瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「ヴォルガ残照」 白井知子 (2023/10) 思潮社

2023-11-28 21:34:28 | 詩集
第7詩集。109頁に17編を収める。「あとがき」によれば、この詩集の作品はヴォルガ川、ドン川を船で下った旅をモチーフにしているとのこと。

旅にある人は初めての人に会い、また思い出の中の人にも会う。旅の地は訪れる人のなかに溜まっていた時間をシャッフルする作用もあるのかもしれない。

   野茨のからまる木の柵
   うかがいしれぬ町
   わたしは変幻する人をさがしている
   アカシアの木漏れ陽から
   まぎれもない懐かしい声
              (「アラビア語で祈りを カザン」)

旅人はその地を通り過ぎる者として風景と接する。旅人はその地の歴史によって育まれた者ではなく、その地の歴史を動かす者でもない。しかし、そのときに旅人の中を通り過ぎる風景があるわけだ。その風景は旅人の中にそれまではなかった新しい何かを付け加えてくれるのだろう。それが旅をする意味なのだろう。

かつて激しい独ソ戦がおこなわれた街で話者は巨大なモニュメントを見て、爆撃から逃げてる少女を見る。

   知らない女の子のなかに鎔けた
   この町を撃ちまくる爆弾よりまぶしい地獄
   影だけ石に張りついてる子
   砂漠の青年のなかにも
              (「愛称はリーザ スターリングラード」)

旅は、その土地に時を経て積みかさなっているものも受け取ることであるのだろう。

ヴォルガ川は運河によってドン川と結ばれている。船旅の終わりに向けて、バラライカがが奏され、詩が朗誦される。そして詩集の終わりには、この旅の地から遠くないウクライナの戦禍に思いをはせる作品が載ってている。

   光る鉄鎖が膚を緊めつけようとするから
   声がでない 動けない
   ひとりの内部
   小さな部屋の見えない扉に鍵をかけたまま
   鍵のありかは どこ?
          (「列車の窓から 二0二三年春 ウクライナから子どもたちの誘拐」)

作者の前詩集「旅を編む」はイランやコーカサス、インドなどの旅に材をとったものだった。作者は次はどこの風景を自らの内へ取り込むのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「教室のすみで豆電球が点滅している-」 坂多瑩子 (2023/11) 阿吽塾

2023-11-26 00:18:15 | 詩集
懐紙シリーズの11冊目の詩集で、「書下ろしの一詩編による詩集」となっている。16行詰め26頁に、400行あまりの作品を載せる。

冒頭でいきなり名前を呼ばれた話者は、「おかえりといわれ/もと来た廊下をもどっても/昨日の玄関にたどりつけない」のだ。だから、話者は彷徨うことになる。過ぎ去ったと思っていた過去の事柄が再現され、今の話者にその意味を問い直してくる。思い出はいつも今の自分が必要としているものなのだ。

   ことばは繋がるためでなく
   見るもの
   ゆでたまごの殻や
   パンくずの上に
   舞ながらおちるおちていくと書いた
   十三才の夏休み

話者の彷徨いにつれて、作品もうねうねとくねりながら詩行を連ねていく。「死んでいく人の記憶のなかで/おもいだせないわたしが静かに死んでいく」という印象的な執行もあった。

今が辛いから、あるいは今が納得できないから、これまでのことを否定しようとしてしまうのか。修正してみたいのだが、その修正はやり直せない。修正は果たして望んだことをもたらしてくれるのか。いや、本当のところでは修正することを望んではいなかったのかもしれない。「もういいよ」「いいから」と、もう過去を受け入れたくもなるのだ。

そして悲しいことばかりでも、「空っぽって/とても/大きな自由を見せてくれる」ことでもあるのだ。さらに、合いことばを言い合える他者がいることが救いにもなるのだろう。最終部分は、

   合いことば忘れてしまったけど
   あなたの
   冷たくなっていく耳の感触がすぐそこまできている朝

   教室のすみで豆電球が点滅している

作者のこれだけ長い作品は初めて読んだ。そのためか、どこかに居直った雰囲気もある自虐が混じったいつもの作品とはまた異なる魅力を見つけることができた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「楽園」 粕谷栄市 (2023/10) 思潮社

2023-11-21 21:53:57 | 詩集
164頁に38編を載せる。すべての作品は見開き2頁に収まる長さの散文詩である。

冒頭の「楽園」は、不治の病にある私が深い眠りから目覚めたときにいる南の島の話である。それは夢などではなく、

   たとえば、瀕死の病床にあって、薄明の時間を過ごす者
   にとっては、そうではない。それは、直接の、そして、
   切実な現実である。

夢をみている私と、夢の中にいる私がいるのだが、次第にその二人の私の区別は薄くなっていき、ついには夢と現が反転したりするのだ。それは詩を書いている自分と、その作品の中にいる自分が、いつしか見分けがつかなくなるようなことだろう。

このように、作者はこの詩集の作品で、人がこれまで生きて来たことの意味、そしてこれから死んでいく意味を考えている。それは我が身の一生を問い直すことでもある。それを時間軸に沿って横から眺めればそれなりにいろいろなこともあったのだろうが、振り返ってその時間軸を正面からみつめれば、それらは重なりあって何の見分けもつかなくなる。人の人生はそういうものなのだろう。それを虚しいと捉えるか、それで好いのだと捉えるか。誰もがいつかは向きあう問いかけの中に在ることを、この詩集の作品は不思議なリアリティと共に感じさせる。

「夜の卵」は、最後の時になって代えようのない人生がのしかかってくるような作品。蒸し暑い深夜に台所の椅子に座っている年老いた男のかたわらの卓子の上に、白い卵が二つ載っている。そして「彼のからだからは、首が失われている」のだ。

    かたわらの卓子の上に、白い卵が二つ、載っている。
   その卵の白さが、異様に、はっきりしている。首のない
   男だけが、それを感じている。

これは「死に間近く生きる年老いた男によく訪れる、ありふれた虚無のできごと」だという。この情景さえも受け入れた諦観の中に、作者は、ただ在る。そういうことなのだろう。「月明」では、ちぎれた首が左肩のあたりに浮いている男が登場している。

どの作品の情景もしっかりと見えているのに、近づこうとすると霞んでしまって触れることができない。その感触がすばらしく面白い。死は人間のどのあたりにあるのだろうかと思ったりもする。もしかすれば、はじめから生などというものはなくて、すべては死んだ人がみている夢なのかもしれない。

「犬の一生」、「天使」、「象のはなし」、「晩年」、「馬と絶望」については詩誌「森羅」での発表時に簡単な紹介記事を書いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「還るためのプラクティス」 今宿未悠 (2023/08) 七月堂

2023-11-19 00:23:51 | 詩集
92頁に19編を収める。

「卵管采」。羊歯が生えているそこは、湿っぽく日の光も乏しい薄暗さの場所なのだろう。話者は羊歯のくるりと丸まった先端を「母性なのかもしれない」と思い、「卵子だったころのこと」を身体感覚として感じている。卵管采は卵管の先端に位置しており、排卵を感知した卵管が卵細胞を取り込む際の触手の役目をするのだ。

   揺らぎ乱れる静寂のなかで羊歯に捉えられ
   くるみあげるようにつつみこむように
   先端から含まれて 闇に溶け込んで
   ああこうだった、と諒解する

卵管采である羊歯が卵子となった話者をくるみあげている。移動能力を持つ精子とは異なり、すべての移動が他者の作用による卵子は受動的な運命を背負っている。卵管内部の繊毛によって子宮へと送られる卵子は、すでにそのときには新しい生命を有しているか否かが定まっているのだが、「眠気が襲って」「記憶が混濁する」話者はどこへ送られていくのだろうか。

どの作品も大変に生々しい。身体感覚ではあるのだが、それは皮膚感覚ではなく粘膜のそれである。組織の境界としての皮膚は他者を拒絶するが、粘膜は他者を迎え入れるためのものだ。その生々しさは常に湿り気を帯びているようだ。

次第に支離滅裂になっていく「採血」はめっぽう面白かった。注射針のなかに血管から流れ出ていく液体と、豪雨で氾濫しそうな隅田川が重なる。そして爆風にまきあげられた犬を追っていくわたしが握る処方箋はどろどろになって溶けていく。てんやわんやの末に、

   自律神経が不安定な私とサンダルを飛ばされてしまった薬局の人がずぶ濡れになった雑巾
   みたいな犬を見ながら、空中で混乱している!

「河川/果実」は「夜遅く/いちじくは実の内側に花をつける」とはじまる。女性は否応なく見えない部分で成熟していくのだろう。花はやがて実になり、

   全てが内側で起きていることだから誰にも分かりようがない、ずっとそう思って、ずっと
   耐えていて、枝が重みで撓って、月が欠けた後に、表皮が張り詰めて張り詰めた挙句に限
   界を迎えてしまっためりめり裂ける音がする実がはじけてこぼれるこぼれて落ちる

このように、この詩集の作品には近頃のジェンダー問題など覆ってしまうほどに強い女性としての身体感覚がある。絡みついてくる魅力があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ERA」 第三次21号 (2023/10) 埼玉

2023-11-16 11:44:49 | 詩集
28人の詩作品と2編の散文を載せて76頁。

「蟬」井出ひとみ。ふいに蟬の声が聞こえ、話者は衝動に駆られておおきな声で騒ぐのだ。それは蟬の長い年月の抑制からの解放にも似ているのか。そして騒ぐほどに話者は「追い詰められていく」。

   蟬の抜け殻が
   裏庭に落ちている ひっそりと
   身は空になって
   人の形に抜けている
   わたしはそれをサンダルで踏む
   まるで自分の抜け殻
   を
   踏むように

ふいの己の破壊衝動のようなものだろうか。騒いだ後に残された己の抜け殻は空しく寂しいものなのだろうか。

「じゃがいも」尾世川正明。ニューヨークに住んでいるいとこが、春になるとアイダホ産のじゃがいもを送ってくるのである。アメリカで生まれたいとこの子どもたちが、大阪弁のつまらぬギャグをまき散らしながら遊びにやってきたりもするのである。

   私は春になるといつも
   クエスチョンマークのように
   しんなりと首を変形させてじゃがいもを受け取っている

この「しんなりと首を変形させて」が大変に愉快である。なぜじゃがいもなんかと訝しがっているわけだが、長く伸ばした首を(お化けのように)”?”の形に曲げている図を想像してしまう。

「風」相沢正一郎は、”風”を擬人化して”あなた”と話しかける作品。目には見えない”あなた”が運ぶにおいや音、揺らす草木や洗濯物。あなたとの親密な関係がやわらかく詩われている。この作品は3連からなるのだが、最終連では”わたし”と”あなた”の位置が反転し、”風”が発話者となる。それによって作品の物語性に深みが出ていた。最終部分は、

   あなたの名前が知りたくて、ゆうべあなたがベッドのした
   に落とした本の頁をめくったりする。

「虹」日原正彦。雨あがりにベランダに出ると虹がでていて、「どうしたの/と 死んだ妻が後ろから声をかけ」てきたのだ。言葉を発してはいけないような気持ちのうちに虹は少しずつ薄れていく。横を見ると、

   わたしは はじめて驚いた
   妻が そこに いないことにではなく
   いたことに

虹と共に訪れ、虹と共に去っていったこの淡いひとときの邂逅がなんとも美しい。

川井麻希「かなしい色」については、作品が収められた新詩集の紹介の折に触れている。
瀬崎は「診察室」を発表している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする