瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「鳥をさがして」 漆原正雄 (2021/03) 私家版

2021-03-29 11:11:47 | 詩集
 第2詩集。65頁。Ⅰ章に行分け詩8編、Ⅱ章に散文詩(窓のかたちをした詩編、としている)14編、そして最後に11頁に及ぶ長編散文詩を置いている。

 「白線まで」。他者との繋がりを求めようとすると、通り過ぎるものとの接触の危険を遠ざけるために「白線の内側までお下がりください」と言われてしまう。この感覚の捉え方が巧みだ。最終連は、

   飼い慣らすように水道の蛇口をひねる、それから
   あどけないコップの行方を捜す、首を曲げて仮死を洗う
   予想どおりゆりちゃんの背中にもあった、もう下がれない、と思った

いつもぎりぎりのところまで下がってしまっているのかもしれない。そこで踏みとどまらなければ、仮死状態はいつまでも払拭できないのだろう。視覚、聴覚、そして触覚で捉えられたものが丹念に描写され、そこから自分の奥に生じてくるものを形づくっている。こうした模索の軌跡こそが意味を持つのだろうと考えたりもする。

 「出来の悪い被写体」。”被写体”という意識は、他者にとっての存在がどのようなものかということだろう。電車の揺れのなかで、話者は彼を被写体として捉える。視覚で捉え客観的に描写する行為には、あくまでも彼が他者であるという認識がある。それこそ”白線”で区切られている関係であり、「乗客はみな一様に、水平に浸されている、ということ」だったりするわけだ。

   私もまた、しきりにうごめく人影の重なりのなかで、
   誰もが嵌め殺しだと、出来の悪い被写体なんだと、
   日々何かしら不安と軋みを抱えながら、
   電車の揺れに身をゆだねている、この、どうしようもなさ

 自分もまた他者にとっては被写体であるとの認識が、話者をかなり辛い地点に連れて行っている。

 最後に置かれた長編詩「鳥をさがして」は、己の中にあるものを丹念に取り出している独白体の作品。途中に挟み込まれるゴシック体で表記された2~3行の部分では、そんな己を他者として観ている。己の中にいる鳥は何を囀り、何をもたらすのだろうか。読みごたえのある作品だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「交野が原」 90号 (2020/04) 大阪(続)

2021-03-24 08:03:55 | 詩集
同誌からさらに2つの作品を紹介する。

「夜明けまで」中本道代。
眠りによっても一日はリセットできなくて、さらに混迷の中に彷徨っていくようなのだ。面影となってあらわれるひとびとは話者をさらに途惑わせる。

   まとわりつく草を分け垂れてくる樹の枝をくぐると
   奥で待っている人
   枯葉の浮かぶ沼のほとりに立ち
   こちらに顔を向けないでいる
   見知らぬ私

もう私自身も他者のように不確かな存在になっててしまったのだろうか。確かには捉えられない思いばかりがいつまでも渦巻いている。話者は沼のほとりを回っている犬に「お前が呼ぶ夜明けはもう/人の世界にはないものなのだろうか」と問いかけている。夜明けを待つ焦燥もあったのに、その夜明けさえも新たにはじまる混迷の始まりであるのかもしれない。何かとても辛いところにいる。

「カーテン」峯澤典子。
わたしは「夏のくすりをもらいに 海のそばの診療所へ出かけ」る。しかし、いつまで経っても順番が来ないのである。かすかな靴音と波の音だけがしていて、本当はここはわたしの居る場所ではないのかもしれない。だからわたしは「なにかが去り ふたたび訪れるまえぶれのような」ドアのなかをそっと覗いたりするのである。

   だれかの前世か来世の部屋を浸す
   波音のカーテンは 消え
   母が若いころに履いていたという
   青いバレエシューズのつまさきは
   どこかの水辺の
   白い砂のせいで
   やわらかな寝息のように湿っていた

わたしは母のかわりにくすりをもらいに来たのだったが、ここは若いころの母とわたしが重なりあう場所だったのかもしれない。時の流れが柔らかくたわんでいるような、淡い情景の作品だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「交野が原」 90号 (2020/04) 大阪

2021-03-22 11:11:52 | 「か行」で始まる詩誌
金堀則夫編集・発行の個人誌だが、その内容の充実ぶりには毎回感嘆させられる。今号には30人の詩作品、3篇の評論・エッセイ、それに14篇の書評が載っている。

「そんなことも言った」野木京子。
「わたしの背中から出てきたかもしれない」ふたりのひとが訪ねてくる。そのひとたちは絡み合って伸びていく。犬のようないきものもあらわれる。

   それらのひとをいつまでもいとおしく思うのは
   二度目に失うことがもうないから
   生きているひとのことはいつも見失い続けているね と
   尾を丸めたいきものは
   そんなことも言った

不思議な”犬のようないきもの”は、話者を確かなところへ導いてくれる存在であるようだ。野木の作品では、時おりこうした奇妙な生きものがあらわれる。それはまるで、自分のなかに居るもう一人の自分が倒れかかる話者を支えてくれるようなのだ。そうやって、ふたりで危うい場所でのバランスを取りながら遠いところにまで行こうとしているのだろう。

「翡翠池行き」北原千代。
翡翠池には五人ひと組で行く習いなのだ。池の翡翠の水には「吸う水と逃げる水があり」、胎の奥の渦巻きにつづいているようなのだ。帰りは(なぜか)四人になっていて、男衆が濁り酒を飲んでいると一人ずついなくなっていく。最終部分は、

   鉄鍋を仕舞っていると からん と音がして 翡翠玉が
   ころがり落ちました ひとおもいに玉を飲み込むと も
   うそこらいちめん 翡翠色の夜です

ついには話者もいずこかへ消えていくようで、物語もそこで途絶える。このように、習いは妖しい衣装をまとっている。作品が始まったときには物語はすでに大きくうねっており、読む者はいきなりその中に放り込まれる。その目的も意味も何も分かないそんな習いに導かれて、読む者もどこかへ連れ去られていくのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「惑星」 光冨幾耶 (2021/01) オオカミ編集室

2021-03-18 18:48:25 | 詩集
 第5詩集。77頁に11編の作品を収める。表紙絵は詩誌「オオカミ」と同じ志久浩介の印象的なもの。

 作品は4つの章に分けられているが、最後の章の作品を除いては各行が中央揃えで提示されている。視覚的には声紋を見ているようで、行の長短にしたがって言葉は呟かれたり叫ばれたりしながら迫ってくる。

 「水」。わたくしの腕にはいくつもの目が生えてきて、あなたの指をくらがりの底へ落としていく。

        あなたに 知ってほしくて
     わたくしの肌を うすく一枚そぎます
   そうして あなた の 指 が しずむ とき
     わたくしの腕に 目がひとつ生まれます
       わたくしの肌が そがれるとき
     わたくしの脚に 鱗が一枚うまれます

 そしてわたくしはたくさんの目を保つ魚になっていき、「あなたは わたくしという洞窟にとじ込められた/泪をたたえた 湖なの」だ。話者は湖に捉えられた魚であると同時に、その湖を入れた洞窟でもあるという。話者とあなたの包み込み包み込まれる関係が絡み合っている。それはあなたをどこまでも愛したいとの希求と、あなたにどこまでも愛されたいとの希求が渾然としている有様なのだろうか。

 このように、どの作品の中ででも話者はあなたとの繋がりを必死に確かめようとしている。やがては、あなたは特定の人物ではなく、この世界に秩序をもたらしている存在のものとなっていく。愛は宗教的に昇華されていくようなのだ。そして作品「わたくしの果てには」では、話者は生の輪廻にたどり着いている。「灯火をかかげ」「血をあたえ」「内蔵を捧げる」かのようなのだ。

   焔がとびかう
   ひとつの引責が地上に落ち
   わたくしというひとつの輪廻が消滅する

  つづく作品「ひとはひとが滅びるのを」では、わたくしとあなたがいる「地上は「楽園」そのものとなり」、そこに「浄土の華が咲く」のだ。そんな地上のある「惑星」はどのような場所なのだろうか。
 無信仰の私(瀬崎)には到底触れることのできない仏教的な思想が、この詩集の根底には流れているのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩の鍵穴 13号 (2021/03) / 詩食 06号  (2021/01)

2021-03-15 10:21:53 | 詩集
詩の鍵穴 13号 (2021/03)
 柏木勇一の個人誌。A3用紙を折りたたんで4頁として、3段組で印刷している。詩作品4編とエッセイを載せている。カラー写真や、(おそらく作者自身の)パステル画をあしらって、軽快な体裁である。
 「落葉」。話者は青森にあるハンセン病療養所に手紙を書きはじめている。五十五年前に訪れた際に保養園が出している機関誌をもらったのだ。そこには「十七歳で入所、二十歳で逝去された若者の作品」が載っていたのだ。

   暗き中に祖母は起きいで飯を炊き旅出の我に泣きてすすめき

そして園からは今も機関誌が送られてくる。礼状を書きはじめ、しかし、

   五十五年前の落ち葉がいま顔を覆いました 逢うことができたのに拒否した自分
   手紙は書けません

 青森県にある松丘保養園は我が国の14カ所の療養所の中で最も北に位置している。かつては、罹患した人は業病として共同体から疎外されて死ぬまで放浪するしか生きる術がなかった。やがて国の隔離政策によって衣食住は与えられたのだが、のちに特効薬が出現してからも国はその政策を続けてしまった。話者の今も続く悔恨が胸に響く。

詩食 06号  (2021/01) 多治見
 岩井昭の個人誌。葉書大の判型、24頁に11編を収めている。
 「まなつのまひるのおひるね」は、ビルのかどをまがってあすふぁるとほそうのどうろをいそぎあしで歩くアリンコさんを詩っている。「アリンコさんはどこへいくのでしょう」、「アリンコさんにはビルはみえませんね」と、素朴な思いがしっかりと詩になっているのだが、それは向き合った対象が作者の中に取り込まれているからだろう。最終連は、

   あっちこっちいかないで
   あちゃありありゃきゅうにビルよりおおきくなって
   ちょっとまってよ
   ちょっととまってよ
   (おそらのくももかぜさんもどっかへいっちゃって

 この作品を始めとして収められた作品はどれも平仮名表記が多く、童謡のような雰囲気を持っている。あとがきでは「詩のありかたとして、もっと平明で、単純で、リズムがあり、センテンスも短いかたちで成り立つ詩を書きたい」とのこと。なるほど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする