという3編の作品では、目眩を誘うような饒舌な独白体に魅了された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「雨の降る映画を」  谷内修三  (2014/10)  象形文字編集室

2014-11-22 23:09:49 | 詩集
A5版、71頁。4行から10数行の30編の行分け詩で、大半が1頁に収まっている。
 どの作品もかなり理知的に書かれている。そのためにまとまりが良く、暴れている部分が少ない。妙な言い方になるが、非常にお行儀がよい印象を受ける。
以前の詩集でもそうだったのだが、谷内の作品では”ことば”という語が多用されている。せっかくのさまざまな事柄が”ことば”というひとつの言葉に閉じ込められてしまっており、残念な気がする。
たとえば「私がほんとうにしたいことは、」という作品では、それは「どこにもたどりつけないように間違えることだ」としながら、

   せめて見つからないようにしたいと思うのだが、
   先回りしたことばが向こうからやってきて、遅いじゃないか、こっちだよ、と叫ぶのだ。

 「壁に描かれた花が、/さっきからことばをみつめている。」とはじまる「壁に描かれた花が、」では、話者の中に呼び起こされたものを”ことば”というひと言で言ってしまったのだろう。

   盛りの花のなかにあって
   一輪だけ先に咲いてしまった。
   とりかえしのつかない後悔のにおい
   同じにおいが
   ことばの奥にもう開きはじめている。

 肌触りは悪くないので、感覚としては素直に受けとることができる。しかしその分だけ既視感のようなものを感じてしまうことも否めない。
 これらの作品では、書くことによっても読むことによっても、我が身の肉体が危険にさらされるという事がない。息を詰めるような緊張感というよりも、爽やかな楽しみのようなものを作者は求めているのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生き事  9号  (2014/)秋)  東京

2014-11-19 22:30:31 | 「あ行」で始まる詩誌
 5人が集まっている。B6版の45頁。表紙、裏表紙、カットには岩佐なをの絵が使われていて、軽快でお洒落な装幀となっている。

 「鳥獣の境」柿沼徹。
 どろどろと物事がかき回されて混沌とする内容なのだが、表現が鮮やかできっぱりとしているので、その混沌の有り様が澄んで見えてくる。私にはいつから二本の脚と二本の腕が生えているのだろうか。

 「Cパン」岩佐なを。
 まずはタイトルでおや?と思わせるが、どうやら揚げたカレーパンのことらしい(あれは文句なしに美味しい)。作品には勝手気ままな真面目くさったユーモアがある。Cパン、勧められなくても一口食べたい。

 阿部恭久は俳句17句を「素敵」の題のもとに載せている。三句を紹介する。
  風薫る万年筆を洗ひけり
  鬱々と茄子の煮付けは旨き哉
  凩に襟を立てれば戦後かな

 廿楽順治は「夜の目測」として5編を発表している
 どの作品も何を言っているのか、よく判らないのだが、とにかく好い。好きな作品なんてそんなものだと思う。書きとめられた事象の飛躍が眩暈を誘う。まずは感覚があって、理屈なんてあとからこじつけるものだ。

 「巨大な石」佐々木安美。
 畑を掘っていると巨大な石に当たる。隣家の湯本さんの庭でも池の水を抜くと巨大な石があらわれる。私達の意志の届かないところで何かはすでに決まっているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする