瀬崎祐の本棚

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詩集「優しい濾過」  高木冨子  (2012/02)  砂子屋書房

2012-04-30 20:58:50 | 詩集
 第1詩集。105頁に30編を収める。高谷和幸の栞が付く。
 ”濾過”という科学用語をタイトルに使用した詩集は珍しく、おや、と思ってしまう。あとがきによれば、「ろか」というスペイン語は愚か者という意味だと友人から聞かされ、「優しい愚か者とはわたしのことと納得もしました」とのこと。それにしても,作品を詩集にまとめることによって何を濾過しようとしたのだろうか(この言葉を冠した作品はない)。
 「夕方に 虹を釣る/真夜中に 月を釣る」とはじまる「釣る」という作品。ここでも”釣る”という言葉の使われ方に、おや、と思う。釣るという行為は、呟きや嘆きを聞き分けて文字を書くことへつながっていくようだ。

   苦い歌を釣り 苦い愛を釣り
   言葉にゆだねる
   放たれる思い さらなる惑い
   虹を釣る
   月を釣る
                     (最終連)

 言葉によって離れたところから自分の方へ引き寄せるものがあるわけだ。それは自分とつながりながらも不安定な危うい均衡のうえにあるようで、最終2行が非常に効果的に効いている。”釣る”という行為は上手い比喩だと思う。
 第二部は「地中海」という章題が付いており、イタリア、ギリシャ、フランスなどの国々、あるいは中国や東南アジアをめぐっての作品となっている。それぞれの国でしっかりと立ち止まって言葉が紡がれており、異国に接することによって豊かになる心というものがあることを感じさせてくれる。
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耳空  7号  (2011/12)  福岡

2012-04-30 00:03:41 | 「ま行」で始まる詩誌
 「回遊 短歌(ショート・ソング)・兎ごよみ」と題して、浦歌無仔、樋口伸子、平野宏が短歌を詠んでいる。昨年の干支、兎にちなんだ歌をメールでやりとりしたようだ。3人の歌が1首ずつでひとかたまりとなり、各14首が載っている。

   わたくしは三日の三時を繰り返す三月うさぎ今すぐに来て(無)

   わたくしは三月三日に生まれます 長あいお耳が邪魔だけど(伸)

   たわし くし は こそぎ剥がすか 血のしぶく三月三日月 痩せの月兎(宏)

 詩の評価ではあまり”上手い””下手”という言い方はしないが、短歌の世界では技術に支えられるところがあるために、そういった観点もあるという。しかし、ここに発表されている3人の短歌が”上手い”のかどうかは、さっぱり判らない。樋口の解説のような添え書きに寄れば、短歌の経験もなく素養もなく、ということらしいのだが、それだけに自由闊達な詠みぶりで面白い。
 短歌となると、妙なしがらみのようなものが取れて、とても自由に言葉を操れるような気がするのだが、それは甘い錯覚にすぎないのだろうか。これはおそらく私(瀬崎)だけの勝手な思い込みなのだが、短歌というものが詩よりももっと虚構世界に近いところに在るように思っているからだろう。
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黒豹  129号  (2012/03)  千葉

2012-04-26 22:29:57 | 「か行」で始まる詩誌
 西田繁氏の追悼号となっており、2010年の詩集「天を仰いで」から4編が掲載されている。寡聞にして氏のお名前は初めて知ったのだが、このようなまっすぐな気持ちの良い詩を書かれていた方がいたのだなと思わされた。
 「影」は、夕陽を背にして道を歩いている作品。自分の前に伸びている自分の影を追いながら歩みをすすめている。陽が落ちていくにしたがって影は長くなっていく。「何処まで行っても 追いつけない一本道の影を/一人だけで追いかけるのは むなしいものだ」と、誰にでも共感できる情景を的確に捉えている。そして、

   日頃 いつも考えている 何か忘れているものを
   陽の沈まぬうちに 探しあてたいと
   ますます 歩幅をひろく 影を追いかける

   歩くたびに 話しかけてくる影を
   踏み絵のように 踏みながら
   今日も 影といっしょに 歩いている
                     (最終2連)

 作品は行をすすめるにしたがって次第に広い意味を担うようになり、ついには普遍的な”影”にまで至っている。そこには難しい理屈は何もなく、それでいて、言われてみればたしかに、ああそうだな、と気付かされるようなことが述べられている。余分な説明を排していて、すっと読み手の気持ちに入ってくるような作品である。
 ご冥福をお祈りします。
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詩集「緩楽章」  清野裕子  (2012/03)  ジャンクション・ハーベスト

2012-04-24 22:09:15 | 詩集
 第5詩集。ソフト・カバーの造本に水彩画をあしらった表紙カバーが良くマッチしている。92頁に18編を収めている。
 音楽のこと、闘病して亡くなった父のこと、そして母のこと。素直な感想だけが浮かんでくるような、やさしい気持ちを作品が持っている。著者は自覚してはいないのだろうけれども、他者をはじめとする自分を囲む事象、それは天候であったり風景であったりもするのだが、それらに優しいのだろう。
 たとえば「言葉ではなく」。なにかの折に先生は、手で何かを作り、それを私の気持ちだと言ってゆっくりと差し出して下さい、と言ったのである。先生が差し出した何かを「受け取る仕草をすると/ふんわりと風が吹いたような気がした」のである。作品を読んでいると、言葉ではなく、いや、言葉にはならないけれども伝えたいものを、そうやって伝えることが本当にできそうだと思えてくる。病室に横たわっている父はもう話す力もないようなのだ。ただこちらの問いかけに「親指とひとさし指で丸を作る/この仕草だけが 父の言葉のすべて」なのだ。そんな父の顔をじっと見ている。

   病室の階段を降りながら
   いつかこんな日があったような気がする
   私は生まれたばかりで
   見降ろしているのが父だった
   じっと見ること
   それがすべてだった
                       (最終連)

 かっての日の有り様とは立場が逆転している。かっての父がそうであったように、今、私は何もできなくなった父のすべてを包みこもうとしているのだろう。
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ガーネット  66号  (2012/03)  兵庫

2012-04-22 18:19:45 | 「か行」で始まる詩誌
 神尾和寿が4編を発表している。いずれも10数行の短い行わけ詩なのだが、軽妙な語り口が孕む捻れた物語に魅了される。
 たとえば「いつもの茄子」。「いつもの優等生の あの娘(こ)が/今朝は 真っ赤に/髪の毛を染め上げている」とはじまる。彼女になにが起きたのか、この変化はなにかの決意の表れなのだろうか、と読む者は訝しく思う。しかし、そんな思いに肩すかしをするように、作品は、彼女がいつもの卵焼きを食べ、茄子の味噌汁を飲んできていると、物語から遠ざかろうとする。そして最終部分で、

   運命のようにチャイムが鳴る
   ぼくは注目する
   起立をするのだろうか

 いつもと何も変わっていない”あの娘(こ)”が、何でもない場面で行動の選択を迫られている。ここに、大阪の高等学校で問題になっている教職員の君が代起立問題を想起することができるかもしれない。しかし、そのような時事的な社会風刺と捉えなくてもかまわないだけの、行動の選択に対する価値判断の理不尽さを普遍的な問題として突きつけている。それを、このような短く平易な表現でおこなっていることに感心してしまう。
 「歓楽街」では、大きな図書館があり、結婚相談所、自殺相談所などがあると説明される。これが”歓楽街”か?と思うところだが、そんな街では、

   もう少し
   通りをぶらぶらすれば
   圧倒的なボディが口紅を塗って街角で待っている はず
   となると
   将来的には お金が必要だ

 ここにも作者独特の肩すかし感がある。生きている以上は、やはり街は”歓楽をするところ”なのだろう。
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