瀬崎祐の本棚

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詩集「異界だったり現実だったり」  勝嶋啓太・原詩夏至  (2015/11)  コールサック社

2015-12-24 17:57:54 | 詩集
 共著詩集で、作品やあとがきなど、すべて横書きで組まれている。
 面白いのは、最後の1編を除いて、二人が同じタイトルの作品を持ち寄っているところ。それらの作品はすべて25行で、見開きの左頁に勝嶋、右頁に原の作品が載っているという体裁。
 二人の作品は同じ独白体でそれぞれにとてもくだけているのだが、あらわれてくる差異も楽しい。勝嶋の作品の話者は当事者であり、なぜか遭遇してしまった状況に困惑しながら彷徨っている。だから主観的な視線である。それにひきかえ原の作品の話者は傍観者である。比較的冷静に与えられた状況を分析している。客観的な視線である。
 たとえば「入れ歯スマイル」という作品。勝嶋の作品は、うたた寝からさめると食卓の上に入れ歯が置いてある、という状況である。オヤジの入れ歯にしては形が違うようだがなあ、と思っている。

   ってことで おやつのせんべいを喰ってて
   何気なく見ると
   入れ歯が こっちに向かって ニヤ~ と笑っていた
   その時 ぼくは何故か
   昔 プロレスラーで
   噛みつき魔フレッド・ブラッシーってのがいたよな
   と思った
   次の瞬間
   ぼくは 入れ歯に 喰われた

 原の作品は、「作り笑顔」について語りはじめる。それは、本当はウルトラマンじゃないのにウルトラマン化しなければならないときに着ぐるみをかぶる、アレだという。

   いわば 誰も「中」になど入っていない・・・というより
   そもそも 「中」なんてものなど どこにもない
   CG製の「ウルトラ兄弟」のひとりみたいなもんだ
   ちなみに こないだ むかついて ぶん殴ったら
   ぱーんと弾けて 虚空に 入れ歯だけが まだ暫く
   にたにた微笑んでいたっけ あのチェシャ猫みたいに

 最後の1編「大邪神」は二人の連詩。佐相憲一が跋文を書いているのだが、彼の言う「大円団」となっている。
 それにしても、これらの作品タイトルはお二人のどちらが決めたのだろう?
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詩集「きみょうにあかるい」  村上由紀子  (2015/12)  あざみ書房

2015-12-19 22:00:02 | 詩集
 第1詩集。98頁に21編を収める。
 おそらくは誰も悪い人は居ないのに、それでも苛ついているようなのだ。それは、それでも他人が悪いのか、それともわたしが悪いのか。
 「あかるい旋律」では、幼なかった私は「あかるい窓辺に」「ほおっておかれた」と述回している。窓に吊り下げられた紐をひくとオルゴオルが鳴る。

   くすんだレースのカーテンが大きく呼吸をするたびに
   午後の太陽は 裏の長屋のお二階に干された布団から
   窓辺に滑り降りてきた

   私は玩具の紐を
   何度も何度もひっぱって
   何度も何度もたしかめた

 くりかえされる旋律は誰を捜していたのだろうか。
 「恵まれた夢」。今度はおさなごを抱いての夢。今は恵まれていないからみる夢なのか。

   とりこぼされてゆくものを
   (叫ばなければ
   しずかにてらしているから
   (叫ばなければ
   朝が来るまでにそれらをぜんぶ
   ひろいあつめてしまわなければ
   いけない

 詩集はじめの「蝶を摘む」、最後の「きみょうにあかるい」では、それぞれに”ひかり”が詩われている。「いつだって光はとどくことを/知っている」し、その「うつくしいひかりはたしかに/わたしにもとどく」のだが、その”ひかり”はわたしのなにも照らしだしてはくれていないようだった。
 あかるくないはずなのに何故かあかるいことがきみょうなのか、それとも、あかるさが正しくはないきみょうなあかるさなのか。いずれにしても、そのあかるさが居心地をきみょうに悪くしている。そんな、あかるさ。
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詩集「ナポレオン食堂」  青山雨子  (2015/11)  書肆山田

2015-12-16 22:30:44 | 詩集
 第6詩集。83頁に19編を収める。
 小刻みにとぎれる独白体で作品は形づくられている。理屈も説明もなく、思いのままに言葉を発しているように構成して、作品は差し出されてくる。読み手は、その波のような思いのうねりに乗って作品を楽しむことになる。
 たとえば「ため池」。今年も胡瓜と茄子ができて、棚田が青く映っている。胡瓜の漬け物にはかびが生えていて棚田のあちらこちらには蛙がいる。最後の2連は、

   おしょう油を適量かけてください
   というメモが
   残っているけど
   ため池から流れていく水

   畦が
   ひろい

 描かれているのは情景ではなく、あくまでもその情景での主観的な気持ちだけが描かれている。突き放したような差し出し方で、あっけらかんとしている。
 「大陸」では、話者は「すきま風の入る/大邸宅に招待され」ている。洒落た会話が交わされ、なにかを象徴しているような動作がぽつんぽつんと描かれる。

   ぼくに任せてくれないか
   次は
   狩りに出かけよう

   夕陽は
   大きくて

   雨が降れば
   空を鳥が巣に帰って行くのが見れるんだ

 書かれた言葉の裏には、その何倍もの言葉があるはずなのだが、それらを意識のなかでの形とする作業は読み手に委ねている。作者には言わずに済ませてしまった不安が当然あるのだろうが、ここまであっさりと見限られてしまうと、読み手としてはいささか物足りない感じもする。
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詩集「からだにやさしい」  宿久狸花子  (2015/11)  青磁社

2015-12-14 21:33:55 | 詩集
 第1詩集。98頁に22編を収める。
 おそらくは若い、女性口調の独白体ですべての世界が構築されている。それはうねり、絡みついて、そこに記述されたことだけがすべてであるようだ。日常があり、希望があり、諦めがあり、他者への思い入れがあり。だから、書きとめることに必死なのだ。
 たとえば「亡霊」。きみが居なくなった部屋で「(略)エアコンの/風により揺れる洗濯物の/比喩を亡霊のように としたら」という思いには、きみの不在に幼い頃の洗濯物まで絡みついてくる。

   待ち人は鍵を
   部屋へ置いていったわけでも持って
   出ていったわけでもなくてというより居なくて
   きみの抜けおちた色素のなかの、
   なのに洗ってもとれないかえらない部屋の
   家賃を前払いして信じてると書いた
   凪いだ海の瑠璃色みたいと書いた

 作品によっては、行換えが音節の途中や接続詞の手前でされる箇所もあり、読み手はつまづきそうになり、そのことが読み手の意識を苛つかせる。もちろん、それが狙いであるのだろう。
 「無差別愛」は散文詩型で、ぐるぐると回りながら”あたし”はどこまでも深みへ降りていく。

   あたしはロンドン橋おちたを歌うのを、切れた膝を舐めて、自分をかわいそう
   がってる人は嫌いと思ってましたけど、同族嫌悪というあれで、あたしもばっ
   ちりかわいそうアンドかわいいやったし、ぼさっとしてたら死にそうになるの
   で、気を確かに持ってなあかん。
   嘘。死なない。

 どこをどのようにうねれば意識が安寧を得られるのか、そのことを模索しているようだ。だから、上っ面だけを書き連ねてなにもさらけ出していないようで、実は本当に必死なのだな、と思わされる。
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二兎  6号  神奈川  (2015/11) 

2015-12-11 18:30:47 | ローマ字で始まる詩誌
 女性6人が集まっている詩誌。1年ぶりの発行で、今号の特集は「草木のアフォーダンス」。6人がそのテーマに沿った詩とエッセイを書いている。

 「枇杷の木」中井ひさ子。
 たわわに実が付いている枇杷の木に弟がよじのぼっている。実を取りにのぼったのだろうが、「二日三日たっても/帰ってこない」。かあさんは枇杷の葉を煎じていて、

   土瓶の湯気のなかに
   小さく咳が
   聞こえる
   枇杷の甘露が
   まったりとからみついて
   丸みを帯びていく弟

 いつの間にか枇杷の木と一体化してしまっている弟。かあさんはそれを知りながら、葉を煎じているのだろう。果実がもつ甘さのなかに隠れている妖しさがにじみ出てくるような作品。

「イチョウの木」坂多瑩子。
 中通りに行きたかったあたしは、バス停にいたおばあさんについていく。道は根っこだらけなのだ。中通りに行く道は、きっと荒れていなければならないのだろう。

   おばあさんは早足で
   ため息をつきながら それも長いため息で
   そのたびに
   木が
   きしむ音がして
   きしむ音に囲まれて
   ねじくれた木の枝に足をとられそうになるが
   (略)

 いつのまにかおばあさんとはぐれたあたしは、中通りに行きたいというちいさな子と手をつなぐのだ。中通りへ行こうとすると、未来のあたしや、過去のあたしと出会うのだろう。中通りはそんな場所で、イチョウの木は立っていたり、もうきりたおされたりしているのだろう。誰にでも、そんなふうにその人の時間が交差する場所があるのだろう。 
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