瀬崎祐の本棚

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詩集「へんなうち」  渋谷美代子  (2013/05)  蛇蠍社

2013-07-31 21:03:48 | 詩集
第8詩集。135頁に28編を収める。
著者は北海道の厳しい環境の中で生活している様子。言いたい放題のたくましい作品がならぶ。そこには好奇心をまとって他人を観察する眼がある。あっけらかんとしているようで、その眼はかなり鋭いのだ。
 「踊り場にて」には、階段の踊り場に小さな折りたたみ椅子を置いて煙草を吸うおばあちゃんが詩われる。「やめりゃあ いいんだけど」と通りかかる人に言いながら、「ッエー、ッエー、/肩で息しながら 弁解しながら/喫っている」のだ。そんなおばあちゃんにいつか年齢を尋ねたことがあるという。

   なんぼに見えるね
   笑いながら
   ねばっこく光る眼で逆に
   のぞかれたことなど
   思い出す

 うっかりかけた言葉によって、おばあちゃんの不気味な眼の中に引きずり込まれてしまいそうになっている。思いもしなかった怖さがある。
 「コープセイジン」とは白石生協にいる老いたオジサンのこと。日中の大半を店内で過ごし、カゴやカートを片付けたりしている。しかし、オジサンは生協の人ではなく、「ぜんぜん知らない人/毎日やってきて勝手にやっている」のだ。人と話すこともなく、ただそこにオジサンはいるのだ。「あのオ、何かの修行でしょうか/深遠な哲学の実践でも?」と言いたくもなるのだが、

   この頃 生協に行くのが
   ちょっと億劫
   どうにも眠れない夜など
   闇の奥でオジサンが蒼白い首を ひょろっと
   もたげたりするのだ

 このように、作品の全体の印象の磊落さの中にきりっとした苦みが走っている。他人を観察する眼は、そのまま冷静に自分を観察している眼なのだろう。
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詩集「峠」  宗昇  (2013/09)  砂子屋書房

2013-07-23 00:48:26 | 詩集
 80歳を超えられての第4詩集。108頁に23編を収める。
 人生が終焉にさしかかっているという思いが随所でうかがわれる。例えば「釣り」では、「だれの中にも はるかな昔から」魚が「必ずいっぴきはいる」という。それを確かめたことはないのだが、その魚の気配がゆらぐことがあるという。巧みなイメージ化によって自分が生きてきたことを振り返っている。
 「峠」は切り通しを歩いている作品。水音がして流れる水が道を濡らしているのだが、濡れているのは峠の片側だけで、反対側はいつも乾いているという。

   この世にはどこにでも峠があって たがいに反するものたちを 例
   えばこの切通しのように 仕切っているのだろう。それにしても不
   思議なことよとふと耳を傾ける。ここまでわたしを導いてきた水音
   がまだかすかに聞こえている。わたしの細胞のなかには 遠い地層
   が幾重にもたたみこまれていて 深い峠からこちら側に絶えず水が
   滲み出てくるのだろう。

 この世界に在る細かなものたちまでもが、何かのためにそこに在る。それは、「無鉄砲に生きても 生きられた若さ」(「手帳」より)の頃には気づかなかったことなのだろう。この作品を読んでいる気持ちのなかにも、それこそ水が湧いてきて、どこかを静かに濡らし始めるようだ。
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詩集「海町」  岩佐なを  (2013/05)  思潮社

2013-07-21 18:49:35 | 詩集
 125頁に28編を収める。表紙カバーや本文中に著者の銅版画が載っている。
 巻頭の「海町」は20頁、270行に及ぶ作品。「かまくらの先」にある町を舞台にして、叔父をはじめとした人々が時の流れも超越したように交差する。印象的なこの作品については詩誌発表時にも感想を書いている。
 岩佐の作品では不気味なユーモア感覚も至るところで顔を出している。「×」という作品では、「朝おきると」「つかわないじぶん」と「つかえないじぶん」があるというのだ。だから毎朝「ひらがなを書くふうにさすって」「いのちを吹き込む」のである。

   いつかの朝ほんとうに
   つかわなくなったじぶんを
   丁寧にさすってやると
   黄金色に全身が輝くこととなり
   それこそがさいごのひかりだろう
   だがいまは
   ふしぶしを揃えほねを整え
   にくを着る

 肉体的な感覚ではよく判るものがある。しかし理屈で説明しようとすると全く判らなくなる。岩佐の作品の魅力、面白さははそんなところにある。
 こうして作品はどこまでもぐいぐいと押し出されてきて、どこまでもぐいぐいと進んでいく。表現されたいものが発散する傍若無人な迫力がある。それにひきかえ共に在る銅版画はどこまでも繊細である。双方が一つになって指し示す地点は、やはりどこか不気味だ。
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詩集「微風計」  平井君代  (2013/04)  私家版

2013-07-19 17:57:43 | 詩集
 第3詩集。83頁に、20行から30行の見開き頁で収まる長さの作品37編を収める。
 生活の周りに見かける事柄がていねいに拾い上げられ、そこに優しい感情が生まれてきている。たとえば、部屋の絨毯に小さな光が射し込んでいる情景を詩った「冬日」は、

   風が動くたび
   暗号文字が雲のように浮かんでくる
   あなたから ですね

   こんな昔ばなし日和には
   あちらに住む人が
   不意にやってきたりするのです

 また、「時の歩幅」は、反対車線の車の中やしまりかけた地下鉄のドア付近、旅行先の空港ですれ違う人に、見知っていた人たち、死者たちの面影を見てしまう作品。その面影の人たちは不意に大股で近づいてきて、次の瞬間には去ってしまうのだ。

   「だるまさんがころんだ」
   早口で数えて振り返れば
   あのとき止まったままの人たちが
   すぐそこにいてくれるだろうか

 誰でもが日常生活の中でふっと出会うような情景である。詩集のタイトルのように、その情景から生じる気持ちの中を吹き抜ける微かな風を感じ取っている。それを充分に抑制された言葉で書きとめている。
 今は居ない人もいるので哀しみも当然のようにあるのだが、その気持ちにも抗うことなく受け入れようとしている。とても気持ちが穏やかになってくる作品ばかりであった。
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詩集「羽曳野」  山田兼士  (2013/07)  澪標

2013-07-11 21:39:55 | 詩集
 還暦を迎えるのに合わせて出版された第3詩集(奥付けの発行日は著者の誕生日となっている。私事になるが私(瀬崎)と同じ誕生日であり、私も詩集を還暦の年の誕生日に発行した)。87頁に24編が収められている。
 芭蕉の句やボードレールの詩句を各行の頭に並べた作品、回文をタイトルにした作品(「さあラフマニノフ野にマフラアさ」)もあり、随所に遊び心も感じられる。
 「あぶないあぶない/もうちょっとで死ぬところだった」と始まる「キリン」は、急に意識が薄れて病院に搬送された作品。何の疾病かは不明だが、緊急手術もおこなわれたようだ。そんな事態に遭遇して、手術を明日に控えた窓の端からはキリンが見えるのだ。

   キリンにたずねてみると
   ただよう父の気配 母の気配 ついでに兄も
   キリンのまわりをただよいながら
   まだ来るんじゃないよ と ほほえんでいる。

 不安を見つめてくれている存在があり(作品「阿部野橋」を読むと、実際に病院近くの動物園に二匹のキリンがいたようだ)、さらに故人となっている肉親が励ましてくれている。誰もが感じることのできる普遍的な思いが伝わってくる。
 第3章「萩原朔太郎の詩碑」には、第1詩集「微光と煙」の作品にも通じるような、詩論から浮遊してきた著者独特の作品が収められている。

   書くときの私は呼んでいる。
   像は像を呼び観念は観念を呼ぶ
   それらのテクストを編んでいるのは私だ

   (略)

   書くときの私は呼んでいる あなたを
                      (「書くときの私は」より)
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