瀬崎祐の本棚

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コウホネ  28号  (2011/05)  栃木

2011-05-31 21:58:29 | 「か行」で始まる詩誌
 「ままごと」石岡チイ。
 句読点を排した散文詩形で、ぽつりぽつりと、意味の不明な不思議な描写がなされている。たとえば1連目では、深紅のカンナが咲いている夜道で「帰りはここを一人で通るのだから おぼえていかなければ」と思っている。これから何かの儀式、人の目からは遠ざけられたような儀式がおこなわれる雰囲気を伝えてくる。そして2連目、冷たい酒を口移しに冷たい肌の人に飲ませていて、「私の胸の下で微かに喉の音がする 今ごろになって」となる。いったい、夜のままごとでは何をしているのだ。

   欠けた茶碗の中の泥から生まれた私の胎児が
   浅瀬を流れ去るのが見えた 消し炭のようだっ
   た

   私はおかあさんなので 赤飯を蒸かしましょ
   う イヌ蓼の花を沢山しごいてきたのに あ
   の子はもう帰ってしまったの?どうしよう

 現実世界を模しておこなわれるのが”ままごと”であるが、模しているだけにその元の事柄の大切な部分だけが抽出されてもいる。それは事柄の不安な部分であったり、残酷な部分であったりする。その部分だけがとりだされて、儀式としておこなわれるのだ。
 だから”ままごと”は、ついには死にいたる儀式になる。この作品でも、朝になる頃には筵の上で私は骨に変容している。夜の間に覚えておいた帰り道なんて、どこにもなかったのだ。幻想的な魅力の作品である。
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タルタ  17号  (2011/05) 

2011-05-30 19:42:12 | 「た行」で始まる詩誌
 「カナリア屋」田中裕子。
 ゆでたまごを裏ごししたものをカナリアは食べるようなのだ。「卵のカロチンが羽の色にいい」らしい。そんな

   カナリア屋のとぎれとぎれの話を聞くうちに
   客はだんだん静かになって
   一羽の鳥も買わずに来た道を帰るのだった
   客の背がちいさくなるのが見える

 読みすすむうちに、父がカナリア屋をしていたことがあり、これらは私が記憶している光景なのだとわかってくる。しかし、客が商品を買わずに帰ってしまうような話をする父は、いったいどんな商売をしていたのだろうと、不思議に思える。でも、このカナリア屋の光景を、”私”は「時折り何かのあいまに取り出して眺め」「またしまう」のだ。きれいと思いながら。

   夕暮れ時になると
   もうない家に帰りたいとくり返す人の話を聞いた
   長い年月に磨かれていく記憶の家だ
   いつか私も同じことを言うとわかる
                         (最終連)

 カナリア屋は私のルーツとなっているのだろう。他人には全く意味のない光景であっても、その光景を思いだせることによって、ぐらついた自分の立ち位置を確かめることができるのだろう。具体的な田中のカナリア屋の記憶についての記述が、誰もが秘かに持っているルーツへの依存の感覚へと、昇華されている。
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潮流詩派  225号  (2011/04)  東京

2011-05-26 21:11:19 | 「た行」で始まる詩誌
 「風のいれもの」麻生直子。
 まずタイトルに惹かれる。吹きすぎる風が運ぶものが、なにか大切なものであることを感じさせる。風に吹かれながら(風に乗って)海を見に行くのだろう。故郷の町では、風や海がすべての生きることに必要なものを運んできてくれたのだろう。自然と共にあった生活があったのだろう。だから、風や海は故郷の町の守り神であったのだ。

   わたしも かなたよりもたらされた存在なのだ
   風のかいなに抱かれて
   あなたに逢うために飛んでいった

 海の底はわたしたちの故郷であり、あなたは「帰りましょう/帰りましょうよ」と呼んでいるのだ。しかし、今は帰ることはかなわないのだろう。だから思いだけが風に乗って海の方へ飛んで行くのだろう。
最終連に「破れ頭巾に蓑笠の ギョロ目の面影(ひと)」が登場する。この人物が何者であるのか不明だったが、故郷の地に関係する漂泊の俳人でもあるのだろうかと想像をたくましくした。その人が書き記したという「浜辺の記述」は、

   あれも
   風の塔から送電される
   異(こと)ノ波(は)
   光の天空へと
               (最終部分)

 精神的なことだけではない望郷の念が伝わってくる。透明感のある美しい詩篇。
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詩集「化車」   廿楽順治  (2011/ )  思潮社

2011-05-25 22:21:25 | 詩集
 1頁16行組みの152頁が3章に分けられている。「爆母」には見開き2頁で収まる長さの作品が9編、「漏刻」にはうだがわしんぶんの絵(木版画のようだ)と組みあわされた19頁の同題の作品が1編、「化車」には30頁近い長い作品などが4編、である。このように、1冊の詩集の中にさまざまな長さ、形式の作品が収められている。
 とはいっても廿楽の作品はどれも軽妙である。言葉が現世の約束ごとから切り離された地点で舞っているからだ。
 たとえば、大好きな作品「みじかい」では、「おどろくほどみじかいひと」が描かれている。「かかとから首まで/どうしてあんなにみじかいのか」というと、「馬をちゃんとたべてこなかった」ために死んでいるからである。この人を食ったようなユーモア感覚がふわふわとしている。しかし、作者は必死になって真面目な論理を組み立てているのにちがいない。そこから廿楽の作品の魅力が生まれてくる。

   ひとがばらばらになってもふしぎではないが
   そう
   はならない
   そんなに政治が光るかよ
   みじかいおじさんが
   急にぶんれつしてふえた
   (ああ)
   たべた馬のあぶらがおもいだせねえ
                        (最終部分)

 「化車」の章に収められた作品群はロード・ムービーを見ているような印象を与えてくる。作者は立ち止まらない。言葉はある位置に到達することによって、また次の地点へ行くための言葉が見えてくる。その緊張感のようなものが心地よい。やはり大真面目なのだ。一部を引くことにそれほどの意味があるとも思えないが、言葉がこのように連鎖しているという情景を紹介すると、

   ふうけいは
   箱にはいっているのでとてもあったかい
   朝
   忘れてきた
   おべんとうのようなものだ
   ひとのにほんごはいつまでもおわってくれない
   わたし
   の現象はおわった
   それから野菜をかいにいく
                       (「化車」より)

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Quake  49号  (2011/05)  神奈川

2011-05-24 18:59:53 | ローマ字で始まる詩誌
 四谷コタンで弾き語りライブを定期的におこなっている奥野の個人誌。A6版14頁に6編を載せている。
 「雑草のわたし」奥野祐子。
 「わたし」は、「根っこから 引き抜かれ」「黒土の上に放り出された」雑草のような存在だと叫んでいる。「ところかまわず 根を 張り巡らせ」黒い土の中でひそかに伸びている状態だったのに、こんなにむき出しにされてしまっては何もできないのだという。
 このやりどころのない怒りのような感情はよく伝わるものだろう。人目につかない自分の世界を形成してそれなりに頑張っていたはずなのに、こんなに衆目に曝される状態に置かれてしまうなんて、といった理不尽な仕打ちに対する怒り、苛立ちである。そんなわたしのことを人は「やっと 日の目を見たんだね」と言うのだが、

   でも わたし
   花なんか 絶対に咲かせない
   無邪気に触れると
   ほら 指の先から血が噴き出すよ
   まっすぐに伸びた硬い葉
   頑固に濃い緑
   根っこから 引き抜かれて
   大地に放り出された
   そのうち
   ものすごいにおいを振りまいて
   腐ってやる!
                   (最終部分)

 ほとんど技巧らしいものも用いずに、挑戦的に思いをぶつけてきている。その、あまりの無防備さに思わず心配になるほどだ。この思いが蟷螂の斧にも似ていることを、作者は充分に知っている。だからこそ、せめてはこの作品を書かなければならなかったのだろう。
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