「ままごと」石岡チイ。
句読点を排した散文詩形で、ぽつりぽつりと、意味の不明な不思議な描写がなされている。たとえば1連目では、深紅のカンナが咲いている夜道で「帰りはここを一人で通るのだから おぼえていかなければ」と思っている。これから何かの儀式、人の目からは遠ざけられたような儀式がおこなわれる雰囲気を伝えてくる。そして2連目、冷たい酒を口移しに冷たい肌の人に飲ませていて、「私の胸の下で微かに喉の音がする 今ごろになって」となる。いったい、夜のままごとでは何をしているのだ。
欠けた茶碗の中の泥から生まれた私の胎児が
浅瀬を流れ去るのが見えた 消し炭のようだっ
た
私はおかあさんなので 赤飯を蒸かしましょ
う イヌ蓼の花を沢山しごいてきたのに あ
の子はもう帰ってしまったの?どうしよう
現実世界を模しておこなわれるのが”ままごと”であるが、模しているだけにその元の事柄の大切な部分だけが抽出されてもいる。それは事柄の不安な部分であったり、残酷な部分であったりする。その部分だけがとりだされて、儀式としておこなわれるのだ。
だから”ままごと”は、ついには死にいたる儀式になる。この作品でも、朝になる頃には筵の上で私は骨に変容している。夜の間に覚えておいた帰り道なんて、どこにもなかったのだ。幻想的な魅力の作品である。
句読点を排した散文詩形で、ぽつりぽつりと、意味の不明な不思議な描写がなされている。たとえば1連目では、深紅のカンナが咲いている夜道で「帰りはここを一人で通るのだから おぼえていかなければ」と思っている。これから何かの儀式、人の目からは遠ざけられたような儀式がおこなわれる雰囲気を伝えてくる。そして2連目、冷たい酒を口移しに冷たい肌の人に飲ませていて、「私の胸の下で微かに喉の音がする 今ごろになって」となる。いったい、夜のままごとでは何をしているのだ。
欠けた茶碗の中の泥から生まれた私の胎児が
浅瀬を流れ去るのが見えた 消し炭のようだっ
た
私はおかあさんなので 赤飯を蒸かしましょ
う イヌ蓼の花を沢山しごいてきたのに あ
の子はもう帰ってしまったの?どうしよう
現実世界を模しておこなわれるのが”ままごと”であるが、模しているだけにその元の事柄の大切な部分だけが抽出されてもいる。それは事柄の不安な部分であったり、残酷な部分であったりする。その部分だけがとりだされて、儀式としておこなわれるのだ。
だから”ままごと”は、ついには死にいたる儀式になる。この作品でも、朝になる頃には筵の上で私は骨に変容している。夜の間に覚えておいた帰り道なんて、どこにもなかったのだ。幻想的な魅力の作品である。