瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

る  6号  (2012/06)  神奈川

2012-07-31 22:57:54 | 「ら行」で始まる詩誌
 弓田弓子の個人誌で、2つ折りにしたB5用紙4枚(16頁となる)をホッチキスで綴じた手作り感覚のもの。
 11行から14行の短い作品10編を載せているのだが、そのどれもがきちんと詩になる核を持っている。それは、言葉によるひとつの世界を確かに構築しているということだ。
 たとえば「しどろもどろ」。腕がはずれそうなほどに古びたにんぎょうは「だるいだるいと言って/何十年も椅子で/おすまししていた」のだ。衣服も色あせているのだが、

   つるつるだった顔も
   ざらざらになり
   なにやら
   しどろもどろだが
   髪をささえに
   立ち上がった
               (最終部分)

 今になって立ち上がろうとした”にんぎょう”は、いったい何を考えたのだろう? なんのために立ち上がろうとしたのだろう? おそらく、そこには”にんぎょう”を立ち上がらせようとした私がいるのだろう。あるいは、”にんぎょう”に立ち上がってもらいたかった私がいるのだろう。だからこそ、言葉は”にんぎょう”を立ち上がらせてしまったのだろう。その先にはどんな物語が隠れているのかは、作者にも判らないのだろうけれど。
 「工作」は木で細長い箱を作っている作品。寸法が合わなくていく度も作りなおしているのだが、

   最後に
   中に入って
   横たわってみる
                (最終部分)

 どうやって最後の自分を迎えたらいいのか、試してみることはできるのだろうか?
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裳  117号  (2012/06)  群馬

2012-07-30 22:40:41 | 「ま行」で始まる詩誌
 「指」須田芳枝。
 自分の指に対して、こんなにも繊細な思いを抱いていて、こんなにも想い出を担わせていることは新鮮な驚きだった。
 きまりがわるいときにはセーターの袖口やスカートの襞の中に隠されていた指。それは私の何を隠そうとしていたのだろうか。指は「もぞもぞと薄い皮膜をつまんで/通り過ぎた時間を拡げて見せ」てくれるのだった。それだけ、指はこれまでの私のいろいろなことに関わってきたのだ。

   今静かに食卓に座り
   やわらかな食物を口に運んで
   そして 口をぬぐうその時も
   こころの在り処を
   見透かされないよう
   細心の注意を払って指を使う

 そんな指は、私の心のありようを映し出す存在でもあったのだ。そして作品は指のまわりを、時間を超えて彷徨いはじめる。体調が狂ったときには気持ちも弱くなる。すると、これまで隠されていたものも見えはじめるのだろう。

   潤んだ目を閉じると
   謝らなければいけない事ばかりが
   整列して順番を待っている

 指で数え始めれば咳も出る。最終連は、「昨日冷たくして ごめん/と折って/布団に仕舞う」と、果たして誰に謝っているのか、よくわからない呟きなのだが、作品は静かな広がりを見せて終わっていく。あ、指に謝っていたのだな。自分の身体の一部分でありながら、他者としての存在を感じているところが印象的。
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詩集「掌インフェクション」  日吉千咲  (2012/07)  ふらんす堂

2012-07-28 10:04:32 | 詩集
 121頁に26編を収める。
 とても気持ちがざらついている。眠れないし、言葉は引っかかるし、罰を与えたり与えられたりしている。独白体でこの状況を認識して、そこからの脱出を謀っているようだ。

   妄想を追い越しずいぶんと走り抜けた
   若さで免れうる命題
   落としながら
   こころ躍らせたり痛めたり
   闇をふっと吹き消した
                     (「濾過(!)」より)

 じっと耐えているのは苦しいのだが、この位置から動こうとするのもまた苦しい。「逃げても休んでも」私のいるのは「万年工事中の侘びしい街」(「濾過(!)」)なのだ。重たいピアスは揺れるし、カルト教団はやってくるし、彼の両手は、早く、早く、と肩を揺さぶる。読むほどに棘が刺さってくる。
 少しだけほっとしたような気持ちになる作品は「厄除け蕎麦」。仏殿には「現在仏は出払っており/過去仏と未来仏から伸びて重なった柔らかい影が/現在を形作っていた」ので「助かった/捨てたい」と仏殿の外に出たのだ。で、ふいに、休憩所で「先に旅立つ人」と一緒に厄除け蕎麦を食べる気になったようなのだ。

   以上が転化を受け入れる前触れで
   帰ってもずっと
   思いをめぐらしたり
   正気に走らないよう、門前通りを切断している
   これから秋の次の季節は ぽっかり空いてしまうね
                           (最終連)

 からみ合った言葉が伝えてくるものは簡単には言いかえることが出来ないので、そのままの形で紹介することしかできない。真剣な感性がびしりとくる。
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詩集「樹念日」  壱岐梢  (2012/07)  花神社

2012-07-26 21:30:02 | 詩集
 第1詩集。111頁に33編を収める。
 少し奇妙なものを見たり感じとってしまうのだが、そこには優しい気持ちが隠されている。とても素直な感性の方なのだろう。
 「祝祭」は、「その川の水底では/死者たちの魂が」「子どもたちがやってくるのを待っている」と始まる。休日に川にやってきた子どもたちは、平たい石で波切りをして遊ぶ。子どもたちの歓声があがり、それは「祝祭」なのだ。すると、その石を手にした魂は天に帰れるという。

   太古より連綿と
   水底で
   魂が耳をそばだて
   目をこらしている
   子どもたちよ
   遠くへ 遠くへ
   石を投げよ
               (最終連)

 子どもが持つ無垢な魂、それが司る祝祭。きらきらと光を受けている川面が眼に浮かぶようだ。水底に死者の魂が沈んでいるという卓抜な洞察とともに、印象に残る作品。
 「はじめまして」は、擬人化した”嘘”について詩っている。「自分からするりとぬけるものがあ」って、それが嘘だったことにはじめて気づく。おそらくは嘘と気づきたくないようなことだったのだろう。しかし、気づいてしまったからには仕方がない、呼び止めて向きあおうとするのだが、

   たいていは
   たがいの距離をはかりかねるうち
   夜は明ける
   朝の紅茶にミルクをいれて
   くるくるかきまわしていると
   溶けこんでくる

   名乗らずに戻ってくるから
   飲み干すと 苦い
                (最終部分)

 幼いころに接していた隣家の老夫婦を描いた「鬼灯(ほおずき)」は、ぶっきらぼうな書き方ではあるのだが、しみじみとしてくる佳作であった。
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Mikogaya  2号  (2012/05)  静岡

2012-07-24 22:38:06 | ローマ字で始まる詩誌
 原利代子の個人誌。厚手のクリーム色用紙8頁に3編を収めている。
 「席をかわって」
 満員の映画館の中で、突然男に「席をかわって」と言われるのである。どうも男は”先生”のようなのだが、席をかわると映画がよく見えなくなりそうで、あたしは必死に無視をしている。あたしの生活に傍若無人に割り込んでくるこの男はいったい何者なのだろう、と思わせて、巧みに物語が展開する。
 それからも”先生”はいろいろなところで「席をかわって」とあたしに言うのである。ホスピタルや、大津波の底や、そして、

   新しく出来た監獄の高い塀の上から
   そろそろ本当に席をかわりなさいと
   すでに命令口調である
   ねえ それはおかしいんじゃないの
   なぜいつもそちらが先生であたしが生徒なの
   とあたしはあのときのように男を無視し続け
   男からの永久逃亡を企てる

 しかし、いくら走りつづけても”先生”はあたしに纏わり付いてくるのだ。席をかえる、それは自分の存在場所がまったく異なるものへ変わることである。おそらくは死者があたしを呼んでいるのだろう。死者が席をかわれと言っているのだろう。でも、かわれるはずがないではないか。それなのに、作品の最後、自分の顔もすでにあの”先生”の顔になっているのかもしれないと気づくのだ。
  一つの寓話のように読める作品。夢のなかのように不確かなのだけれども具体的な場面から、次第に不条理の世界へ引きこまれていく。無理のない展開を楽しんだ。
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