瀬崎祐の本棚

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山形詩人  70号  (2010/08)  山形

2010-08-29 22:22:07 | 「や行」で始まる詩誌
 「女のいない七月」高啓。
 生活を共にしている女が不在の日々を詩っている。その女がいないということによって、作者には通常の生活ではない日々が訪れている。ひとりで出かけたスーパーではノースリーブの腕に見つけた見知らぬ女性の種痘あとに発情したり、女の父が残した飯が饐えてい
るのを見つけて、人の死の順番についてクダをまいたりしている。
 感情も感覚もむき出しで、荒々しい。その生理的な部分を容れた作者の肉体がそのまま迫ってくるようで、圧倒され、それゆえに魅了される。巧みなのは、迫ってくるものが肉体そのものであるように見せていて、やはりどこまでも感情であるところだ。

   マルコメ頭の女がいない日曜日
   ポンコツの洗濯機を騙し騙し洗濯をして
   ロートルの掃除機を煽てながら掃除する
   昼下がりにはフィットネスクラブで少し身体をいじめて
   いつものようにスーパーに寄り
   にこやかでもなく項垂れてもいない婦たちの傍で

   ノースリーブの種痘のあとに発情する
   その形骸を生きる
                                   (最終連)

 「女とはそんなつながりだったんだ」と気づいたりもして、女が不在であることによってはじめて見えた事柄が、すざまじい存在感を放っている。当然のことながら書かれている内容はどこまでもフィクションであるわけだが、書き表したものにここまで生の感情を載せることができることに、感嘆する。
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輪  17号  (2010/07)  広島

2010-08-28 08:34:29 | 「わ行」で始まる詩誌
 「ピザトースト」山本沙稚子
 「雑念の目的には/個人差がある」とはじまるなんとも奇妙な作品である。書かれた状況も不明だし、何を伝えたいのかも不明だ。しかし、面白い。それこそ、タバコを吸いながらの”雑念”を、浮かぶままに書いたのだろうか。雑念にはその人の無意識世界が反映されるが、ほとんどの場合、他者にはなんの意味も持たないようなことばかりだ。しかし、投げ出された”雑念”が他者には全く別のものに見えて、面白さを伝えることはあり得るだろう。

   ある事の一致したことは
   その考えを共有した証
   玉ネギであろうが
   カボチャであろうが
   存在は暖かいひと部屋
   往来する街角の生き物達の

 一見理屈を述べているようにみえて、とても非論理的な展開がお構いなしに続いている。そして1行開けられてこれに続く最終連は、「ルオーおじさん わかる?/タバコは 効くよ」。たまたま眼を上げたら、壁に掛かっていたルオーの絵が見えたのだろう。この偶然に訪れたその瞬間の“雑念”を切り取った面白さである。
 しかしこういう書き方をしても、通常はこれほど面白くはならない。作者の中で生じる”雑念”が何かを求めていた瞬間だったのだろう。そしてそれが、他者にも共通する何かを内側に孕んでいたのだろう。
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no-no-me  11号  (2010/07)  岐阜

2010-08-27 19:27:47 | ローマ字で始まる詩誌
 「目覚め」八木幹夫。
 「わたしがわたしであることの/ふしぎ」を感じている。わたしは「あなた」や「空とぶ鳥」「川原の石」でなかったことが”ふしぎ”なのだ。しかし、何故そんな当たり前のことを”ふしぎ”だと思ったのだろうか。そのうえ、「わたしは/あなたと/鳥と/石に/あやま」るのである。いったい何をあやまるのだろうか。
 この”ふしぎ”と思った感覚は、めざめの前の世界に安住できなかった理不尽さへの静かな苛立ちであろう。当然のことながら、めざめる前の世界では、わたしは「あなた」や「空とぶ鳥」「川原の石」であったはずなのだから。そして、そこで安住できなかった自分の存在の卑小さを情けなく思ったのではないだろうか。あやまったのは、その存在であり続けられなかったことに対してだろう。

   朝
   めざめて
   わたしにもどるまえの
   はるかな時間が
   なつかしい
                                (最終部分)

 目ざめた世界での”わたし”であることは、それほどに辛いことなのだろうか。いや、そういった次元のことではなく、作者がなつかしがっているのは、”わたし”という個を越えたところにあるものなのだろう。わたしでもあり、あなたでもあり、鳥や石でもあった存在の仕方をなつかしがっているのだろう。
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きょうは詩人  16号  (2010/07)  東京

2010-08-24 18:39:11 | 「か行」で始まる詩誌
 「さくら 桜山」森やすこ。
 桜山へ花見に出かける作品である。花見であるから、あたりには屋台が立ち並び、みんなが大騒ぎをしている雰囲気が作品からは伝わってくる。そこにひっつめ髪の祖母やたすきがけの母があらわれる。大泣きしている弟もあらわれる。そうすると、家族の間の愛憎が渦巻きのように書かれ始めるのだ。語り手の感情が高揚してきている様がすさまじく詩われている。ついには、

   小石になって生きることにした
   小石になって生きることの喜び
   神もほとけも子守歌も要らない
   ただ1つ小石になる夢
   誰にも邪魔されない夢
   1つの形容詞も要らない夢

 こんなことが夢だなんて。華やかに咲き誇る桜の下で、こんなことを夢見ているなんて。でも、桜が華やかで、ほんのひとときの栄華を誇るものであればこそ、その対極にあるような小石が心には置かれるのだろう。勢いのままに書き飛ばしているようで、前半の花見の大騒ぎから巧みな対比をみせている作品。

 小柳玲子は「詩の森に迷い」の2回目では山下千江について書いている。山下に意地悪をされたり、突拍子もない申し出を受けたり。それでも小柳が、”良い詩を書くから”という理由だけで山下のことを好きだったことが判る。でも、それは、本当だったのだろうか?
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きょうは詩人  15号  (2010/02)  東京

2010-08-23 20:56:09 | 「か行」で始まる詩誌
 「雀の宿」吉井淑。
 子供の頃に唄った「雀のお宿」がどんな内容だったか、すっかり忘れてしまっている。でも、この作品はそれを下敷きにしているのだろう。藪の家では、おばあちゃんがわたしを探しているのだが、わたしは「本ばかり読むようになって 見えにくくなった」のだ。ふいに天からは雀が落ちてきて、わたしはさらにおばあちゃんから見えにくくなる。

   本の中の架空のような街のどこか 厚い頁に挟ま
   れた路地の奥 藪から落ちたわたしの場所だ 長
   い時がたち 話すことも歌うことも忘れてしまっ
   た

 自分がそれまでの自分ではなくなっていく事を感じる時、というのはあるだろう。大事な人にとっての自分の存在が、それまでとは異なってしまうのだ。よく判らない状況が、なにか妖しげな雰囲気も漂わせている。見えなくなっていくわたしにも状況は理解できていないのだろう。だから、妖しいのだ。
 
 小柳玲子が「詩の森に迷い」というエッセイを連載している。今号はその1回目で、詩誌「銀河」の杉克彦の思い出が書かれている。小柳の毒舌はいつもめっぽう面白い。毒舌の裏には、相手に対する思いやりがある。だから面白い。亡くなった杉克彦への語りかけが余韻を残す。

   悲しみよ、あなたはいま安らかなのだろうか。きつく履
   かされていたあのい辛い靴……詩はもう脱いだのだろう
   か。私たちは辛い同士だったが、もう私のことを忘れて
   くれたろうか。

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