瀬崎祐の本棚

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詩集「山野さやさや」 三井喬子 (2019/06) 思潮社

2019-08-30 17:21:20 | 詩集
 第10詩集か。107頁に19編を収める。

 「山野」。雨が降っている山野では「野うさぎ 狸 熊たちは/うっすらと わたくしの肢体の中に埋没しているのだ。」

   事の始めは夢の中にあり
   敵など知らない 味方も知らない。
   生温かく抱き合って
   まぼろしの行先を尋ねれば
   いつか という言葉だけが返ってくる。

 山野を覆っていた雪はやがて海へと投げ出されていく。しかし、それまでは様々な思いを自らの中に孕んで、その形も曖昧にしながらじっと耐えるようにしているのだろう。冬の山野の光景を描きながらとても内省的な作品となっている。

 このように深く沈み込んだ基調の作品もあるのだが、その一方で饒舌に語り続ける作品もある。たとえば「ヒレを持つ者」では、大きなヒレを持った金魚が空を飛んでいくし、「夕陽のダクト」ではドラゴン工業のダクトが町を走りまわる。こういったエネルギーが羽目を外して「世界の裂け目」を露わにする作品も読ませる魅力を持っている。

 「うすやみの中には」では、落ちた樹木の葉が「形だけの塊となりはてて/川を 流れ下」っている。

   忘却の過程は
   その大半を終えた、
   わたしを震撼させ おののかせるものよ  
   これを
   川の葬、
   と呼んで良いか

 自己の内側の深いところから何ものかを取りだす作品と、彼方へ跳んでいこうとする作品が、作者を支え合っているのだろう。

最後に置かれた作品「夜を行く馬」では、馬は「悲しみを預けて行く」と詩われる。それも、「声というものは自分のものではない と思い捨てて。」だ。係累の有無も不明となり、朝の訪れの可否もすでに意味を失っている。ただ”夜を行く”のだ。この詩集の後に続く道を作者が見つけている作品のようだった。
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詩集「もうあの森へはいかない」 望月遊馬 (2019/07) 思潮社

2019-08-23 17:10:00 | 詩集
 第3詩集。91頁に10編を収める。構成としては、「1.水門へ」の章に「水門へ」他1編、「2.白くぬれた庭に宛てる手紙」の章に6編、「3.水門へⅡ」の章に「水門へⅡ」他1編となっている。美しい構成である。

 「水門へ」は18の断章からなる。それぞれの章で、僕やわたしの目の前に広がった様々な光景が展開される。脈絡がないようなそれらの光景は、断章を読み進めていくうちに、始めはばらばらに散らされていた色彩が重なりあうように、やがて大きな渦を作って流れはじめる。揺れうごく色彩の中であらわれてくるのは、わたし、君、老父、そしてホームズ君である。

   これは幻視か。そうでなければ車掌はお化け屋敷だ。雨は止まない。わたしの
   薬指を雨の指輪がくぐる。合歓の木のしたでの子どもたちの合唱。おまえの蹂
   躙された眸に石匠を埋めてゆく。水門と水門の距離もしくは圧迫感によって支
   配される水門の大きな影。

 少年や少女が孕んでいる美しいけれども儚いものがあらわれては消えていく。留めることのできないものを追いかけることの愉悦と虚しさが、この詩集の記述にはあるようだ。
 少女は「教室のにおいが川のなかをきらきらながされていくのが/かなしい」と思いながら泳いできた君の裸体を見つめるし(「夏の残りをおもう歌」)、そんな「少女ははにかんで/朝に燃える」のだ(「シフォンの歌」)。

 フランス民謡を元にした「もう森へなんか行かない」というシャンソンがあった。フランソワーズ・アルディの気怠く頼りなげな歌声が、どこか不穏なイメージも連れてくる歌だった。あの歌では森には”青春”があったのだが、この詩集でついに詩われることのなかった”あの森”には何があったのだろうか。作者がこの詩集で決別したのは何だったのだろうか。

 「冬にこぼれた婚礼の歌」では、「かって子どもだった男と女の/日差しのような抱擁のむこう」で婚礼がおこなわれる。それは大人へなることの象徴的なことでもあるのだろう。しかしそこには「とうめいな喪がみちている」のだ。

   婚礼は怒りの儀式でもある
   しかし 父や母やわたしが 列にならんで
   花婿を迎え入れるときに
   死者の幾人かが とおりすぎてゆく 神父のよこを

 勝手にイメージを膨らませている、あの森の中に四季は巡り、少年や少女に死が忍び寄ってくるのだろう、と。

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buoy 2号 (2019/07) 東京 

2019-08-20 17:37:45 | ローマ字で始まる詩誌
 松下育男がおこなっている詩の教室のメンバーによる詩誌。26人の作品を載せて96頁。

「わたなべ」新井啓子。
 帰省のタクシーは異界への道しるべが点在する道をゆっくりと進んでいる。かっての「落ちたら上がれそうにないどろどろの世界」がひろがり、「その正面にわたなべがあった」のだ。しかし何の店だったのか、まったく覚えていないのだ。かっての日の自分が何者だったのかも、今となってはあやふやなのだろう。

   東の海から北の山から南の町から来て
   店の前で立ち止まる
   みながわたる
   小さな橋の店 わたなべ

 いまさら、わたなべに出会うことは懐かしさと怖ろしさが混在するようなことなのだろう。最終行は「居なくなったひとたちがわたなべにならんでいる」

「おとなり」草間小鳥子。
 お隣のミノソウさんちの玄関からいろいろな家財道具が出て行ったのだ。あたしが使ったソファやちゃぶ台なども。

   お母さんの帰りを待つあいだ
   あたしたち、いろんな話をした
   ミノソウさんの知ってる話はどれもさびしくて
   「子どもと何話したらいいか知らん」
   くちをすぼめ、ずぶずぶお茶飲んで言った

 幼い頃には面倒を見てもらっていた人なのだろう。そしておそらくは、あたしが大きくなってからはあまり遊びにも行かなくなっていたのだろう。そんなミノソウさんへの思いが、亡くなった今、あらためて滲んでくる作品。

 「日記のように 2019」松下育男。
 3章に分かれた作品で、遭遇した事象とそれに喚起された想念が”日記のように”記録されている。作品化されることによって作者のそのひとときはこの世界に留められる。

   水準器の泡が
   いつまでも揺れていて落ち着かない

   降りつもった過去が
   倉庫いっぱいに溜まっている

   この世は恥ずかしげに
   始まったんだと思う

 作品を読む人に伝わるものを孕むためには、いかに的確に言葉が動かなければならないかということがよく判る作品。

 この他にも、坂多瑩子、中井ひさ子、長嶋南子、廿楽順治など、私の大好きな方々の作品も(いずれの方にも拙個人誌「風都市」に寄稿してもらったことがある)並んでいた。この教室が私の居住地の近くにあるのだったら、私も参加させてもらっているところだったのに。
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詩集「さんぽさんぽ」 坂田瑩子 (2019/07) 思潮社

2019-08-16 17:18:13 | 詩集
 第6詩集。92頁に22編を収める。
 人間の行動は、他者の視線で捉えられてみれば、滑稽で、それでいてどこか哀れなことが少なくない。この詩集の作品は、そんな行動を取ってしまう自分を他者からの視線に晒すように捉えている。居直ってしまった自分を楽しんでいるようでもある。

「なつやすみ」では、あたしは図鑑の誰も居ない大昔の風景にネコと自分を書き足した。でも、なつやすみなので「だれもみつけにきてくれない」のだ。ここには、あたしは淋しいのだろうかと自問している雰囲気も感じられる。

   そのうち
   学校はがらんどうになり
   図書室もがらんどうになり

   ネコとあたしは火山にむかってあるいている
   だれも助けになんかいかないよ

 自分以外のみんなはどこかにいて、自分だけがここに取りのこされている。他者から疎外されている話者がいるのだが、最終行の「だれも助けになんかいかないよ」には見栄を張りながらの強さがある。

 「穴」。ちいさな妹と二人で、畑にあいていた穴に落っこちてしまう。せまい入り口の中は広間のようにひろくて、妹はどんどんおおきくなって母親のようにあたしを叱る。そして、

   妹はおおきくなりすぎて穴からでられない
   あたしは知らんふりして家にかえる
   昼ご飯たべて 夜ご飯になって
   妹はいないけど
   誰もさわがない いないよとといったら
   探しておいでといわれた

 そこで穴をのぞくと、懐中電灯に照らしだされたのは「欠けた茶碗だけだった」のだ。とても意地悪なあたしがいるのだが、しかし、妹なんてはじめからいたのだろうかという気にもさせられる。それとも、あたしは妹がいなくなることをどこかで望んでいたのだろうか。

 詩集表題作の「さんぽさんぽ」は、拙個人誌「風都市」に寄稿してもらった作品。感謝。
 老いを抱えての生活はどこか頼りないし、傍目からはおそらく滑稽に見えることもあるのだろう。当事者にとっては精一杯のことであり、しかし作者はそんなことも他人事のように受け入れる強さを持っている。
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小詩集「(月見草の、草の家で)」  小島きみ子 (2019/07) 私家版

2019-08-09 17:36:58 | 詩集
 ホッチキス止めの16頁を、古布を思わせるデザインの色紙で挟んだ軽快な小詩集。作り手の真摯な思いがよく伝わってくる。作品はこうやって手造りで発表されるのが正しいのかもしれないと思わされる。
 収められているのは表題作1編で、詩誌「みらいらん」1号から3号に発表されたものをまとめた作品。13章からなる。

 幼い夏の日に私と彼は”月見草の、草の家”をつくり、「秘密の草の子ども」を生んだ。それからの日々がすぎて、

   私とあなたは、双子のように二つの心を生きている。パパでありママである、あなた
   と私。其処では生命があってまだ生きているあなた。そしてあなたの遺児が居る夢の
   場所。

あなたからは旧い手紙が届いており、私も私の中のあなたへ手紙を書く。このように、もう居なくなったあなたはもう一人の私として私を支えてくれているようなのだ。もう一人の私との言葉が行き交って、中世ヨーロッパ文明の風が吹き、ノアの洪水の意味が問い直され、スペイン革命が語られる。

 正直なところでは、私(瀬崎)にはこれらの素材が担っているであろう役割はよくわからなかった。作品にとっての必然性が充分には感じ取れなかったのである。しかし重層的な物語の重みはよく伝わってくる。構築しようとしたものへ作者の真剣な思いは、それこそ一人の読者の思惑を遙かに超えたところにあるのだろう。

 私の中のあなたの遺児は、やがて(わたし)によく似た姿となって「生まれて育って 成るべきものに成」る。

   そこに形相されたもの
   そこから意志を持って向かおうとしているもの
   空と大地の(眼)で織られた布(テキスト)のうえに横たわること
   生きた現在の転移として(わたし)が(わたし)を捉える空間
   それらの出来事を(わたし)は部屋の隅でじっと観ていた

 私とあなたの生んだ子はふたたび私の元に帰ってきたのだろう。小詩集に挿まれた紙片には、「エスからエスへの手紙が、ようやく黄色い鳥の言葉で届きました」とあった。
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