瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

「CROSS ROAD」 22号  (2023/10)  三重

2023-10-31 18:43:51 | ローマ字で始まる詩誌
北川朱実の個人誌。16頁に詩3編、エッセイ2編を載せている。

「乾杯!」には海岸通りの廃屋が描かれている。ガムテープでふさがれた郵便受け、日焼けしてはずれたカーテン、割れたガラスの風鈴。それらは時の流れを背負って、この世界の記憶から忘れられようとしているわけだ。明るいのに誰の姿もないような寂寥が支配する光景のそんななかで、話者は縁が欠けたワイングラスを目にする。

   もうすぐ草木に埋もれる
   その前にと

   見えない手が グラスを高く上げる
   乾杯!

何と粋な計らいであるだろうか。話者が「サファイアブルーの海を映し」たそのグラスを最後に乾杯グラスにしたのは、流れ去っていく時に敬意を表したからではないだろうか。

北川の連載エッセイは毎号楽しみに読んでいる。
「伝説のプレイヤー」は22回目で、今回は「ため息が出るほど美しい」との題でハービー・ハンコックだった。私(瀬崎)もハンコックの「処女航海」や「スピーク・ライク・ア・チャイルド」は好きだった。1973年頃からの電子ロック調のものにはついていけなかったが、チック・コリアとの楽しい掛け合いのピアノ・デュオ「イン・コンサート」は愛聴盤である。そんなハンコックの魅力を見開き2頁のエッセイで伝えてくる。そうか、伊勢湾岸道路のドライブにもハンコックは合うのだな。

もう一つのエッセイ「路地漂流」も22回目。こちらは「魔法にかかったように」の題で武田泰淳夫人の鈴木百合子について語っている。彼女の人柄、生き様がよく判るエピソードが簡明に書かれている。この簡明さで鈴木(武田)百合子の魅力を十分に伝えてくる北川の筆力には感心する。鈴木百合子については「あとがき」でも書かれていた。

北川のこういう文章を読むと、(心の中や資料の茫漠とした)風景の中からどこを切り取ってどのように的確に書きあらわすか、ということの大切さをあらためて思い知らされる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「水族館はこわいところ」 中塚鞠子 (2023/09) 思潮社

2023-10-24 22:28:39 | 詩集
第6詩集。127頁に40編を収める。

「肉じゃがを煮る」では、「そろそろ始末をつけなくては」と思いながらもなかなか決心できない私が「ぐずぐずと肉じゃがを煮ている」。肉じゃがは焦らずに煮込まなければならない料理のようだ。手間暇が必要とするその時間を私はなにかの言い訳にしたかったのかもしれないのだが、「どこかへ逃げることを考え」たりもしてしまう。最終部分は、

   鍋の中から肉じゃがが手招きする
   その手を握ると
   あっという間に引きずり込まれた
   弱った心は取り込まれやすいのだ
   肉じゃががコトコト煮えている
   煮ているのは誰だろう

煮込んでいればじゃが芋の形は少しずつ崩れてきて、味も他のものに浸食されてくるわけだ。決心をしかねているあいだに、私自身の形が少し崩れてきていることを体感しているのかもしれない。

このように書くことによって自分の立ち位置をたしかめているのだが、それは自分の有り様を確かめていることでもある。しかし、それは書くことによってさらに混迷の度合いを深めることもあるのだろう。
「飛べ」、「水族館はこわいところ」は詩誌発表時に簡単な紹介記事を書いた作品だが、そこでの話者はいつしか水の中で変容している。この変身譚は、話者が心のどこかで密かに望んでいたものだったのだろうか。

「ふるさと」は、「いま/わたしの中から/出ていったものはなんだろう」と始まる。それはわたし自身で、あとに残されたのは双子の妹なのだ、という。ここにも、今のわたしではないものへさまよい出る、という変身譚に通じる希求がある。最終部分は、

   私が見たのは だれ
   どんなに探しても 誰に聞いても
   妹などいはしないのだった
   あれは
   生まれることなく死んだわたしの娘?
   いやあれは わたし
   こんなところに

書き上げた作品のあとで佇むのは、そうやって懸命にたどり着いた場所なのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「青の引力」 椿美砂子 (2023/09) 土曜美術社出版販売

2023-10-20 21:01:32 | 詩集
第2詩集か。110頁に24編を収める。

「言葉」。バスのなかで何語かわからない言葉で声を掛けられる。夜になっても、」わたしは「知らずに落としてしまった言葉を探していた」のだ。意味が通じなかった言葉だったからこそ探すべきものになったのかもしれない。

   拾うのはゼンマイ仕掛けの夢ばかりだった
   夢というのは不思議 自分以外の夢はみな
   価値のないようにみえる 蝶の標本が落ちていた これはわたしが欲しかったもの

ここには、言葉が持つもの、伝えるものは意味だけではないということに触れている感触がある。
「ふたつの指先」でもあなたとの間に漂うことばが描かれていた。

「水色の地球」や「向日葵の小道」はうわべは思い出を語っているようにみえる。しかし、そこにあらわれてくるものはその思い出から生まれる新しい物語である。思い出のなかの父や母は、今のわたしのためにもういちど動きはじめるのだ。

   こんなものまで入れてと
   これは地球だなと
   水色の目玉を摘みながら
   そろそろ帰ってくるかなと
   父も二階の窓から
   公園をみおろし
   水色のわたしを探している
               (「水色の地球」最終部分)

実はこれまで行ったこともない場所を目指して歩いているのだろう。

「十一歳のノオト」は少年だったような夏の日の思い出。空、風、音楽とともに自転車に乗った話者はどこまでもどこかへ行こうとする。そんな日々が積みかさなって、今、その思い出を書きとめる話者がいるわけだ。それは”今のわたしのノオト”であるわけだ。

   夏休み帳の最後のペイジ
   間違った風景はひとつもない
   そう書き記すと
   夏がノオトのなかにゆっくりと沈んでいった

詩行は爽やかな感じをたずさえている。違和感なく身体に馴染んできながら、しかし、気づけばどこかがかすかに捻れてもいるようなのだ。そこが魅力となっている詩集だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩誌「SPACE」 172号  (2023/10) 高知

2023-10-17 23:01:54 | ローマ字で始まる詩誌
大家正志が隔月で精力的に発行している詩誌。72頁に26人の詩作品、2人の俳句、それにコラム、エッセイを載せている。

「給食ミルク」草野早苗。
苦手で飲みきれなかった学校給食のミルクを渡辺君は飲み干してくれていた。渡辺君はどんどん成長し、私は背が伸びないままだった。久しぶりに出会った渡辺君は「ごつごつした体格の市会議員になっていた」のだ。最終部分は、

   私はムスカリのままの背丈で
   いつもカルシウムとリンが不足していて
   旅先の修道院で庭掃除などしている

この肩すかしのようでいながら過不足のないストンとした着地はお見事。

「秋」木野ふみ。
月が、小川が、風が、変わる。虫たちも素直に、あるいは戸惑いながら交代していく。最終部分は、

   とてもすばやく移動して
   なにかがこっそり守られる

   秋のはじまりはいつもこんなもの

気がついたときには季節が移ろっている。その感じが手に触れるように巧みに描かれていた。

「このごろ」大家正志。
人を求めているのか、それとも人から遠ざかろうとしているのか。どちらの場合も根底にはおのれの弱さのようなものの自覚があるのではないだろうか。そんなことを考えさせる作品。真っ暗な夜になり、すべてを見なくてすむとほっとしたときに、

   そして
   ひと息つこうとしたとき
   自分が自分から出ていこうとしている気配に気づいて
   おもわず
   ノンノンと声をだしてしまった
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「さみしいファントム」 塚本敏雄 (2023/05) 思潮社

2023-10-13 21:52:26 | 詩集
第5詩集。91頁に21編を収める。

「さみしいファントム」は、「路上を行くひとに/影がない/転写が生の速度に追いつかないのだ」と始まる。ファントムは「時間の規範を失」い、愛しさだけが「影となって溶け出」しているのだ。この世界にはそんなものがいたるところにあふれているのだろう。

   さようなら さみしいファントム
   歪む街路 痺れが広がっていく夕暮れの街
   そして
   影をなくした
   路上のひとびと

「霧の夜」の世界は夢幻である。風に揺れる船では若いころの母の顔の人が、「船はいつ出ますか/と尋ねて」きたりする。そして、わたしが「船はもう出てますよ/そう答えると/驚いた様子」をするのである。おそらく、どこに向かう船なのかは誰も問わなくて、そのことは誰もが知っているのだろう。背後ではまたひとつ重い扉の閉まる音がして、

   風は変わらずに吹きつのる
   転ばぬようにと気をつけて
   手すりにつかまり
   必死に歩くうちに
   長い年月が経ってしまった

「ともしび」や「祝祭の夜に」などでは、詩集のタイトル通りに、生者と死者が少しおずおずとした佇まいで共に存在している。そこには、互いのことを気遣いながらも、もう触れあうことはできない相手なのだと観念しているようだ。ファントムそのものもそうなのだろうが、そんな関係そのものがもたらす寂しさが漂っている。

詩集後半のいくつもの作品にあらわれる「妻」「つま」「あなた」にも、両方の世界の端境に佇んでいるような雰囲気がある。
「秋の入り口で」の妻は「しきりとクラゲが見たいと言う」のだ。そんな妻と縁側で月見をしていると、妻は「ねえ もう死んでもいい?」と尋ねる。わたしが「ダメだよ/秋は始まったばかりだよ」と答えると、「いまは秋なの?」と言う。最終部分は、

   わたし 歩くの遅いから
   先に行っていいよ
   だいじょうぶ
   ちゃんと追いつくまで待ってるから
   秋はまだ
   始まったばかりだから

ちょっとでも誤ればその存在を壊しかねない相手を、そっと護ってやろうとしている思いやりが切ない。

「あたらしい不完全さで」については、「あたらしいぞわたしは」の題で詩誌発表された時に簡単な感想を書いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする