瀬崎祐の本棚

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詩集「雑草屋」  田中武  (2009/03)  花神社

2009-04-23 23:35:10 | 詩集
 第4詩集、91頁に29編を収める。
 3章に分かれているのだが、「無人島雑記」と題された第1章の散文詩8作品が非常に面白い。ある島での生活を描くといった趣向の連作で、無人島で踏切番をしている話や、深さがほとんどない湖の話などである。「H氏との交遊」には、詩人H氏が登場するが、無人島であるからには当然「本来、かれは居ないことになっている。向こうの論理に従えばぼくが居ないことになるのだからおあいこということ」になる。これは、他者というものが自分にとってどのような意味を持つのかということの問いかけである。ぼくは不在の掘っ建て小屋に石を投げてくるのだが、

   翌朝、昨日の石とおぼしいものが窓の外に置かれてい
  る。きれいに洗われ、何かの顔が描いてある。ぼくの顔
  ではない。これはかれの好意なのか悪意なのか、未だよ
  く分からない              (最終部分)

 答えの見つけにくい問題に直面して、作者は「よく分からない」と正直である。とらえどころがないものをなんとか言葉にしようとしている優しさのようなものが、ここにはある。他人の存在に規定されない自分そのものをとらえ直すための舞台として、無人島を必要としたのであろう。それが物語として上手く機能している。
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ガニメデ  45号  (2009/04)  東京

2009-04-22 23:45:49 | 「か行」で始まる詩誌
 「帰郷」渡辺めぐみ。冬の産業道路に立ち尽くしている。そうやって夜の道にいて、「人の意志」が運ばれたことや「心急く人の希望と苦難」が運ばれたことを思っている。今、自分はこの場所にいるのだが、これまでにこの場所を通りすぎていったさまざまな人々の思いがあったことを受けとめている。

   無言で排気ガスにむせながら
   ずっとずっと
   この道に
   私の翼を置いてゆく
   失われたわたしの愛の形を置いてゆく

 これまでの渡辺の作品に比して、周りの世界とぎしぎしと軋むような部分が少なくなり、それだけ自分の内側を深く覗いているように感じられる。故のない苛立ちから少し離れて、苛立ちをおこしていたそのものを捉えようとしている。そして、それに正面から向き合おうとしているのが感じられる。そして、ついには自らが道になろうとするのだ。

   わたしは堅い堅いアスファルトに膝を折る
   限られた時間道自身となるために     (最終部分)
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ヒーメロス  9号  (2009/03)  千葉

2009-04-21 19:08:36 | 「は行」で始まる詩誌
 「天人の帰還」河江伊久。帰ってきた旅人の上着が桜の木に掛けられている。旅人の姿はなく、私は上着にあいに行くのだ。私は上着の周りの夜空に、さまざまのくにの人々の唄や踊りをみる。この作品では、旅から帰った旅人は一度も姿を現わさい。ただ上着だけが旅から戻ってきたようなのだ。人ははたして旅から戻ったのだろうか。それとも、旅をすることによって人は溶けて消失してしまったのだろうか。旅とはそういうものなのだろうか。そして、ある夕方には上着もなくなっていたのだ。

   犯した罪を償う旅にでたのか。
   今、九十九折の山道を登っているのか。
   雷雨に打たれながら岩盤を這い上がっているのか。
   野の花々に抱かれて佇む墓標に見とれているのか。

 旅とは何をすることなのだろうか。旅から戻るということはどういうことなのだろうか。旅をしてきたからには、人は同じ姿ではなく、同じ場所へ戻れるはずもない。それならば、また次の旅が用意されるのだろう。 
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飛揚  48号  (2009/01)  東京

2009-04-20 09:52:15 | 「は行」で始まる詩誌
 「キッチン女」今岡貴江。こんなことを書くと女性からは反発を食らうのだろうが、肉体的以上に精神的に女性は男性とは異なっている。そして、女性がもつ日常生活への埋没度は、おそらく男性の場合より粘っこいのではないかと想像してしまう。なんといっても女性は台所という居住地を有している。日常生活に絡まれているというそんな女性特有の苛立ちが、他者への残酷さなども交えて、マシンガン・トークのように展開される作品。その理不尽な論理の持つしたたかな迫力がすごい。それにしても、キッチンと台所はどう違うのだろうか?

   台所から直角に出てきたわたしは
   じょうずに笑ったり
   振りきれんばかりにクビをたてに振ることをしないから
   あの女はキッチンじゃないとウワサされ
   やっぱりそうかとクビをたてに振る女たちに取り囲まれて
   いよいよほんとうの台所になる

 男性からの説明は一切受け付けようとしない、男性に理解を求めようとはしないで無条件に受け入れることを要求してくる。理解不能、説得不能。だから、女はどこまでも強い。
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雨期  52号  (2009/02)  埼玉

2009-04-17 20:02:00 | 「あ行」で始まる詩誌
 「送迎船」荻悦子。自分を迎えにきた船に乗って、人が集まるところへ向かっているようだ。私の傍らでされている会話が聞こえてくるのだが、その話の中には「私の知らない/むかしの私らしい少女の影」がでてくる。

   壁にもたれ
   話している人たちも
   そばに座っている私に気づかない
   この私の他に
   知らない私の影が
   同じ船で
   同じ会場へ運ばれている

 私が乗っている船はどこに向かっているのだろうか。そこで出会うかもしれない少女は、なにか懐かしいような、それでいて絶対に会ってはいけないような、そんな存在のものに思えてくる。
 作品には、ふわぁとして夢の中に半分入っているような心地よさがある。その一方で、見えるもの、聞こえるものの輪郭が曖昧で、自分の動作もどこかままならないような不安感も隠されている印象的な作品。
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