瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「水の旋律」  岩堀純子  (2015/07)  編集工房ノア

2015-07-30 19:07:26 | 詩集
 第2詩集。219頁に68編を収める。
 前詩集は「水の感触」というタイトルで、作者は「水はわたしのいのちのみなもとであるという強い思いがある」と言っている。膨大な数の作品を収めているが、3年間に自己のブログに書いてきたものとのこと。日々の思いをそのまま言葉で書きとめているようで、自分をまっすぐに伝えようとしている。
「未完」は、人生を川の流れに見立てている。その流れは否応もなくひとつしかなく、「幾重にも折れ曲が」って海へ向かっていく。水の流れは、同時に時の流れでもあり、

   海はまだ遠いのか
   迫っているのか
   見えないそこに向かって
   流れはしずかに傾く

 とてもわかりやすいイメージで、ああ、そんなものだろうな、と思わせてくれる。
 「家」では、人が寝起きをして存在する場所に、「ふと、なぜ棲んでいるのだろうか」と考えている。その人にとっては、そこに棲んでいることが自己証明のような意味を持っているように思えていたのだろう。

   夜空の下の
   うごかない傾いた家を
   わたしは脳裏に凝視める
   あるはずの
   だが すでにない
   家を

 どの作品も、思いの説明やつきつめた理屈を述べることはなく、ただしずかに自分の内側を見詰めた感覚を伝えてくる。それこそ、自在に形を変えて生命を潤している水のようだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「母の魔法」  愛敬浩一  (2015/07)  書肆山住

2015-07-26 11:40:44 | 詩集
 第9詩集。「詩的現代叢書」の7冊目。68頁に25編を収め、田口三舩の跋文が付いている。
 群馬の上毛新聞に連載したり、雑誌「上州路」に発表したりした作品である。1編を除いて、20行から30行足らずの作品で見開き2頁におさまっている。
 「赤城山」は、通勤の車中から感じる北川の山を詩っている。私は特に見ようとは思わないのだが、赤城山は毎日行ったり来たりしている「米粒のような/私の車」を見ている。今日も同じように走っているのだが、

   それでも五月だから
   どこか五月のような走り方だ
   私の誕生月、五月よ

発表媒体の関係から、おそらくは詩を書かない読者も想定して書かれていると思われ、平易な書き方に工夫されている。
 自分に引き換えて考えれば、通常の書き方が読者を想定していないというわけではないのだが、それでも書きたいように(我が儘に)書くわけで、平易な書き方への工夫はなおざりにしてしまいがちだ。
 この詩集に収められた作品のような書き方では、作者が我慢しなければならない部分があるわけで、なおそのうえで書ききらなければならない。そのために切り捨てられるものと、かえって付け加わるものがあるのだろう。
 「母の魔法」。小学生の私が干してあったシャツをそのまま着ようとした時に、母が「」ささっと畳み」、「ぽんと叩いてから/笑顔で私に差し出した」話。すぐに着るのに、とも思ったのだが、

   母は
   まるで魔法でもかけるように
   シャツを畳んだのだ
   たぶん私は
   何か、とても大切なことを学んだのだと思う

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「水辺の寓話」  水野ひかる  (2015/06)  土曜美術社出版販売

2015-07-24 16:55:55 | 詩集
 第10詩集。53頁に16編を収める。
 Ⅰ章には”水辺シリーズ”として、12ヶ月を冠した連作がある。「あとがき」によれば、作者の散歩コースに宮池があり、その水辺の道を歩いて生まれた作品群とのこと。「五月の水辺に」では、「柿若葉の明るんだ坂を下」って人に会いに行く。池には聖五月の空が映っていて、

   神の手が何処かから降りてくるような
   真昼

 どの作品でも水辺の季節折々の情景が描写されているのだが、その情景に作者の気持ちが映し込まれている。
 Ⅱの4編も、沼や池をめぐって歩いている。「沼」では、若いころに女友達N子と一緒に突然目の前に広がった沼に遭遇した思い出が詩われている。沼に、N子はきれいと喜んだのだが、わたしはずるずるとひき込まれそうな不安を感じたのだ。その後、N子は奔放な恋に身を投じ、私の恋はすすまなかったのだ。

   古希になり、いまではその沼の存在さえ不確
   かなものになっている。N子は、水面のきら
   きら光る瞬間に魅せられたのだろう。わたし
   は、沼に潜む得体の知れないものを嫌悪した。
   あれが、ふたりの分岐点だったのか。

 沼に対するわたしとN子の気持ちのあり方が、そのままそれぞれの恋との接し方となって、二人の人生が変わっていったわけだ。象徴的に存在した沼は、今はどこにあるのか、探してもわからないのだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生き事  10号  (2015/夏)  東京

2015-07-19 10:25:44 | 「あ行」で始まる詩誌
 同人は8人。B6版、85頁で、表紙などに岩佐なをのエッチングなどが使われている。

 「なまえ」坂田瑩子。
 夜の台所にいた魚の名前がわからない。あしたのおかずになる魚が「(名なしで喰われるのは困るな」という。名前がないという状態は存在そのものが危ぶまれることなのだろう。ちいさな家で育ったころのあたしも「なんという名前で呼ばれていたのか/おもいだせない。すると、魚が「(おまえ どうせ魚に喰われちゃうんだよ」というのだ。

   あたしの手がゆらゆらしている
   でもあたしにも名前があった
   海の底で
   つっつかれ喰われ骨だけになって
   名前をおもいだそうとしていた

 こうして、名前を失った途端に主客も転倒してしまうのだ。

 「来るもの」唐作桂子。
 「骨骨と常夜ならぬ/おとたてて来るもの」があるようなのだ。それは雁信のようでもあるのだが、「正体の知れないおとに憑依」している。話者は「息をひそめ」「なにか兆しを」待っている。「日に日に方位はずれてゆき」、しかもそのおとは「死者の耳を聾さんばかり」なのだ。作品のイメージは砂漠の位置までずらしていくようである。最終連は果てしなく拡がっていく。

   あすのおおよその南中時刻
   確率的に空は明るい

 世界はこんな風にどこからか”来るもの”でなり立っているのかもしれない。

 「泳ぐ人」佐々木安美。
 女のアパートを出て妻の待つ家に帰っていく男の中には「流れる川」があるのだ。おそらく、いろいろな速さの流れの川が、誰の中にもあるのだろう。「洪水のような電車が」やってくると、話者は反対側のホームに見かけた男の川の中を泳いでいたのだ。

   さまよっているうちに
   結界を踏んでしまったのか
   迷った道をたどっても
   もう元には戻れない気がした

 最終連で視点は上空の鳥に移る。そして鳥は泳いでいく人をあっさりと視野から捨てるのである。見知らぬ他人との接触がいきなりおこなわれ、その接触は”あっさりと”見捨てられていく。皮肉な捉え方が面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

something  21号 (その2)  (2015/06)  東京

2015-07-12 16:53:16 | ローマ字で始まる詩誌
 野木京子が5編の詩を載せている。その中の「手」では、わたしは「わたしの上方で、ゆっくり揺れている細い片手が見えたように思」うのである。その手は何かを示すのではなく、何かを意味するのでもなく、ただそこに手が在ると教えているだけのようなのだ。

   誰のものでもなく、それはおそらく、空という、どこから何が
   飛んできても、何がどこへ飛んでいっても不思議ではない空間
   の、その一部であるだろう手。

 ただ揺れている手が在るということだけで、わたしは存在し続けることができるようだ。その手は次の作品にも繋がっていく。
 「わたしのとなりに」という作品では、いつのまにか「わたしを外側から見」ている”小さなあぶく”に気づく。

   人は 初めからいないものに戻ってゆくわけのだが
   あなたもわたしと一緒にいなくなってしまうの?
   それでかまわないの? と訊くと
   ”そのためにとなりにいるのだ”と
   それは答えた

 野木は以前にも”ぷくぷく”が訪れてくる作品を書いていた。これらの自分に寄り添ってくれる魅力的な小さな生きものは何なのだろうと思っていた。エッセイ「傍らの小動物」で、野木は「なぜ私には、生きていくうえで詩が必要なのだろう。」と長いあいだ考えてきたという。そして、

    詩を書くことで、自分の心を自分の外
   側に移すことができるから、と、そんな
   ふうに今は考えている。外側へ逃がした
   私の心が、つっかえ棒のように外から私
   を支えてくれる。私の傍らに、私であっ
   て私ではない存在を創り出すことができ
   るから、ということかもしれない。

 これには、ああ、そうか、なるほどなあ、と思わされた。その存在を、野木は「小さな幻の小動物が私の傍らにうずくまっている感覚」として捉えている。それは、ある時は空に浮かぶ手であり、小さなあぶくであり、ぷくぷくに通じるものであるのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする